過恋
2.

 ほんの少し寒気が緩んだ二月半ば、律子は大学最寄り駅のベンチに座って人を待っていた。
 道すがら立ち寄った例の居酒屋には、やはり腕時計は保管されていなかった。航太が保持しているのだろう。連絡を取るのも面倒だと思いつつ、律子はメールで苦情申し立てをしておいた。
 待ち合わせの相手は、緩くウエーブのかかった長髪を悠然となびかせて姿を現した。自分から呼び出しておいて二十分も遅れたのに、一向に悪びれた様子がない。美園は律子と同じ研究室に所属し、丸二年の付き合いになるが、約束の時間通りにやってきたことなど一度もなかった。いちいち腹を立てるのも馬鹿馬鹿しい。律子は投げやりに尋ねた。
「で。何?」
 美園は手ぐしで髪をまとめつつ、律子の隣に腰を下ろした。
「航太、知らない?」
「は? あんたも私とあいつが切れてないと思ってるわけ。」
 美園の手が伸びて律子の眉間を撫でた。
「何すんの。」
「皺になるよ。」
「余計なお世話。」
 むくれつつ、律子は眉間と口元に触れた。くっきりと刻まれた皺に驚いて笑顔を作る。
「……ん? 航太知らないってどういうこと?」
「電話しても繋がらないんだ。もうかれこれ二週間。」
 二週間、という言葉を耳にした途端、律子は居酒屋でへらへら笑っていた航太の顔を思い出した。美園に動揺を悟られぬよう、平静に努める。
「部屋には行ってみた?」
「んーん。たるい。」
「たるいって、あんた。」
 応えずに、美園は緩慢な動作で鞄を開いた。もしや航太とうまくいっていないのか。よぎった不安を律子はすぐに打ち消した。もしうまくいっていないのなら、うまくいくように仕向けてやればいい。
 かちゃりと金属の触れ合う音がした。細い指に摘み出されたものに驚いて、律子は罵声を寸でのところで飲み込んだ。
 なめし革の楕円形のプレートに帆船が描かれ、『KOUTA』と縫い取りがしてあるキーホルダー。それは、他ならぬ律子自身が昨年、航太の誕生日に贈ったものだった。リングからぶら下がっている鍵も、半年前に彼女がつき返した合鍵であろう。特徴的な傷が走っていて、別物とは思えなかった。
「ちょっと様子見てきてくんない?」
 合鍵を直視できず、さりとて完全に無視を決め込むこともできず、ちらちらと盗み見ていた律子は悲鳴を上げた。
「はあ! ちょっと、何で私が? 関係ないじゃん私。」
「関係ないと言い張りますか。」
 糸目が薄く開いて物騒な光り方をした。もしや美園は、キーホルダーの来歴を知っているのだろうか。身構える律子に彼女は指を突きつけた。
「ホシは上がってるんだから。」
「星?」
「航太が音信不通になるちょっと前に会ってたって聞いてるんだ。」
「……何のこと?」
「晴江がいってたよ。」
 あのお喋り。律子は心の中で舌打ちした。航太が美園を口説いていると知っていたろうに、余計なことを。美園と航太が破局したら晴江のせいだ、しっかりと責任転嫁までしておく。
「一人暮らしだし、淋しく寝込んでるかもしれない。可愛い彼女がお見舞いいったら喜ぶよー、きっと。」
「何であたしが見舞わなきゃいけないのよ。律子、あの人と付き合い長いんでしょ。」
「何でって……美園さん。もし航太が部屋にいたとするじゃないですか。そんなとこに昔の女と弱ってる男を二人っきりにするのはどうなんですか。」
「どうも何も、切れてんでしょ。問題ないじゃん。」
 そうでしょ、と同意を求められ、律子は不承不承頷いた。おかしな誤解をされるのはまっぴらだ。しかし、納得がいかない。
「でもさあ。」
「どーせ手出しされそうになっても律子は死に物狂いで抵抗するだろうし。」
「もー。分かったよ、行ってくればいいんでしょ。」
「そーいうこと。よろしくね。」
 美園の手から鍵が滑り落ちた。両手で受け止めつつ、律子は彼女に釘を刺すのを忘れなかった。
「言っとくけど。私、あいつの部屋に忘れ物があるから、それを取りに行くだけだからね。ついでだよ、ついで。」
「はいはい、分かってるから。律子さんが航太と縁きりたがってんのはよーく存じておりますとも。誰か紹介してあげようか。」
「う、飢えてないよ!」
「そうかな?」
 にんまりと笑って美園が首を傾げる。晴江といい、美園といい、他人をからかって遊ぶものが周囲に多いのはどういうことだろう。律子は確信した。航太の趣味は底意地の悪い女なのだ、と。



 航太の住むアパートの最寄り駅は大学から二駅上ったところにあった。急行の止まる駅で、半月前に律子たちが出向いた居酒屋のある中川駅の三つ隣りに位置する。駅前には百貨店や飲食店が並び、少し歩けば住宅地が広がる、ありふれた郊外のベッドタウンだ。
 病人にはビタミンCが大事である、という持論の元に律子は商店街で甘夏を二つ買った。重い足取りで航太の部屋を目指す。女を口説くときはマメな航太なのだから、音信不通になるということは、恐らく体調を崩しているのだろう。実際、彼は律子と付き合っている間も発熱したときには連絡を断った。二週間も連絡を寄越さないということは、相当弱っているに違いない。
 半年ぶりに訪れたアパートは平日の昼間ということもあってか静まり返っていた。階段を一段上るごとに靴音が響く。気乗りしないまま、二〇三号室の前で足を止め、チャイムを鳴らした。
 しばらく待ったが人の動く気配がない。もう一度、チャイムを鳴らした。やはり返答がない。
 律子は渋々と鞄のポケットから合鍵を取り出した。また、この鍵を使う日が来ようとは。開錠すると恐る恐るノブを回した。
「航太、生きてる?」
 澱んだ空気が鼻をついた。律子は顔をしかめると玄関に荷物を放り出した。靴を脱ぎ捨て、薄暗い部屋をつっきってカーテンと窓を開け放つ。
 綿埃が舞い上がった。
 律子は振り返って室内を見回した。航太がいない。外出しているのだろうか。
 意外なことに部屋の中はきれいに片付いていた。かつては、油断すればすぐに万年床となった布団が押入れにしまわれている。折りたたみのテーブルも脚を畳んで立てかけてあった。出しっぱなしだった洗濯物干しもない。
「なーんだ、やればできるんじゃん。甘やかすんじゃなかったなあ。」
 航太は病気で寝込んでいるわけではないようだ。拍子抜けして部屋を一周してみた。
 流しに立つと、三角コーナーにごみがなく、シンクが乾ききっていた。シンクだけではない。ユニットバス、トイレや洗面台も全く濡れていない上にタオルがからからだ。
 何気なく冷蔵庫を開けて律子は絶句した。食品が一切、入っていない。ペットボトルすら残されていなかった。
 部屋の真ん中に腰を落とし、深呼吸した。航太が何日間留守にしているのかは知らないが、要するに卒業旅行に行っているのだろう。もしくは里帰りか。どこか違和感を覚えつつ、律子は腕時計を探すことにした。
 記憶に違わず、押入れ下段に据えられたチェストの一番上の引き出しに細々とした物が収納されている。だが、チェストの脇のクリアボックスの中もかき混ぜた挙句、腕時計が見つからなかった。
 途方にくれたとき、右手に固い感触があった。覗き込むと、パールホワイトの携帯電話が入っていた。何故、電話を置き去りにするのだ。海外旅行に出ているのか。しかし、美園に断りなく長期外出するだろうか。
 充電器も引っ張り出してコンセントに繋ぎ、律子はフリップを開いた。電源を入れる。
『留守録あり』
 頭を抱えつつ、電源を切ると、自分の電話を手に取った。録音メッセージがいっぱいになっていなければいいが。憂鬱な気分で発信ボタンを押す。
 呼び出し音が聞こえた。一回、二回、三回。
 律子は戦慄した。この回線はどこに繋がっているのだ。
 慌てて終話ボタンを押す。航太の電話に手を伸ばしかけ、やめた。リダイヤルすると、八回呼び出し音が鳴った後、留守番電話センターに接続された。
「律子だけど。私の腕時計、どこにあんの? それと、美園が心配してるから連ら」
 連絡しなさいよ、と言おうとしたが途中で時間切れとなった。盛大に溜息をついて、航太の電話を手に取った。電源が入っていない。当たり前だ、先程、律子自身が切ったのだから。
 電源を入れて番号を確かめてみたが、律子の登録したものとは違う番号が表示された。
 この電話は誰のものなのだろう。良心の呵責を覚えつつ、今は非常事態なのだと自分に言い聞かせて着信履歴を開いてみた。

[01 01/31 15:28 聖子]
[02 01/31 19:51 浩美]
[03 02/02 09:46 聖子]
[04 02/02 11:03 このみ]
[05 02/02 17:22 梢]
[06 02/02 21:35 幸子]
[07 02/02 22:00 聖子]
[08 02/03 12:42 智花]
[09 02/03 18:54 寧々]
[10 02/04 20:15 聖子]

 見事に女性の名前しかなかった。律子は叫びだしたくなるのを堪え電話帳も開いてみた。

 秋菜・彩・あゆみ・郁代・うらら・絵理・悦子・香澄・和美・清実・杏子・恵子・梢・このみ・幸子・さつき・里子・静・志穂・涼美・聖子・智花・知佐・巴・奈緒・寧々・望・ハツセ・晴江・弘子・浩美・雅子・美園・美奈・愛・萌子・桃恵・弥生・優香・佳子・律子・若葉

 眩暈がする。やはり女性だけだ。しかも苗字でなく名前で登録されている。自分の名前を見つけ、登録抹消してやろうとしたが、勝手に消すのもまずかろうと思い直した。
 再び履歴を眺め、五日間に四回も電話している『聖子』の用事は大丈夫なのだろうか、と他人事ながら心配になった。勿論、律子が気を揉んだところで彼女の問題を解決しようがないのだが、航太に振り回されている同性の人間というだけで協力したくなってしまうのだ。
 こう思う人間は少ないのだろうか。いっそのこと『航太がひとところに落ち着くよう陰から手回しする会』を結成してみたらどうか。想像してみて、すぐに失敗例が頭を掠めた。晴江と美園が参加した時点で厄介ごとが起きるに決まっている。
 けたたましく着信音が鳴り出した。呆然とする律子の前で、航太の電話はメールを大量に受信している。いくらなんでもメールを無断で読むわけにはいかない。
 八方ふさがりとなり、美園に連絡を取ろうとしたが、彼女は捕まらなかった。仕方なく報告メールをしたためる。
 喉が渇いた。マグカップをわしづかみ、蛇口を捻ると黄色っぽくかび臭い生水が溢れ出した。むっとしてマグカップを元に戻す。テーブルと座布団を部屋の真ん中に据え、甘夏を剥いた。酸っぱい果肉を頬張りつつ、これからどうしようかと考え込んだが答えも出ない。
 とりあえず、昼食が済んでいない、と思い出した。ついでに食事を取ろうと近所のコンビニエンスストアへ一走りし、オムライス弁当と緑茶を買う。レジに並ぶ間も上の空だった。航太は今、どこにいるのだろう。
 ゆっくりと航太の部屋に戻り、ドアを乱暴に開けた。
 なんだ来てたんだ、という能天気な言葉を期待したが、やはり部屋はもぬけの殻だった。




>>release  May 23, 2003

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