過恋
3.
 弁当を平らげると律子は再度、チェストとクリアボックスを引っ掻き回したが、腕時計は見つからなかった。航太に直接尋ねるしか道はないようだ。
 手がかりを求め、航太の携帯電話のメモリを呼び出し、つぶさに眺める。四十人近い名前の中、一つだけ『ハツセ』とあるのが気になった。若い女性の名にしては珍しい。苗字かもしれない。他の娘とはどこかが違う筈だと藁にも縋る思いで番号を表示し、自分の電話でかけてみた。
 コール音を聴いた瞬間、もしも老女の名だったらどうしようかと不安がよぎった。いや、いくら航太が女好きでも、老女には求愛しないだろう。そう思いたいところだ。
「もしもし。」
 たった二コールで繋がり、心の準備をする暇もなかった。訝しげな男の声に律子は驚き、少し安堵した。老女ではなかった。
「も、もしもし。ハツセさんですか?」
「そうだけど。どちらさまですか。」
「私、尾崎っていいます。……杉坂航太の知り合いなんですけど。」
「航太の知り合い?」
 彼は不機嫌そうに声のトーンを落とした。
「あ、怪しい者じゃないんです、切らないでください!」
「航太の知り合いが、俺に何の用があるっていうんだ。」
「航太がいなくなったんです。」
「は?」
「二週間以上音信不通で、部屋にも帰ってないみたいで。」
「そりゃ実家にいるってことだろう。」
「でも、部屋にケータイが置きっぱなしなんです。女の子の番号しか入ってないのが。」
 彼はしばし沈黙した。律子もつられて黙り込んだ。
「えーと。あんた、名前は?」
「尾崎です。」
「尾崎さん、航太とつきあってんの?」
「いえ、かなり前に別れました。」
「じゃあ、なんでケータイのこと知ってんだ。部屋に行ってみたのか。」
「今の彼女からスペアキーを借りて部屋の中に入りました。あいつから返してもらいたいものがあるので。」
「今の彼女は航太がどこにいるか知ってんじゃないの。」
「全然、心当たりがないみたいです。元彼女に訊くくらいですしね。」
 彼は短く唸った。律子の耳に、その唸り声は渋っているように聞こえた。
「あの。突然お電話してしまってすみませんでした。でも悪戯ではないんです。本当に航太が行方不明で。」
 行方不明、と改めて口にすると唇が震えた。言葉の重みに律子は押しつぶされかけて、強く電話を握った。
「もし何かご存知なら教えていただけませんか。お願いします。」
 電話の向こう側からかすかに苦笑が伝わってきた。
「生憎、俺も何も知らないんだ。」
「そうですか……」
「何か急用でもあるの?」
 彼には事態の異常性がぴんとこないのか、元々冷静な性格なのか、受け答えに余裕が感じられる。
「いえ、急ぎってわけではないんですけど。」
 腕時計がないからといって特に生活に困りはしない。だが、このまま放り出しておくのも気持ちが悪いのだ。煮えたぎった頭がゆっくりと冷えてきて、律子にもちょっとした思考の余地が生まれてきた。
「そういえば、ハツセさんは航太のお友達なんですか。」
「友達っつーか腐れ縁というか。」
「私もそうです。」
 思わず律子は笑ってしまった。女とばかり付き合っている航太にも同性の友人がいたのだ。妙に安心する。
「笑い事じゃないって。」
 ハツセが溜息をついた。
「あー、しばらく音沙汰ないと思ったらこれだよ。ったく、本当に人騒がせな。」
「つきあい長いんですか?」
「中学からだから、かれこれ十年近くになるのか。」
「十年!?」
 中学の頃から航太は節操なしだったのか、それとも、案外純情な少年だったのだろうか。純情な男子中学生の航太など、とても想像できない。
 自分も十年後まだ航太と付き合いがあるのだろうか。それまでには身を固めてしまおうと、当てもないのに打算的な考えが頭をよぎる。
「今日これから時間ない?」
「えーと、特に予定はないです。」
「なら、もう少し詳しく話を聴かせてほしいんだけど。」
「分かりました。それじゃ、今、航太の部屋にいるので来てもらえませんか。」
「萩が丘でいいんだよな。三十分くらいでつくと思う。」
「お待ちしてます。」
 相手に見えるわけでもないのに愛想笑いを浮かべ、律子は携帯電話を置いた。
 床に仰向けになって体を伸ばす。ハツセがやってくれば、問題児のことで苛々するにしても気が楽だ。問題が解決したわけでもないのに気が緩み、ごろごろと転がった。
 さしあたって暇である。CDラジカセに手を伸ばすと中身も確かめずに再生してみた。
 物悲しいオルゴール音が静まり返った室内に響いた。
 通り過ぎたクリスマスの思い出を噛み締める歌詞が共感を呼ぶのか、世間でもこの歌はクリスマスの定番曲となっている。律子も好きな曲ではあったが流石に季節外れだ。しんみりした気分で早送りする。白いアルバムジャケットを引き寄せて曲目をぼんやりと眺めた。
 九曲目に意識が吸い寄せられた。航太はこの歌が一番好きだと言っていた。
『この歌の男の気持ち、凄いよく分かるんだよな。』
『どんな歌だっけ?』
『傍にいてくれ、お前だけが俺を癒してくれるから、ってヤツ。』
『へえーそうなんだーふーん。』
『あっ、信じてないだろ!』
『何人の女の子がその言葉に騙されたかねえ。』
『律子にしか言えないよ、こんなこと。』
『はいはい。』
 付き合い始めたばかりのあのときは、鼻で笑ってみせても、ほんの少しだけ嬉しかった。
 律子は慌てて四曲目を流した。君を傷つけてしまった、と後悔の言葉が耳に飛び込んできて、CDを止めた。
 気分転換に雑誌でも読もう。無造作にマガジンラックに手を伸ばし、はっとする。部屋のどこに何があるのか分かってしまう。自分と別れてからしばらく経ち、女の出入りも多々あったろうに、室内のおおまかな配置が変わっていなかった。
 律子はうつ伏せに倒れた。独りで黙ったままこの部屋にいるから余計なことばかり考えてしまうのだ。早くハツセがやって来ないだろうか。
 どのくらいの間、悶々としていただろうか。チャイムが鳴った。
 律子は喜び勇んで扉を開けた。勢いあまってチェーンががちんと悲鳴を上げる。
「尾崎さん?」
「はい、尾崎です。ハツセさんですよね。」
 彼はこっくりと頷いた。部屋に上がると首を巡らせ、感嘆する。
「ひえー、こんなにきれいなのは上京したての頃以来だ。」
 押入れから座布団を引っ張り出し、律子は立ち尽くした彼に勧めた。
「どーも。」
「あの、ハツセってどういう字を書くんですか。」
「初めてのハツに浅瀬のセ。何で?」
「このケータイに片仮名で登録してあったので。」
 パールホワイトの携帯電話を見せると、初瀬はメモリを確認してちらっと苦笑した。
「まだ残ってたんだな。」
「どういうことですか?」
「俺の番号が変わったとき、あいつ、ケータイ持ってなくてこっちに登録したんだ。」
「……これは航太のなんですか?」
「そうそう。あいつ、ケータイ二つ持ってて使い分けてんだよ。」
「あ、それで……」
 律子は呆れるより前に納得してしまった。初瀬が眉をひそめる。
「それでって?」
「さっき、留守電にメッセージを吹き込むときにコールがあったので。」
「尾崎さんが知ってたのはこっちの番号じゃないんだな。」
「そうなりますよね。」
 初瀬は少々考え込む素振りをみせた。
「尾崎、何さん?」
「律子です。」
 初瀬は落とし穴に引っかかった人間を前にしたような表情になった。
「ちょっと、なんなんですか、その他人を哀れむような目は。」
「いやあ……そっか、あんたがあの律子さんだったんだ。」
「航太が何か言ったんですか。」
 平静に努めようとしたものの、声が裏返ってしまった。初瀬は益々気の毒そうに顔をしかめた後、そっと律子から視線を外した。しかし、かすかに目が笑っている。
「何とか言ってくださいよ。」
「……」
「いえっちゅーに。」
「俺の口からはとても。」
「なかなか素敵な性格してるじゃないの。」
「誉めてくれてありがとう。」
「んなわけないじゃんか。」
 そりゃそうだ、と初瀬は肩をすくめた。律子が拳を震わせると、緩んだ口元を引き締める。
「とにかく、あっちのケータイは通じるんだろ。で、留守電も入れた、と。カリカリしなくても、そのうち向こうからかかってくるんじゃないか。」
「カリカリなんかしてませんっ。」
「今まではどのくらいでコールバックがあった?」
「大体その日のうちには。夜だったら翌朝かな。」
 初瀬が目を剥いた。
「んだよ、それ! あいつ、ホント女にはマメだな。」
「初瀬さんの場合はどうなんですか。」
「俺なら一週間放置される。そのくせ、こっちが連絡忘れるともの凄く責められるんだ。理不尽だよなー。」
「航太らしい。」
 律子は笑いながら甘夏を半分に割ると、片方を初瀬に渡した。
 礼を言って、甘夏の薄皮をむしりつつ、初瀬は横目で律子を見た。
「何で航太と別れたんだ?」
「つきあいきれないから。」
「未練はないわけ。」
「ないね。」
「随分、さばさばしてんだな。」
「割り切っちゃったもん。あいつの女好きはある種、病気だって。でも私は自分の恋人が浮気してんのを笑って許せるほど人間できてない。」
 甘夏の汁が妙に酸っぱい。律子は薄皮を剥く手を休めた。
「で。その後、彼氏は?」
「いないよ。言いにくいことをさらっと訊いてくれるね。」
「ちょっと気になって。悪いな。」
 悪いと思うなら尋ねないでもらいたい。
 むっとした律子を気遣ってか、初瀬は話題を変えた。軽く世間話をした後、互いの身の上話に及ぶ。彼は律子や航太の通う大学の経済学部に在籍しているらしい。航太とは中学で知り合い、高校は別だったものの、時折会ってはいた。そして、気がつけば同じ大学に入学し、卒業を間近に控えている。
「航太の浮気癖っていつから?」
「俺が付き合い始めた頃にはもう、年上の女と遊びつつ同じクラスの奴に迫ってたような。」
「やっぱりそうなんだ。改めて言われると頭にくるなあ。」
「でも、ありゃ意図的にやってるわけじゃないし。」
「なおさら悪いって。無意識じゃ直しようがないじゃん。馬鹿にしないでほしい。もっとも」
 律子は航太の電話を摘み上げた。
「こうやって使い分けてるとこをみると、まるっきり無意識ってわけでもなさそうだよね。」
「あいつのこと庇うつもりはないけど、あいつ、あんたのこと傷つけたって反省してるよ。」
「そうなの? とてもそうは見えない。」
 初瀬は苦笑して立ち上がった。
「あんたは、これ以上ここにいてもいいことなさそうだ。出ないか。」
「うん、感情的になっちゃってよくないね。」
 律子は頷いて、やや強張った初瀬の頬を見上げた。そういえば、初瀬も被害者なのだった。しかも直接的な加害者は律子自身だ。
「八つ当たりしてごめんなさい。巻き込んだのも私だし。」
「いーよ別に。航太絡みのトラブルには慣れてる。」
 初瀬は器用に片眉だけを上げた。
「航太から連絡あったら一応、俺にも知らせてくれない?」
「分かった。色々ありがとう。」
 律子はぎこちなく笑顔を作ってみせた。




>>release  Jun 18, 2003

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