過恋
4.
 ところが、一週間待っても航太からの連絡はなかった。
 航太の部屋から引き上げたその日の晩、翌日、と律子は気を揉んだ。一日に何度も着信をチェックし、溜息が増えた。アルバイト先では様子がおかしいと指摘され、いいかげんな事を口にして取り繕うこともあった。連絡を待ち侘びる自分に嫌気がさし、携帯電話の電源を切ろうとしてやめた。
 聞けば美園や晴江にも連絡がないという。流石に二人とも心配を隠さない。連絡があったらすぐに知らせるからとなだめておいた。
 初瀬に電話したところ、彼も余裕のない声で応じた。意見をつき合わせて、もう一度航太の部屋へ行くことにする。
 勢いあまって律子は約束の一時間前に駅に着いてしまった。暇つぶしに百貨店に入り、春服や新作化粧品など見て回ったが、身が入らない。手土産にベルギーワッフルを買うと改札口で初瀬を待った。
 所在無くコートのポケットに手を入れると合鍵が触れた。取り出して放り上げてみる。受け止め損ね、足元に落としてしまった。
 屈んで拾おうとした律子の目の前で、男の手がキーホルダーを摘み上げた。
「捨てるには早くないか。」
「捨てちゃいたいよ、まったく。」
 初瀬がぎこちなく微笑んだ。些か顔色が優れないように思われる。
 律子は時計に目をやった。待ち合わせの十五分前、まだベルギーワッフルも温かい。いっそこの場で開けてしまおうか。
「早いね。」
「あんたこそ。何分前に着いた?」
「五分前だよ。」
 本当のことを言うのも癪でさばを読んでおいた。
「ときに初瀬さん。何だか元気ないんじゃない。」
 初瀬の笑顔が消えた。
「面倒なことになった。」
「どういうこと?」
「……いや、航太の部屋に着いてからにしよう。」
 ならば、と世間話を試みたが言葉が上滑りしていくばかりだった。どちらからともなく口を閉ざしたまま、二人は航太の住むアパートに辿り着いた。
 室内は先日、二人が訪れたときと全く変わり映えしなかった。
 気まずい空気を払拭したくなり、律子はことさら軽い声色を作ってぼやいた。
「ちょっとだけ期待したんだけどな。」
「ここにいるのを?」
「そう。適当な理由は思いつかないし、都合のいい話なんだけどね。もしかしたら航太は私らに会いたくなくて連絡しないだけかもって。」
 新たに女と知り合い、彼女に入れあげてしまって過去の女たちと縁を切りたくなったのだとしたらどんなにいいだろう。やり方こそ褒められたものではないが、航太が一人の女に落ち着くのならば、律子にはいつでも手放しで祝福できる自信がある。
「実は居留守使ってるんじゃないかってね。」
 初瀬の顔が曇った。律子は思わず身構えてしまった。
「昨日、航太の実家に電話したんだ。」
「え、じゃあ直接あいつと話したわけ?」
「いや。あいつ、実家に帰ってなかった。」
 律子の顔がみるみる青ざめた。
「どういうこと?」
 初瀬は缶コーヒーを呷った。
「弟が出たんだ。今年になってから一度も帰ってないらしい。仕方ないから、どっか女のとこをほっつき歩いてるらしいってフォローしといた。」
「つまり、失踪したってことか。」
「そうなるかな。」
 律子は言葉もなく唇を噛んだ。
 初瀬は深々と溜息をつくと、ベルギーワッフルに大口開けてかぶりついた。
「甘い。……警察に届けるか。」
「ううん、まだ心当たりはあるよ。」
 律子は充電器に挿したままの携帯電話を手繰り寄せた。
「まさか、メモリ登録されてる女にかけあうつもりじゃないよな。」
「そのまさか。」
「んな無茶な。」
「無茶でも何でもやるったらやる!」
 律子の手の中でペットボトルがひしゃげ、中身が少しだけ飛び出した。
「あんた、仮にもあいつの友達なんでしょ、心配じゃないの!」
「だから専門家に任せようっつってんだろ。」
 初瀬にまっすぐに見据えられ、律子はたじろいだ。
「何かの事件に巻き込まれた可能性だってある。入院はないだろうけど。入院してれば多分、家族に連絡がいくしな。」
 律子は口を歪めた。素人だからといって手をこまねいて待つだけしかできないのか。
 もう一週間も待った。これ以上、耐えられない。
 航太の携帯電話を開き、着信履歴に目を通した。この娘たちはまず航太の行方を知らないだろう。続けてメモリを開いた。
「尾崎さん。」
「手伝って。この中に初瀬さんの知り合いがいたら航太の動向を知らないか訊いてください。」
 メモリの半数は二人の知り合いで占められていた。状況が状況だけに、匙加減が難しい。必要以上に深刻な雰囲気になって相手の不安を煽らないように、かといって砕けた態度で接して嫌がらせや冗談ととられてしまっても困る。下手なことを言って騒ぎを大きくしてしまったらどうするのだ。初瀬は滔々と律子を諭したが、結局根負けしたのは彼の方だった。
 二人で片っ端から電話をかけてみた。女たちの反応はまちまちだった。気の毒そうな声を上げる者、さも他人事であるように馬鹿笑いする者、律子と航太の関係を興味深々に聞き出そうとする者、悪戯はやめろと怒鳴って切る者、逆に航太の行方を熱心に尋ねてくる者、もう航太と関わるのはごめんだと呟く者。共通していえることは、ここ一月の間、航太の姿を見た者がいないということだった。何名か掴まらない者がいたため、時間を置いてかけなおすことにして二人は別れた。
 路肩の消えかかった白線の上を律子はゆっくりと歩いた。いつも同じ道を歩いているのに律子の心情は一定ではないのだ。何人かで航太の部屋へ遊びに行った日も、初めて一人で訪れた日も、つきあい始めた頃も、愛想をつかして別れを切り出した日も、そして今も。駅まで送るよ、と隣を歩いていた航太は何を考えていたのだろう。律子には、いつだって彼の考えていることをすんなり理解できたためしがない。だが、少なくとも航太はあの部屋にいて、出迎えてくれた。
 今、航太は何を考えているのだろう。一体どこへいってしまったというのだ。幾度となく繰り返した問いの答えはこの時も出なかった。



 どうにか女たちと連絡をつけた後に初瀬と再会した。彼は一人だけ掴まらなかった娘がいるといった。
「なんていう人?」
「篠浦……桃恵。」
 歯切れの悪い返答に律子はいたく好奇心をくすぐられてしまった。
「知り合い?」
「中学のときのクラスメイト。」
 初瀬は渋い表情を崩さない。
「なーに、もしかして元カノ?」
「違う。」
「それにしてはビミョーな顔してるけど。んーじゃあ航太の元カノ?」
「それも違う。」
「じゃあ何だろう。」
 初瀬が腕を組んだ。
「篠浦、関係ないといいんだけどな。」
「関係ありそうな人なんだ?」
「篠浦は思い込んだら命がけなんだよ。」
 言葉の意味が掴めず律子は首を傾げた。
「言いづらいんだけど、篠浦は同学年の奴にフラれて自殺騒ぎを起こしたことがある。」
「うわっ。そりゃ確かに言いづらいわ。」
「だろ。仮にあの二人がつきあってるとする。で、何かの拍子で篠浦が航太のケータイ見てみろ。血の雨降るって。」
「怖い。想像したくない。」
 律子はテーブルに頬杖をついた。篠浦の名を口の中で反芻してみる。
「ちょっと待った。これだけコンタクトとってみても何も分かんなかったじゃん。だったらさ、その篠浦さんが何か知ってるかもしれないよね。」
「無闇に他人を疑うのはよくない。」
「う。ごめんなさい。」
 律子は小さく頭を下げた後、それじゃ、と上目遣いになった。
「篠浦さんが関係ないって証明して、すっきりしようよ。」
「ああいえばこういうって、あんたのためにある言葉だな。俺はもう厭だぞ。三日間、電話し続けて繋がんなかったんだ、俺とは縁がないってことだよ。」
「本人と連絡つかないんだったら周りから攻めてけばいいじゃん。」
「んなお前、他人事だと思って……」
「じゃあ私がやるから、仲良さそうな人の連絡先、教えてよ。」
「やりゃーいいんだろ、やりゃあ!」
 初瀬はさも大儀そうに携帯電話を取り出した。無理をいっていると自覚があり、断られるとふんでいた律子は拍子抜けしてしまった。
「何見てるんだよ。」
「他意はないよ、うん。」
 初瀬は頬を歪めたが何も言わなかった。
「航太が見つかったら打ち上げしようね。」
 目元が少々和らいだ。
 店を出て行く彼の背中を見送って、律子は粉っぽいココアを口に含んだ。
 ファーストフード店の二階席には放課後であるためか学生の姿が多い。隣のテーブルでは制服姿の少女たちが笑いさざめいている。白っぽい照明がブラウスの襟を眩しく浮かび上がらせていた。
「えー、じゃあ指輪買ってもらうわけ?」
「いーなー。」
「ミツコの彼氏って優しい人ばっかだよねー。」
「だって普段は忙しくて中々会えないし、たまにはわがまま言いたいよ。」
「でもさ、ちゃんとホワイトデーに時間とってくれたじゃん。」
「まーね。」
「で、指輪も買ってもらえて。充分でしょ。」
 航太と付き合っていた半年の間にはいわゆる恋人同士のイベントというものがなかった。かろうじて航太の誕生日だけは祝ったが、それだけだ。しかし、かえってそれで良かったのかもしれない。
 律子は昔からもらい物を処分できない性質なのだ。いまだに中学生のとき配られた教育実習生の挨拶状がファイルの奥底に眠っていたりする。彼女とは当時も特に話した記憶がなく、彼女が担当した教科が何だったのかも、顔も思い出せない。おまけに挨拶状は藁半紙のコピーでクラス全員に一律に配られたものだ。宛名を手書きで記してあるわけでもない。とっておいても仕方ないのだが、処分し損ねて今に至る。
 もし航太から指輪などもらっていたらどうなっただろう。
 少女たちの会話に耳をそばだてていると、否応なく思い出の渦に巻き込まれていく。律子は気を紛らわそうと無料のアルバイト情報誌を取ってきて広げた。
 初瀬が戻ってくるまでに二回通読してしまった。
「成果あったぞ。ん、なに、バイト探してんのか?」
「いやいや、ちょっとね。で、どうだったの?」
「ああ。篠浦と仲良かった奴から電話番号聞きだそうとして失敗した。」
「それは成果って言うのかな。」
 鼻白む律子に構わず初瀬は空のトレイを重ねた。
「篠浦本人には会えないから、そいつから話聞いてくる。」
「いつ会うの?」
「今から。」
 律子は思わず吹き出してしまった。
「初瀬さんってさ、妙に行動力あるよね。」
「そうか? 普通だろ。」
 ついでにお人よしだと言いかけてやめた。へそを曲げられては堪らない。
「私も一緒に行っていい?」
 案の定、初瀬はいい顔をしなかった。
「大人しく報告を待ってろって。」
「そうできるなら、こうやって初瀬さん巻き込んで航太探したりしないと思わない?」
「それで俺を説得してるつもり。」
「まあ、言葉足りないけどね。」
「……好きにすれば。」
「サンキュー。」



 電車を二つ乗り継ぎ、更に鈍行に揺られて一時間、小ぢんまりとした駅に二人は降り立った。くしゃみをした律子に手袋を放り、初瀬はどんどん先を行く。置いていかれまいと律子は小走りになった。
 薄汚い雑居ビルが立ち並ぶ中、古びた喫茶店が一軒だけある。喫茶店の隣のビルには律子の知らないレンタルビデオ店の看板がかかっている。見上げてはじめて、隣の県までやって来たのだと実感した。
 初瀬が脇目もふらずに喫茶店へと入っていった。
 店内にはほとんど客がいなかった。カンと木の床を椅子の脚が擦り、ほんの一瞬シャンソンを遮る。左奥のテーブルについていた若い女が立ち上がり、訝しげな視線を律子に向けた。
 律子は愛想笑いを浮かべつつ鋭く初瀬に囁いた。
「ちょっと、私が一緒だってこと連絡してないわけ!」
「話せば長くなんだろ。」
 初瀬も囁き返すと女に向かって手を上げた。
「急に悪いな。」
「緊急だっていうからね……そちらの方は? 彼女?」
「違います。」
「航太の元彼女の尾崎さん。こっちは篠浦の友達の金沢愛な。」
 金沢は会釈して二人に席を勧めた。肩下に流された真っ直ぐな髪がさらりと揺れた。
 メニューを差し出しつつ彼女は首を捻った。
「話が見えないんだけど。どうして初瀬が、杉坂の元カノさんと一緒に会いに来るわけ。しかも知りたいのはモモのことなんだよね?」
「ええとですね……どこから話したらいいんだろ。」
「洗いざらい話せよ。端折ったら手がかり減るぞ。」
「長くなります?」
「はい、ちょっと。……いや、かなり。」
「じゃ、先に注文済ませちゃった方がいいと思いますよ。」
 注文した珈琲と紅茶が届き、冷めかけるまで、律子は一ヶ月足らずの間のことを金沢に話した。時折、初瀬が抜けた部分を補足する。
 話しはじめ、金沢は露骨に不快な表情をみせ席を立とうとした。しかし徐々に態度が軟化し、多少質問を挟みはじめ、大まかな状況を把握したようだった。
「つまり、モモが杉坂の行方を知ってるんじゃないかと思ったんですね。」
「はあ、行方とまではいかなくても、何か知ってたらいいなーと。」
「どうだろうなぁ。今はどうなってるのか知りませんけど、杉坂ってモモのタイプじゃないっぽいんですよね。」
 金沢の瞳がくるりと動いた。
「モモはどっちかというと体育会系っていうか、がっちりした人が好きだから。」
「確かに航太は貧弱な男の見本みたいな奴ですからね。吹けば飛びそうだし。」
 そう律子が眉をしかめると、金沢はくすりと笑った。
「尾崎さんは杉坂とつきあい長いんですか?」
「知り合ったのは二年前になります。でもつきあってたのは半年間だけですよ。」
「ああ、そんな感じします。別れた後も結構、仲良かったんじゃありませんか。」
「仲良くなんかないですよ! 腐れ縁っていうんです、こういうのは。」
「腐れ縁かぁ。」
 金沢の視線が律子から初瀬に移る。初瀬はたちまち仏頂面になった。
「他人事だと思ってるだろ。」
「んー、私とモモだって腐れ縁といえば腐れ縁だし。普通に仲いいけどね。」
「で、篠浦と仲良しの金沢さんはどう思うんだ?」
 金沢はグラスに残っていたティーオ・レを飲み干した。
「最近、連絡とってなくてね。一昨日メール送ったばっかなんだけど返事が来ないのよね。どんなに忙しくても翌日には返ってきたのに。」
「怪しい……ったら怒るか?」
「ううん、ちょっとおかしい。モモが初瀬のことシカトする理由なんてないと思うし。別に嫌われるようなことしてないよね?」
「ここ数日で何度も電話したからキャッチと間違われてるかもな。」
 金沢は苦笑いしてストローで氷をつついた。
「それはともかく。杉坂って萩が丘に住んでるんでしょ。」
「そうだよ。」
「モモ、今、中川に住んでる。」
 律子と初瀬は顔を見合わせてしまった。
「あの、隣の市にある中川ですか?」
「中川って……萩が丘からかなり近いよな。」
「落ち着いてください。とにかく、私、夜まで待って電話してみます。結果は明日、初瀬に伝えるってことでよろしいでしょうか。」
「是非! よろしくお願いします。」
 律子は深々と頭を下げた。
 それから話題は中学時代の出来事に移った。思い出話に花を咲かせる二人をよそに、律子の気持ちはだんだん落ち込んでいった。航太の顔を見たら何といって罵ってやろうか、そう考えて気分を高揚させようとするのだが巧くいかない。
 文句をぶつけて怒れるのならいい、もし空振りだったら。手がかりが得られなければ、今度こそ警察に駆け込むことになるのだろうか。
「尾崎さん、疲れちゃいましたか?」
 金沢に顔を覗き込まれ、律子は慌てて首を振った。
「大丈夫ですよ。」
 初瀬がゆっくりと壁の柱時計を振り返った。
「そろそろ帰るか。今から戻らないと遅くなるよな。」
「そうよ、気がきかないなぁ。」
 悪戯っぽく笑って金沢が伝票を初瀬に渡す。初瀬は伝票と金沢の笑顔を見比べ、肩をすくめた。
「気をつけて帰ってね。」
「色々とありがとうございました。」
「いえいえ、早く杉坂が見つかるといいですね。」
 金沢と別れ、駅のホームに立つと程なくして電車がやってきた。空席が目立ち、乗客は皆疲れた顔をしている。座席に並んで座ると律子は細く息を吐き出した。再び、家まで二時間半の小旅行だ。
「ここからちょっと行ったところに俺らの行ってた中学があるんだ。」
 初瀬が窓硝子に頭を預けた。
「へー、じゃあ実家の近くまで来たんだね。どうせなら寄ってけばいいのに。」
「また今度でいいよ。明日、用事あるから結局戻らないといけないし。」
 初瀬は頭を起こした。目を細め、車窓の外を眺める。
「金沢さんっていい人だね。」
「だな。」
「本当ありがたいよ。あの人に協力してもらえてよかった。」
 律子も外の景色に意識を向けた。金沢や初瀬、航太を育んだ土地は宵闇の中に沈んでいる。
「あのさ……初瀬さん、ありがとうね。」
 改めて口にすると妙に気恥ずかしくなり、律子は俯いた。
 返事がない。横目で様子を窺うと、初瀬は寝息を立てていた。彼も突然、友達の友達、つまり微妙な距離にある赤の他人に呼び出され、探偵の真似事などして疲れているのだろう。
 ありがとう。もう一度囁いて、律子も目を閉じた。
 夜の静寂を縫って、電車はゆるやかに人々を運んでいく。





>>release  Sep 19, 2003

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