過恋
5.
 塗料が少し剥げた扉の前で金沢が深呼吸した。律子と初瀬を振り返る。
「いい?」
 二人は黙って頷いた。
 駅前商店街を抜けてしばらくするとアイボリーの壁の三階建てマンションが見えてくる。その西側に造られた階段を上りきったところに篠浦桃恵の部屋はあった。地上からは子供たちがはしゃぎつつ家路につく様子が伝わってくる。空から滲む夕日が仄かに暖かい。だが、下界とは裏腹にマンションでは物音一つしなかった。
 桃恵も音沙汰がない、と金沢から初瀬に連絡が入ったのは二日前の晩だった。その話を受けて律子は躊躇いつつも同行を申し出た。金沢は渋るかと思いきや、極力桃恵を刺激しないという条件の下に許可した。もっとも、なし崩し的に同行する羽目となった初瀬は、律子が訪れるだけで相当な刺激なのではないかとぼやいていたが。
 道すがら金沢は、桃恵がメールの返事を寄越さないときは十中八九トラブルの渦中にいるのだとこぼした。律子は余計に不安を掻き立てられたが、現地まで辿りついてしまった以上引くに引けないのだった。
 律子と初瀬が距離をおいて見守る中、金沢はチャイムを鳴らした。インターホンはうんともすんともいわない。彼女は扉の上部、覗き窓のレンズを一瞥して再度チャイムを鳴らした。
「モモ、出かけてるの?」
 軽く扉を叩く。
「愛だよ。会いたくなって来ちゃったんだけど。いないの?」
 扉が開いた。チェーンで押さえられた細い隙間の前に彼女は立ちすくんだ。
「杉坂……」
「久しぶり。」
 初瀬の腫れ物に触るような視線を感じ、律子は身動ぎした。
「桃恵、今、熱出して寝込んでてさ。」
「そうなの? ちょっと様子見せて。」
 航太が言いよどむ。彼がどんな表情をしているのか律子には容易に想像できたが即座に打ち消した。ここ一月の間、予想を裏切られてばかりなのだ。自信がない。
「なんだ、元気そうじゃん。」
「……律子!」
 あっさりと扉が放たれた。航太の顔を確認し、律子は複雑な思いに囚われたが無表情を保った。
「なんでここが分かったんだ? っていうか、一緒に来たの?」
 航太は金沢と律子を何度も見比べた。初瀬が半眼になる。
「俺もいるんだけど。」
「よ。」
「うっわ、すげえどうでもよさそう。お前、本当に男と女で態度違うよな。そこまで徹底されるといっそ清々しいよ。」
 桃恵の部屋は二DKの間取りになっていた。玄関を上がると左手にユニットバスがあり、手前がダイニングキッチン、奥に二部屋あって、それぞれカーテンで仕切られていた。手入れの行き届いたダイニングを突っ切り、金沢が右の部屋に首を突っ込む。
「モモ、生きてる?」
 好奇心に駆られ、律子も覗き込んでしまった。
 ベッドの上に藤色の寝巻きを着た娘が上体を起こしている。潤んだ黒目がちの瞳がこちらを見ていた。
 律子はそっと身を引き初瀬の隣の椅子に腰を落とした。
「あのさ、怒るのも無理ないと思うけど、凄い顔してるぞ。」
 初瀬に肘でつつかれて、律子はハンドミラーを取り出した。一揆を起こす直前の農民のような顔が映っていた。ぎこちなく笑顔を作ると彼の声が裏返った。
「後生だから落ち着いて……!」
 その間、金沢は桃恵の部屋の中に入り、彼女を伴って出てきた。彼女を座らせておいて食器棚を引っ掻き回し、冷蔵庫を開け、甲斐甲斐しく動き回っている。
 桃恵が微かに眉を寄せたまま会釈した。
「こんな格好で申し訳ありません。」
「いえ、こちらこそ勝手に押しかけてすみません。」
「篠浦、起きてても平気なのか?」
「うん。熱下がってきたところだから。」
 金沢が桃恵の前にホットミルク、律子の前に紅茶を置いた。残りの二人の分は椀に入れてきて空いた椅子に座る。椅子が足りず、男二人は立たされてぼんやりとしていた。
「お盆くらい買っておいたら。」
「必要ないんだもん。」
 桃恵は肩をすくめると両手でカップを包み込んだ。その様子を見守っていた航太が感想を述べた。
「金沢は尽くすタイプなんだ。」
「これ、本来は誰がやることだと思う?」
「うん、いい奥さんになれるよ。」
 自分は一体ここでなにをしているのだろう。律子は密かに深呼吸した。一見和やかな、しかし些細なきっかけで修羅場と化す緊張感に満ちた空気の中に身をおいていると、酸素が足りないように思われた。さて、どう切り出したものか。
「あれか。航太、ここに住んでんのか。」
 律子の逡巡など関知せずに初瀬が口を開いた。
「そうそう、律子に会った次の日から。」
「もう一ヶ月経つぞ。」
「そっか、そんなに経つか。」
 壁のカレンダーを仰いだ航太の後頭部を初瀬がどやしつけた。
「お前、呑気すぎんだろ。」
「いやー実感なくてさあ。昼間はここからバイト行って、ほとんど休みなかったし。」
「その間に何回電話したと思ってんだ? 悉くシカトしやがって。」
 初瀬の語気が荒くなったが航太は悪びれた様子をみせない。
「留守録も入れたんだ、知らないとは言わせないからな!」
「留守録か。」
 航太は律子にへらりと笑いかけた。
「律子さん、怒ってる?」
 答えるのもばかばかしくなり、律子は横を向いた。すると桃恵と目が合った。彼女は強気に見返してくる。睨んでいる、といった方が正しいか。
「やっぱり、貴女が律子さんなんですか。」
「そうですけど。待って、貴女、私のこと知ってるんですか?」
「航太がよく貴女の話してますから。」
 にっこりと笑った桃恵の目の奥に燃えたぎるものがある。冗談じゃない、と律子は思った。しかし黙ってやり過ごすのも何だか悔しいので笑い返しておいた。
 初瀬がさり気なく後退し、壁際に立った。
「金沢。俺、今のうちに帰るな。」
 女二人に視線を固定したまま金沢は小声で咎めた。
「何いってるの。尾崎さん連れてきたの初瀬でしょ。最後までつきあいなよ。」
「いや、俺が連れてきたっつーか、むしろ俺が連れてこられたんじゃないかな。」
「甘いよ。モモの男絡みの修羅場ではおとなしい方だからね、今日は。」
「勘弁してくれよ。おとなしくても修羅場だろ。」
「日本には連帯責任という言葉があるよね。」
「マジかよ。」
 二人は遠巻きに様子を窺いつつ、ぼそぼそとやりとりしている。桃恵と対峙している律子にはその内容は聞き取れなかった。長引くのではないか、などという類の話だろうと推測してみる。無論、律子だって長引かせるつもりはないのだ。
「誤解してるみたいですけど。私、今こいつとは全く関係ありませんから。」
「嘘。ならどうして航太に電話したんですか。」
「こいつが周りに何も言わないで勝手にいなくなるからですよ。ったく、いろんな人に迷惑かけて!」
「あのさ、律子。」
「あんたがふらふらしてるからだっつってんの。ちゃんと聴いてる!?」
 律子が人差し指を突きつけると、航太はその指を優しく握りこんだ。頭に血の上った彼女が動くより早く桃恵が罵声を上げた。
「航太!」
「はいすいませんもうしません……!」
 航太は手を離し姿勢を正した。迅速な反応に毒気を抜かれ、律子は頭を抱えた。
「とにかくね、ここ一月の経緯を聞かせてよ。私らには聞く権利あるでしょ。」
 航太はぽりぽりと頬を掻いた。
「あーえーと……怒んない?」
「内容による。」
「それもそっか。去年の暮れに、一年のときの語学クラスの飲み会があったんだよな。で、このへんうろついてたら偶然、桃恵に遭ってさ。今後ゆっくりメシでもって話になったんだ。」
「それで一月居候したわけ。」
 拳を結んだ律子の肩を金沢が叩いた。
「まーまー、焦らないでもうちょっと聴いてみましょうよ。」
「金沢さん人間でかーい。」
「無駄口はいいからちゃっちゃと続きを喋って。」
「はい……」
 航太は項垂れたがすぐに顔を上げた。
「桃恵と再会してから、えーと何回だ? 五回くらい飲みにいったり遊んだりしたわけだ。」
「お前、あの忙しい時期によくもそんな。」
「殴っていい?」
 初瀬と律子の冷ややかな視線に動じる様子もなく、航太は続けた。
「最初に遭ったとき妙に落ち込んでたから気になってさ、どうしたのかと思ったら前つきあってた男と駄目になったばっかだったんだよな。」
「は!? モモ、あの人と別れたの?」
 桃恵のきめ細かい肌が上気した。
「だって、あの人ったら実は奥さんがいたのよ! 騙されてたって分かったら誰だっていい気はしないでしょ。」
 金沢が厳しい面持ちで桃恵の左手首を掴んだ。袖を捲り上げて表情を緩める。
「よく無事で……」
 律子は微かに残る傷跡をみつけて動揺してしまった。桃恵が目を細める。
「無事って……私だってそんなしょっちゅう切ったりしないわよ。」
「で、何度か会ってるうちに一緒に住もうって話になったわけ。」
 航太は平然としていた。
「でもさ、直前まで迷ってたんだよ俺。だから前日にどうしても会っておきたかったんだ。」
「誰に?」
「律子に。」
 桃恵の眼光が律子を貫く。律子は溜息をついた。
「それから一度も、誰にも連絡しなかったのはどういうこと?」
「まあ、初瀬はいつものことだから慣れてるよな。」
「お前いっぺん自分の生き方についてよく考えてみるべきじゃないか。」
「友達なくすよ?」
 金沢も完全に呆れ顔である。律子は言葉を発する気力を失くしてしまった。
「律子さんには電話しないでっていったの私なんです。航太からよりを戻したがってるって聞いていたものですから。」
 瞬時に気力を回復させられた。
「いや全然そんなことありません。」
 律子は小さく息を吸い込んで剣呑な目つきの桃恵に笑いかけた。
「私はただ、このバカから腕時計を返してもらいたいだけです。」
 航太が顔をしかめた。
「憶えてたのか。」
「やっぱあんたが持ってたんだ。」
 航太は目を泳がせた。
「とぼけるつもり? 店にはないし、あんたの部屋にもないし、探せるとこは全部探したよ。」
 桃恵が部屋って何、と気色ばんだが金沢がすっぽりと口を手で押さえてしまう。
 律子が手を突き出すと、航太は不承不承立ち上がり隣室へ消えた。数分して戻ってくると、その手には腕時計が乗っていた。
 律子はひったくるようにして奪い返すと一月ぶりに腕にはめた。溜息がこぼれた。
「こんなみっともない真似することになるとは思わなかった。」
「やー律子が追ってきてくれるとは思わなかった。」
 二人同時に口を開いたため、律子は航太の言葉を聞き逃してしまった。ただ、彼の妙に嬉しそうな表情が引っかかった。初瀬が口を曲げ、金沢が天井を仰ぎ、桃恵がテーブルにミルクをこぼしている。
「今なんて言った?」
「ん、律子に久しぶりに会えて嬉しいなって。」
 航太が上機嫌で答えた。
 弱りきって今にもちぎれそうだった理性の糸がぷつりと切れた。
 律子は緩慢に立ち上がると桃恵に一礼する。
「急にお邪魔してすみませんでした。どうぞお大事になさってください。」
「こちらこそ、何のお構いも出来ませんで。」
「帰るのか、律子?」
「金沢さん、初瀬さん、色々とお世話になりました。」
「いえいえ。お疲れ様でした。」
 微笑み返す金沢の口元は少々ひきつっていた。初瀬は無言だが、その目は肉食獣を前にした草食動物のようだった。
 律子はそのまま玄関まで引き返し、足を止めた。鞄に手を差し入れて目的のものをぐっと引き抜く。
「忘れ物があったんだ。航太」
 呼ばれて思案顔となった彼へ向け放り投げる。
 パールホワイトの携帯電話は優美に弧を描き航太の手中に収まった。
「彼女と仲良くね。」
 航太の顔がみるみる青ざめた。口を開閉しつつも言葉のない彼と電話を見比べていた桃恵が乾いた声で呟いた。
「それ、誰の?」
「航太はケータイ二つ持ってるんですよ。女の子専用のとそれ以外のとで。」
 今度は桃恵が絶句した。
 律子は慌てて部屋を出た。これから起こる惨事のことは考えないようにして階段を踏みしめ下りていく。二階を過ぎたところで初瀬が駆け下りてきた。律子は背を向けたまま咄嗟に身構えたが、彼は何もいってこない。
 靴音が耳障りなほど響いた。一歩ずつ段を追うと高ぶった気持ちが徐々に冷めていき、地上に降り立ったところで律子は沈黙に耐え切れなくなった。
「ホントお世話になりました。ありがとう。」
「満足か?」
 苦笑混じりに初瀬が尋ねる。律子は大きく頷いた。
「凄いすっきりした。もー心配してた自分が馬鹿みたい、っていうか馬鹿だった。……金沢さんは?」
「ああ、まだ篠浦んとこ。」
「悪いことしちゃったかな。」
「金沢は百パーセント関係なかったからな。」
「だよねえ。」
 唸る律子を初瀬は横目で窺った。
「さっき自分でもいってたけど、馬鹿だよな。」
「私のこと?」
 口を尖らせた律子に初瀬は真顔になった。
「落ち着いて考えてみ。あのまま放っとけば航太と篠浦がくっついて、あんたが口説かれることはなくなったかもしれないだろ。」
 律子は声にならない悲鳴を上げた。盲点を突かれて悶絶する彼女に初瀬が畳み掛ける。
「それに、ケータイ渡しちまったよな。下手すれば航太のもう一人の彼女にも篠浦のことがバレてアウト。あいつ、また『俺には律子だけだー』って泣きついてくるかもな。」
「しまった!」
 律子は道端にしゃがみ込んだ。情けなさのあまり涙が滲んだ。
「私、もう駄目だぁ。」
「まあ、なるようになるだろ。」
「軽っ! そうだよね、どうせ他人事だもんね。」
 初瀬は律子を置いて歩き出した。曲がり角の手前で振り返る。物言わないまま、冷静な眼差しを彼女に浴びせた。
 律子はむくれつつ後を追った。曲がり角の家の塀から黄梅の枝が伸びている。僅かに残った花の香りが清く香った。
「自業自得ってことだな。」
「ふん! ……怒ったらお腹空いたなあ。空かない?」
「空いた。何か食いに行くか。」
「行きたい!」
「勿論、おごってくれるんだよな。この前そういってたし。」
 おごるなんて言ってない、と口にしかけて律子は考え直した。
「……謹んでおごらせていただきますとも。」
「よし。」
 肩を並べ、二人は商店街の中へと消えていった。





>>release  Oct 25, 2003

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