「おーい、香澄ちゃん。一寸待ったりィな」
なるべくさりげなく声を掛けた、つもり。でも彼にして見れば
随分思いがけない呼びかけの相手だっただろう。
「なーに親分。猫撫で声なんか出して」
「ホーウ、言うたな?ほな『蒼ちゃん』とでも呼び直そかぁ」
「……げっ。その名前誰から聞いたの?」
両の拳を口元に当てて……って。あのなぁ、21歳の男がそんな
可愛らしい(只でさえ顔が可愛らしいのに)リアクションすな。
襲うぞ?
「学生課の玲子お姉タマ。つい先日その名前で遣り取りして
いるのを見かけてなー。で、確認取った」
「ふーん。で、何の用?」
「一般教養美術の神代先生、知り合いなんやて?」
「まあ、ね…」
何気なさを装いながら、それでも言いよどむ。そうなる事を
予想しながら会話してる僕も相当な悪趣味だね。
「家、知ってたら一緒に行って貰えるやろか?」
「まさか、袖の下?」
何でいきなり。わしゃ越後屋か?
「じゃなーくーてー。親戚筋のお中元の代理配達。神代先生だけ
やなくて桜井京介さんと栗山深春さんも居てくれはった方が
いいんやけど、無理?」
「……無理、じゃない、けど…」
あーあ、ますます困ってる。確かにね、
躊躇う事情も判るから無理強いはしたくない。
でも僕の方も怖気づく気持ちを叱り飛ばした上での無謀だしなー。
仕様がない。助け舟を出してやるか。
「……その頼み主の苗字、蔵内言うねんけど、覚え、ない?」
「……くらうち…蔵内さん?」
そらそらそれその表情。目を真ん丸くして今にも飛び跳ねて
喜びそうな表情。女性ならずともお誘い掛けたくなるね。
「……ビンゴ?」
「ビンゴ。でも親戚筋って?」
「大叔父さんに当たんねん。僕今年美術再履修したやろ?
それ訊いて、自分の挨拶がてらに、って捩じ込まれてナ」
その一言で安堵した表情になり、じゃあ先生に知らせてくるね、
と駆け出した背中を見ながら胸中で台詞追加。
『義理の、大叔父さんやけど、な』
僕、佐々木国松は現在W大文学部2回生在学の21歳。
16歳の時に現在の両親(東京在住)と家族になった。
其れまでは大阪市天王寺区、ジャンジャン横丁で質屋を
営む祖母と双子の姉と3人で暮らしていた。
祖母が死に、姉が嫁ぐまでは。
直接の血縁である実の両親とは既に死に別れていたので、
僕達を育てたのは完全に、と言っていいほど祖母である。
苗字も当然の如く祖母のものを使っていた。と言うよりも
祖母は僕達の父を私生児として生んだので自然そうなったのだ。
祖母の苗字は「かどや」。偶然とは恐ろしいもので、僕達の
実の祖父に当たるお人も読みは違うが漢字は同じ字を書く。
左様、僕達の実の祖父とは、「ご隠居」こと門野貴邦、
その人である。で、僕達の名は祖母がご隠居の名を開いてつけた。
門と邦。
邦を国に変え、門から松を連想して「国松」。
姉は野と貴を組み合わせ、字面を変えて「孝乃」。
お陰を以って僕は何故か18年のながきに亘り
「親分」の渾名で通っている。
薬師寺香澄の事情は中学入学の際には把握していた。祖母が
当時の錯綜した情報を収集し、的確な修正を加えた上で
正確に教えてくれたのだ。
もっともそこには門野の爺様も一枚噛んでいたと思う。
まあそのお陰で爺様の目に入れても痛くない孫(?)の
彼に対しての悪意を抱かずに済んだ。
もっとも副作用として、同年代の連中に比べて幼く見える彼に
対し、恋愛に限りなく近い感情らしきものが生まれた
と言うのは…苦笑するしかないか。
何でも神代さんは今日は午前上がりらしい。ので
自然僕達が連れ立って自宅訪問と言う事になる。
桜井……栗山両氏とはそこで合流なんだろう。
「お邪魔しまーす」
おお、見事にハモってしまった。照れ臭くなってお互い吹き出す。
「……オウ、上がれや」
程よく年輪を重ねた板張廊下を素足でぺたぺた通り、
いよいよ本当の素顔の神代先生とのご対面である。
こっちも大阪人歴15年だ、などと妙な対抗意識を燃やしたり
なんかして。
「蔵内さん?おお、遊馬さんとこの別荘の?そいつぁ
丁寧になぁ…。どうせ夕飯時だ。飯でも食ってけ」
じゃ、お言葉に甘えましてと言うが早いか香澄
(面倒だ、以下蒼と呼ぼう)が台所へと立って行く。
どうやらこれがいつもの情景らしい。
「手伝おか、香澄ちゃん」
「おめェさんは客なんだからじっとしてねェ」
「いえいえ、花婿修行か思たら楽なもんですわ」
台所へ行くと蒼は既にエプロン姿で玉子焼き器を操っていた。
何か着る物はと探していたら、
「これ。通いのおばさんの割烹着だけど」
「……エプロンと取替えへん?」
「やーだよっ」
だからね…、21歳の男が(以下省略)。仕方ないので割烹着を
着てついでに長めの髪を借り受けた手拭で包んで纏めてみると、
「……に、似合ってる…」
笑いを我慢して顔を真っ赤にしながら台詞を搾り出さなくても
宜しい。バカモノ。
蒼と一緒に夕食の準備をしながらふと思う。多分桜井氏は
僕の事を一目で見抜くだろう。
その際に誤解だけはしないで欲しいと思う。
僕は蒼をどうこうするつもりで訪れたのではない。彼に
教えを請うつもりで来たのだ。爺様と仲直りする為に。
爺様と僕との間には深い淵が横たわっている。祖母の事と
蒼の事と。昨日もその事が原因で喧嘩したようなものだ。
久しぶりに呼び出されて何事かと思えば気の早い就職話。
それも僕の第一希望と来た。
彼にして見れば好意の発露なんだろうが、僕からして見れば、
今そんな事をしてもらうよりも、蒼のように愛してほしかった、
と言うのが本音。馬鹿げたトラウマかもしれないが、
未だに燻っていて気持ちが悪い。
蒼くらい愛らしかったら、可能だったかな…。
「親分。眉間に縦皺」
蒼の声で我に返る。イカンイカン。
茗荷を刻みつつ瞑想してしまった。
「悪いね」
「…間違ってたらごめんね」
「何よいきなり」
「蔵内さんが親戚って、半分嘘でしょ?」
いきなり何を言い出すのだ、こいつは。
「半分嘘って?」
情けないね。声の末尾が震えてるよ。
「……じゃ、半分の本当は何かな?蒼君」
躊躇いながら、でも視線はしっかり僕の瞳に当たってくる。
「……門野さんと、血が繋がってるんでしょ?」
ハイ、ビンゴ。
「何処で判ったん?」
「その手の形。良く撫でてもらった手だもん」
「かなわんなぁ。種明かしは、後からのつもりやってんけど」
「なんだ。ドキドキして損しちゃった」
ハイハイ、そう強がらないように。君の可愛らしさは
君以外の関係者全てが認めているところなんだから。
「…家族になるって、努力要るんかなぁ…」
「門野さんと喧嘩?」
「こっちの意地張り。爺様の甘さが判るだけになぁ」
僕の代理で蒼がため息。料理は其れでもサクサク進む。
作り過ぎても栗山氏が居れば問題なかろう。
「一度思いきり喧嘩すれば?」
「爺様と、かぁ?」
「じゃないと、こじれるよ。多分」
全てお見通しといわんばかりの人の悪い微笑み。
「二人とも手の形だけじゃなくて、考え方まで似てるもん。
一度さっぱりすれば?」
「あんたはどうよ?」
「僕もしたよ。京介と」
信じらんね……。あの桜井氏と?
「結果は?」
「最後は僕が勝ったよ。当たり前じゃん」
哀れよな桜井京介。猫小僧には勝てぬか。
よし、早速明日喧嘩しに行くか。とりあえず
今日は後程桜井氏に腹芸の極意を教わるとしよう。