煎餅屋・神代京介の毎日@
神代京介の朝は早い。煎餅生地の仕込みは既に前の晩に
済ませてあるとは言え、其の日の天気の具合を見て置かな
い事には音高く割れ、然る後に蕩ける様な煎餅を焼く事が
適わぬ、という拘りゆえに早起きをする。夏でも冬でもか
っきり午前5時。幾ら遅く寝ようとも、かっきり午前5時
だ。
「相変わらず早えじゃねぇか」
「ああ、宗さん。おはよう」
「蒼はまだ寝てるか?」
「レポートに随分てこずったみたいで…。今日は午前の
講義が無い日だし、寝かせて置いてやろうよ」
「と言っても8時には起きて来るだろうよ。お前とは全
く大違ェだ。俺ァ本気で心配してたぞ」
「今早起きだからいいじゃない…。そうだ、後で資料借
りていいかな?」
「論文か?構わねェが、時間はあるのか?」
「作るよ。じゃ、行ってきます」
喋りながら慌しく朝食を済ますと、目にもとまらぬ敏速
さで掛けてゆく。
「まさかあいつが、ねェ…」
取り残された世帯主の溜息が、神代邸に大きめに響いた。
神代京介…旧姓・桜井京介が神代宗の養子になり、宗の
実家から暖簾分けされた煎餅屋「千草」主に収まった経過
を掻い摘んで話そうか。
そもそもこの二人、もっと早くに養子縁組を組んでも良
かったのである。二人が同居を始めたのは彼是17年前、京
介14歳の時である。それからきっかけとなるあの出来事ま
での5年間と言うもの、二人とも言い出そうか言い出すま
いかと迷っていた。
そう。きっかけはあの温室で後に京介の義弟となる香澄
に出会った事件。そして、後押しをしたのは宗の姉であり
義母でもある沙弥であった。
「どれ、邪魔するよ」
「…あー、いらっしゃい」
宗が言葉を選びかねるのも無理はない。確かに戸籍上は
母であるのだが、実際は姉だ。お袋と呼ぼうにも照れ臭い
し、姉さんと呼ぶのはなお照れ臭い。其の上、喧嘩別れ同
然になって以来碌に口を利いた事は無い。懐かしさと同時
に訝しさが胸を過ぎる。
「残念ながらあんたを訪ねてきたんじゃないんだ。あん
たんとこの若いのと話をしたくってね」
「京介、と?」
「まあ、あんたも居て貰った方が良いか。いいね?」
「あ、ああ」
どうも頭が上がらない。しかも主導権は確り握られてし
まった。侭よと思い、京介共々居間で沙弥と向き合う事と
なる。
「ふう、む」
ところが呼びつけた沙弥は平然として京介を旋毛から爪
先まで、じっくりと眺める。
冷や冷やするのは宗である。京介の一番嫌う事を平然と
行う沙弥。其の彼女に対して京介がどんな言葉を浴びせる
か…幾らなんでも気の毒過ぎると言うものだ。
しかし、当の京介は寧ろ其の視線に温かみを感じていた。
其れまで彼が浴びてきた視線は確かに好奇心の域を過ぎ
るものではない。所か時に欲望の雑じった些か荷の重いも
のであった。
而して、神代沙弥が京介に向けた視線とは…好奇心も合
ったが、それ以上に何とも言えない愛情を感じた。強いて
彼の辞書に無い言葉で言えば、母親の情、とでも言えば良
いだろうか。
「決まり、だねェ」
託宣の様に、大きく頷く。
「何が決まりだって?」
「あんたの望みが今叶うって事だよ。そうだろ、京の字
?」
「はい。…ええと、お婆様?」
「そんな上等なもんじゃ無いよ。沙弥さんで結構」
「え?…え?…」
心配ご無用。作者も実は宗同様戸惑っている。これは次
の講釈の場を設けた方が良さそうであるな。
(続く)
《コメント》
そんな訳で、パラレル物としてのシリーズが始まってしまいました。
最初書き出した時は1話完結のつもりだったのに、どんどん膨らんで
しまってます。何時まで続くか、もう全然決まってません。
建築キャストによる別ドラマと思って見て下さい^^; |