東京都内の某スタジオは静かに騒がしかった。何しろジュエリーアカネTVCM
撮影当日。が、スタッフは全員席を外していた。撮影を放ったらかして?
…主演の桜井京介がスタジオから脱走したのだ。始めようがないではないか。
「スタンバイの段階では、間違いなく居った」
「入れ替わりさえしてなきゃね」
「BGMリハの時も居たぜ。随分聴き入ってたからな」
深春の太鼓判。あ、嬉しいな。何しろ今日の京介ときたら思い切り拗ねてい
た。ぼくがこの企画に噛む事になったのを隠していたのが余程気に入らなかっ
たらしい。
そんな京介を見てニヤニヤしてたのが国松と蔵内Jr…一巳さん。この二人が
義理とはいえ親戚だったのを忘れてたのは迂闊だったね。
『誤解せんとってや?蒼に歌わせたなったんは音楽屋としての僕やからね!
余りに色っぽい声やったから、抑えがきかんかったんよ』
あの国松の真っ赤な顔…暫らく揶ってやろ。…駄目だ、つい思い出し笑いが。
「蒼、楽しい回想中悪いが現実認識してくれな。主役を捕獲しないと二進も
三進も行かんから」
「Jr、余裕有り気だけど?」
「打つだけの手は打ったしな。余程の手を使われなきゃあ…」
「ほんまですか?!」
国松が内線電話に向かって叫んだ。どうやら悪い話しみたいだ。
「カズ兄、裏かかれた」
「何処に盲点があったんだ?変装でもしたのか?彼は」
「似た様なもんやろな。蒼、桜井さん、婆さんの真似が得意ちゃう?」
「何故知ってるの?」
「やっぱそうか。隣のスタジオでCM撮影しとったん、お世話になった女優さ
んやけど、玄関から出ていくの見えてな。…本番前に外に出ん人がどうして、
と引っ掛かっとったんや。確認取ったら案の定やった」
「擬態されたか」
「間違い無くな。カズ兄、ネットワーク、手配できる?」
「すぐメール飛ばす。後どうする?」
「奥の手使う」
言うが早いか携帯電話短縮番号001番にかける。近くて、遠い親戚へ。
『はい、門野でございます』
「大原さん?かどやの国松です。居てはります?」
『お待ち下さいませ』
『お前から電話とは又め…』
「ゴメン、用件急ぐから。桜井さんそっちに来てへん?」
『来ていないが…来たらどうする?』
「足止めお願いしたい。これは僕だけやのうて香澄の願いでもあるから」
『香澄が居るなら、引き受けるとしよう』
「いつか其の言葉のツケ、払てね」
『桜井君の捕獲でチャラにしろ。今度、何時来る?』
「来週にでも。来月、空けてくれてるね?」
『勿論だ。やっと公に行けるのだからな』
「ほな」
電話を切って深く溜息。でも、何となく…、
「いい関係になってない?」
「一緒に線香あげに行くまで進歩したしな。蒼のお陰だ」
照れちゃうな。
さて、門野貴邦邸。
「随分必要とされている様だな、桜井君」
「僕である必要はないですけどね。面白がられているんでしょう」
おやおや、随分自分の価値を否定したがる。縋る様な目で見つめられて、さ
っきの電話も白を切ったが、どうせあの孫の事だ。すぐに此処へ来るだろう。
それ迄の足止めなら文句はあるまい。その間に桜井京介と言う人間を知ってお
くのも又一興だ。
「面白がっている事は、敢えて否定せんが…」
「蒼まで巻き込む事はない!」
「彼に干渉するものへの、嫉妬、かね?」
不覚にも絶句。目の前の老人から其の様な言葉がでるとは思わなかった。誤
魔化す言葉を探すのも面倒なので、止むを得ず肯定する。
「…彼の母達を笑えませんね。嘲ってくださっていいですよ」
「自然な感情だと思うがね」
今迄になく優しい門野氏の眼差し。
「国松に会って…思い知らされたよ。香澄の世話を焼きたがるのは可愛さか
らではない。寂しさを埋める口実にすぎなかった、とね」
「そうする事でしか、自分を確立出来ない人間も居る…」
思わず唇を滑りでた言葉。明らかに失言だった。
「不幸だと思うかね?」
問い掛けには暖かさが満ちて居た。だから、自然と穏やかに返答する。
「明日の糧となるなら、幸せでしょうね」
さて自主的に帰ろうとしたその時である。
「あーっ!京介見ーっけ!」
かくて桜井京介は白髪鬘に留袖姿でスタジオに連行された。さて、役者も揃
った。本番といこうか。
【まだ続く】