Angle
005/100 釣りをするひと → 人を騙そうとするひと。気をひこうとする。 作詞する詩人と、釣りをする作曲者。 紙の上に転がるペン。 ある種の獣のような呻き声をあげながら、それを放った無骨な手で髭の生えた顔下半分を撫でる。 男は立ち上がり、部屋のドアを開け放つ。そのまま廊下へ移動して、男はうろうろと動き回る。 自分の部屋、食堂、スタジオ。 だがその落ち着かなさは、この宿から全く出ていないせいだと気付いて、男は外へと向かう。 限っていた行動範囲内から外へ出て、やっと一息つく。 木々の間から落ちる木の葉。 真っ赤に、または黄色に、様々な色に色づく葉が、褐色の無愛想な枝に彩りを添えている。 山際は朝焼けに赤く染まり、明るくなりながらも天はまだ夜の蒼さを残している。 おそらく夜が明けてから、そんなに時間は経っていないだろう。 男は夜から起き続けているが、普段から世間一般のライフスタイル、というのに生活時間帯が合っていない。 夜明けの時間帯を、多少の眠気を感じながらも苦にすることなく、その大柄な体で冷たい空気を切って歩く。 これは逃避だ。 それを分かりながらも、探している逃避先からも逃げ出したいと思っている自分も知っており、段々と男の足の運びは重くなっていく。 しかし動けなくなる事を望まない男は、足を止めずに木々が覆う道路を道なりに歩き続ける。 そして開ける視界。 目の前に広がる湖の広さに、男は目を見張る。 車に乗って宿に来た時とは違う美しさを、湖は湛えていた。 湖面が朝日にきらめく。 凪いで行った風が、男の肌を撫でていった。 湖面に浮かぶ舟の上に、求めている姿があった。 鏡のような水面に浮かんだ小さな舟。 それに乗っているのは誰かという事は、その存在を認識した時点で知っていた。 ほとんど揺らぐ事のない舟。 男は、遠く隔たる舟の上の彼の姿を見惚れる。 ほとんど揺るがない湖の上にある彼。 彼はいつも飄々としていて、高校生の頃からの付き合いがある男も、彼の困りきった姿をめったに見る事はなかった。まるで柳のようにしなやかで、自らに降りかかる災難も大抵の事ならば受け流してしまう。男は強くあろうとしながらもふとした瞬間に折れて、彼に弱さを見せてしまっていて、明らかにそんな己とは質が違う人間だと感じていた。 比べてしまうのは愚かだ。自分の性質を肯定していかなければ立ち行かないし、自分の性質を愛そうと男も考えている。 しかし、男は彼の性質を羨まずにはいられない。 彼を求められずにはいられなかった。 愚かだと、大きな裏切りだと自覚しながらも、男は彼を求めずにはいられなかった。 その飢えにも似た熱望が何処から来るのか、愛なのか憧れなのかは分からない。 彼に対する強い欲求に気付いてしまった衝撃ゆえに、その感情に執着してしまっただけなのかもしれない。 焦がれるような思いで朝日の中の姿に手を伸ばすが、当然湖の上にある彼の体に手が届くはずもない。 男は手の平の中にある彼を捕え、重々しい動作で腕を下ろす。 誰も知らない。 まだ誰も知らない。 誰もこの姿は知らない。 絶望に似たその救いに、男は眉根を寄せる。 思いは叶う事はなく、また彼に敵うはずもない。 結論は問う前に既に知っていて、消えぬ思いに独り心乱されるだけだ。 「ずっりぃよなぁ……」 そう言いながら浮かべられる男の微笑みは、恨めしさより憧れを含み、暗さを強く感じさせる物ではない。 そして男は背を向けた。 今の心情が、逃避なのかけじめなのか、それは本人にも分からなかった。 胸ポケットの中の携帯電話が震える。 その揺れに気付いて、彼は眉を寄せながらも棹をボートの上に置く。 胸ポケットから出して、その着信が男からのメールであるのを確認して、彼は溜息をつく。 しかしそのまましまう事はせずに、携帯を開き、メールを見る。 軽い揺らぎの中で 画面に現れた長々とした言葉の連なり――男が才能を開花させた詩。 彼は画面をスクロールしていく内に困ったように眉を寄せ、その細い目をさらに細めて苦笑いを浮かべる。 だが最後まで読み切り、そしていつものように返信する事なく、メール機能を終了させ携帯を閉じる。 ポケットに仕舞いながら、彼は目を眇めて笑う。 そして独り言のように落とされる一言は、誰も聞く事がない。 彼は再び頭上に竿を構え、真っ直ぐに振り下ろす。 小気味よい音を立てて、ルアーは遠くまで飛んだ。 ← → |