shoals
043/100 遠浅
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遠浅の海=波が穏やか、急に深くなる
海水浴場に向いている
前回の釣り人から詩人への思い。
寝室の扉を開けた彼の目には、真っ白なシーツと布団が映っていた。
午後の優しい光の中、ベッドの上に無造作に取り込まれたままのそれらは、穏やかに波打っている。
彼はそれを見つめ、そして困った様に眉を下げる。
――やっぱ、やったら怒られるよなぁ。
けれどその想像だけでは自分を抑えられない程、目の前の光景は魅力的だった。
まるで幸せを具現化したような、真っ白な波。そこに顔を埋めたら・・・・・・いや、体全体をそこに横たえたら、きっと幸せだろう。きっと日向の匂いがするだろう。
それは何て幸せだろうか。
そう思ったら我慢できずに、彼はベッドの上に倒れ込む。柔らかな幸せに微笑み、布団に顔を擦りつける。
布団はゆっくりと、緩やかに彼を包み込む。
それはまるで夢のようで。
気付いたら、砂浜にいた。
気付いたらなのだから夢なのだろう、と思う彼は白いYシャツを纏っている。
起きたら怒られるのだろうなと、この状況に思う。
けれどここは夢のようだ。――それ自体は夢の中だから当然なのだが、彼がずっと心の中に持っていた、と思えるような場所が目の前には広がっていた。
白い砂浜は延々と続いていた。寄せる波は穏やかで、彼のジーンズから覗いた素足を濡らしていく。
いつもと違ってその夢は、彼に視覚以外の感覚を与えていなかった。照りつけているはずの太陽の熱さも、寄せる波の音も、踏みしめる砂の細かさも、潮の匂いも分からなかった。
こんな場所にいるのにもったいないと思いながら、彼は歩き出す。
いや――歩き出すと言ったら語弊がある。体が勝手に動き出したのだ。この夢は、己の体を動かす術さえも奪っているらしい。
彼は自由にならない体に引きずられながら、それでもいいかと心の中で思う。どうせ夢なのだから、この状況を楽しんだ方がいい。
足は波に濡れた砂を踏みしめて歩く。寄せる波が、時折彼の足を濡らす。
それがある人物を思い出させて、彼は思わず心で笑った。
その男との関係は親友だ。男は所作も行為も無遠慮なくせに、向けてくる好意はささやかな物だ。何も求める事なく、ただ打ち寄せるだけで。けれど気付くと、波は乾く間もなく人の足を濡らしている。
けれど彼は無視してしまうのだ。自分はただ砂浜を歩いているだけだと、波が濡らした砂を踏みしめているだけだと。
知らないと――知覚できないと訴え続ける体は、まるで男に対する己のようだ。
と、体は目線を上げて海を見つめる。
遠くから砂浜に寄せる、穏やかな波。海水浴場で見るのと同じそれに、ここは遠浅の海だと彼は知る。
泳ぎてぇな、と思うけれど、自由にならない体は己を広い海にゆだねず、彼方を見つめる。
寄せる波は彼を呑み込む事もせず、ただ時折彼の足を濡らすだけだ。
そして、視界が滲む。
揺らいでしまう視界に、彼は己が涙を流しているのに気付く。
知らぬ間に、海は彼を満たし、溢れ出していた。
――そりゃ待て。
そう思った途端、彼は目を開けていた。
恐る恐る触れた頬は濡れておらず、彼は溜息をつき、布団に顔を埋める。
――何で、泣かなきゃなんねぇんだよ。
あの夢で体は悲しがっていたのか、嬉しがっていたのか、どちらなのかは彼の知る所ではない。
けれど、男を思いながら泣いたという行為自体に、彼は耐え切れなかった。
彼は大きな溜息をつきながら、ベッドの上であお向けに寝転がる。
日も暮れ、寝室には夕日が差し込んでいる。ここまで漂ってくるシチューの匂いを、思わず胸いっぱいに吸い込む。
幸せの匂いと、幸せの空間。
それに照れも悩みも、どうでもよくなってしまう。
そして彼は、薄暗い部屋で布団に包まれながら、二度寝を敢行した。
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