雪が融解する温度


この山には雪女が出るという。
昭和のはじめ、そう呼ばれていた山だったが、今となっては過去のことだ。
今ではスキーの名所として娯楽施設になっている。
だけど、その整備されたスキー場から一歩離れてしまえば、そこは昔のままの白い世界が溢れていた。


ゆっくりとした足取りで、ただ歩く。
小さいころから通いなれたこのスキー場がある山にこんなところがあったなんて、知らなかった。
吹雪で視界が全くない。ただただ眼に焼き付くような白。白。白。
体温を奪う雪に纏わりつかれて、身体が冷たくなっていく。
動かない。動けない。
ついには指先までも凍りそうになる。 ”…このまま、死ぬのかな”

真っ白の中で、冷たい雪の中で、埋もれて。

”誰か…たす…けて………ごう”

そう思いながら、重くなった瞼を、ゆっくりと閉じていった。


◆    ◆    ◆


「……」
眼が覚めると、木製の天井が見えた。
遠くに、暖炉の火が燃える音がぱちぱちと遠くに聞こえる。少なくとも現実感がある部屋だった。
天国とか、死後の世界ではないらしい。
(…助かったのか?)
指先を動かそうとしてみたが、何かできつく拘束されていて動けない。たぶん包帯だろうと思う。
足もうまく動かない。
身体は体温を取り戻そうとしていたが、動けないのではどうしようもなかった。
首だけなんとか動かせるようで、あたりを見渡す。
テーブルの上に、お湯が張られたらしい洗面器と、タオル。
あとはカーペットがあるくらいで、寝るだけの部屋、という印象だ。窓すらない。
ドアはあったが、動けないのでは意味がなかった。
しかし、生きている。それだけが、今の自分にとっては救いだった。

(本当に、助かったんだ…)

死にたくないと願った。
生きていたいと願った。
それを誰かが叶えてくれたのだ。
しかしそのお礼を言いたい相手は、今ここには居ないようだった。
「……」
まだ、少しだけ身体が痛んだ。何もできない以上、眠っているしかない。
覆われた羽布団をぎゅっと掴み眠りに浸ろうと、眼を閉じた。
眠気は、思ったよりもすぐにやってきた。


それは、もうずっと前のこと。

眠りの中でも、白い夢を見た。
冷たい雪の世界で、眠りそうになる自分を何度もたたき起こしてくれる人がいた。
弟の、豪。自分も辛いはずなのに、精一杯動かして、俺を助けようとしてくれる。
それでも、身体は動かなくなる。凍ったように、眠気が襲う。
「…つ…あ…き……あ…にき…」
薄れ行く意識は、黒い視界に閉じ込められた。
「さ…なら、……にき」
弟の、凍る音を聞いた。
気がついたら、今みたいにベッドの上。隣に豪はいなかった。
あれは、僕が11歳のころのことだ。何もできなくて、ただ、いなくなった豪を思った。
神隠しのようなものだったと思った。死んでいるとは思えなかった。

遺体が、みつからなかったのだから。

豪は家にいない。家族、友達みんなが悲しんでいても、僕だけは治療に精一杯で泣くに泣けなかった。
記憶は反芻されていくうちに、涙が零れる。
豪がいなくなって7年。真実もわからないまま。雪山に赴き、気がついたらこうなってた。
また、自分だけが助かった。
悔しいのか、うれしいのかわからない感情が溢れて、涙となって落ちる。
眠ったまま、記憶だけが紡がれていく。

だからだろうか。部屋の主が来ても、ああ、音がしたな、という感覚だけしかなかった。
「…泣いてるのか?」
温かいタオルで顔を拭きながら、部屋の主は呆然とつぶやく。
「…ごう……」
ふと、手が止まった。

「本当に……烈兄貴……なのか?」

タオルでふき取る手が離れた。
ゆっくりと眼をひらく。そこには、心配そうに自分の顔を覗き込む、青い眼の青年が居た。
「……」
「…大丈夫か?」
少しだけ眉を寄せてじっと見つめていた。
「…あなた、は?」

「俺は…、いや、俺のことはいいんだ。よかった…気がついたんだな」

そんな、はぐらかすような返事だった。
「僕は…助かったのですか?」
「…ああ、運がよかったぜ」
そういって笑った。
「まだ動かないほうがいい…凍傷も少ししてる。あとでスープもってきてやるやら」
「ありがとうございます…」
青い眼に、青い髪の、綺麗とも見える青年だった。
肌が雪のように白い。おしろいでもこうはならないだろう、肌色と白の、限りない中間。
その危うい雰囲気に、困ったような笑みを浮かべた。
自分の顔の汗を大方ふき取ると、立ち上がった。スープを作りに行くのだろう。

「……あの…」

「ん?」
「…どうやって、僕を?」
「たまたま、倒れてるのを見つけただけだ」
「そうですか……」
「なぁ、お前の名前を、聞いてもいいか?」
聞かれて、断る理由もなかったから、答えた。

「…星馬、烈……」

一瞬だけ、青年の肩がびくりと震えた。
「烈、だな…わかった」
そういい残して、ドアを閉めた。


◆    ◆    ◆

「本当に、烈兄貴…なんだ」
7年ぶりだ。あんな風に成長してたなんて。
雪の中で、人が埋もれているのを知ったから行ってみれば、懐かしい顔を見た。
心底驚いたものだった。もう二度と、会えないと思っていたから。
会えなくても、生きていればそれでいいと決断して、7年。
ずっと、会いたかった。
思い続けた。
それが、こんなところで叶うなんて。
「…うっ……」
歓喜が身体を貫いて、涙となって零れ落ちる。
しかし、その涙は水滴ではなく氷の球体となって音を立て、床を転がっていった。
氷の球がいくつもいくつも、霰のように、こぼれ落ちていった。

「…烈兄貴……」

その声は少しだけかすれ、ドアの向こうには届かなかった。



疲れ切った身体を、その青年は丁寧に看病してくれた。
どこかから食事を持ってきてくれて、身体を起こして食べさせてくれた。
けれど、部屋からは一歩も出られなかった。外の世界はまったくわからない。
名前も教えてくれなかったその青年は、それでも、自分のことを烈と呼んだ。僕は、相手のことしか呼ぶ人がいなかった。
たまに服を総て脱がされて、身体を拭いてくれる。
それを拒絶しようかと思ったけれど、そいつも照れてるのだ。
透き通る白い肌を朱に染めるさまは、恥らってるのがどっちかわからないくらいだ。
だから仕方なかった。
他人にまさかこんなところで裸体を見せるなんて。と思いつつも、彼に任せるしかなかった。
「だから、もういいってば…そこくらい自分でやるから」
「……」
彼は烈を睨んだ。これは自分の仕事だから、という絶対の目で。
「…んっ……」
胸の上なんか拭かれた時には感じてしまいそうだ。
そんな丁寧にしなくてもいい、と言ってもどうせ彼は聞いてくれない。
変なところで悪戯心が発揮する。ならそんな恥らうんじゃない。余計にきになってしまう。
風呂まで連れて行って欲しいと提案したが、却下された。

「風呂はあるんだけど…運ぶのめんどくさいから、歩けるようになったらにしてくれ」
「そんな…」
じゃあ、ちゃんと動けるまでずっとこのままなのか。

「…ごめん」
それだけ言って。
しょげた顔で言われたら。何もいえなかった。
「わかったよ」
「うん」

体を拭いたら、今度は凍傷で変色した指の包帯を解く作業に入る。
青年は自分の手袋を脱いだ。綺麗で細い指をしている。
薬を指に塗ってくれる時以外は、ずっとそいつは薄手の手袋をつけて、肌に一度も触れたことがない。
指は、凍傷で感覚がなかった。
「これ、大丈夫なのか?」
「ああ…しばらくすれば動かせるようになるはずだ」
この薬はよく効くんだ。と、悪戯好きの子供のように笑った。


ベッドから起き上がれるようになっても、やっぱり指がうまく動かなかった。
歩き回って気づいたら、ここは、どうやらロッジらしい。
キッチンはあるし、冷蔵庫もある。風呂場もちゃんとあった。
そして、住人はこの青年一人しかいないらしい。管理人をしているんだろう。と烈はぼんやり思った。
ただ、時計がない。このロッジの何処にも。
やはり、時間感覚がない日々は、烈に少しだけ不安を落とした。

数時間たって包帯を解き、緑色をした薬を塗っていくうちに、その傷も、少しずつ癒えていった。
いつもどおりの薬塗り。
ふと、目の前に青年に烈はたずねた。
「…もう何日、ここにいるんだろう」
「眠った分だけ、経ってるんじゃないのか?」
「…覚えてないよ」
昼も夜もわからない部屋で、何度眠ったかなんて。こうして、この青年が十数回来て薬を塗ったことは、覚えてる。
青い髪に青い瞳の青年は、静かに烈のそばにいた。
けれど、烈はまったくといって、こっちの情報は入ってこない。
だから、聞きたかった。せめて名前だけでも。

「…お前は、誰なんだ?」

「この家の主だよ」
即答された。
「…そうじゃなくて」
「……」
ふっ、と青年は笑った。包帯を巻いてその端を丁寧に結ぶ。薬で濡れた指を拭いた。
「じゃあ、烈の一番の秘密を教えてくれたら、教えてやる」
「僕の一番の秘密…か」
「ああ…」
ベッドに座ったまま、青年の表情を見ると、どことなく誰かに似てる気がした。
そうか、似てるんだ。髪の色が。瞳の色が。
まるで深い湖の底のような、綺麗な青。
予感はしている。だけど、少しだけ信じられない。
だから、確かめたかった。そのために秘密を話しても。

烈の一番の秘密。それを言ったとしても、本人でない限り、この青年はなんの意味もないだろう。
そう思い、烈は話をはじめた。
「…7年前、僕が11歳の頃。弟がいなくなったんだ。この山で」
「…弟?」
少し、青年が興味ありげに尋ねる。
「ちょうど僕がこんな風に山で遭難して、雪山で埋もれてた。眠りそうになった僕を何度も起こしてくれたけど、とうとう力尽きたみたいで、弟の声も、聞こえなくなっていった」
吹雪くなかで、意識すらなくしていく。このまま、白の世界で凍っていくのだろうと思った。
弟のぬくもりを感じながら。
「それで、弟は、どうなったんだ?」
「…いなくなった」
「…え?」
「気がついたら、僕は病院のベッドで寝かされていた。弟はいなくなってた。一緒に居たのに。弟だけが、いなくなってた」
「わからない、のか?」
ここまでは、秘密でもなんでもなく、調べればわかることだ。
「…ここからが、僕の一番の秘密だ」
「……」
「僕は…弟と誰かが話してるのを確かに聞いた」
意識はそのときかろうじてあったのだ。
目も開かなかったたけど、意識だけは、そして声を聞いた。女性のような、話し声を。

「誰か…」
「弟はその人に、必死に自分を助けて欲しいと、叫んでいた。そして…」
「そして…?」
「弟の身体が氷付けになる音を聞いた」
ぱきぱきというよりは、静かに霜が降りるように、氷付けになって、呼吸を止めていく音。
「……」

「”兄貴、ごめんな。母ちゃんたちのこと、頼んだぜ”」

「…それが、弟の…豪の声を聴いた最後だった。氷付けになったなんて、誰も信じてくれないし、あの状況でどうして自分だけ助かったのかはわからない。これが、僕の秘密だ」

ふう、と息を吐くと、少しだけ重苦しさが落ちた。秘密がなくなったせいだろう。
「……そうか…わかった」
夢物語のようなその話を、笑うこともなく、青年は静かにその話を聴いていた。
「お前の、名前は…?」
聞くと、青年は少しだけ悲しげに笑った。
「名前を知る前に、少しだけ、御伽噺をしてやるよ」
「…?」
唐突に、タオルを置くとその青年は目を閉じて語り始めた。
「ある山に、雪女の一族がいました。雪女だから、女しかいない…そして、一族を次の世代に繋ぐために、雪女には男の精が必要だった…」
「雪女が一族を存続させるためには、男がいるのか?」
「ああ…昭和のはじめにはたまに男を氷付けにして、それを調達していたんだけど…時代が変化していくにつれそれは不可能になっていった」
「……」
「ある日、雪女の一族は考えた。人間一人捕まえて調達してを毎年繰り返すのは、とても危険が伴うと…ならば…」
「ならば…?」

「”人間の男の子を捕まえて、自分の手で育てよう”と…子供が成長したら、毎年毎年その子供から精を得られると。誰も危険を冒すことはない…と」

「……!」
「ある年、男の子の兄弟が、雪山に迷いました。兄のほうはすでに意識が無く、弟も道に迷い、このままでは死んでしまう。雪女の一族は、兄弟をねぐらに導き、意識が残っていた弟に先ほどの提案を持ちかけました」
「…弟は、どうしたの?」

「弟は言いました。”兄を死なせずに、麓に届けてほしい。助けてくれるなら、その提案を受け入れる”と。雪女の一族は、その条件を受け入れました」

「…じゃあ、弟のほうは……」
「弟は、雪女の口付けを受けました…。身体は氷付けになり…涙は氷の塊になりました。弟はもう人間ではない存在……兄が助けられるのを見届けた後、弟は雪山へ消えていきました」
「……そう、だったのか…」
「…ああ、その後、弟は行方不明となり、兄の前にも、誰の前にも姿を見せなかった」

眼を閉じた。そんな契約が、あったなんて。
頭の中で、ピースがかちかちはまるような感覚。雪女、なんて信じられないけど、それがあれば、全てのことに納得がいく。
「御伽噺は終わりだ」
いうと、彼は微笑んだ。
「…じゃあ、教えてくれ。お前の名前は?」
包帯で巻かれた指先をゆっくりと、青年の頬へ持っていく。

それに、青年は抵抗しない。
感づいているのだろう。僕が誰なのか。

「俺の名前は…」






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