雪が融解する温度
この山には雪女が出るという。 昭和のはじめ、そう呼ばれていた山だったが、今となっては過去のことだ。 今ではスキーの名所として娯楽施設になっている。 だけど、その整備されたスキー場から一歩離れてしまえば、そこは昔のままの白い世界が溢れていた。 ゆっくりとした足取りで、ただ歩く。 小さいころから通いなれたこのスキー場がある山にこんなところがあったなんて、知らなかった。 吹雪で視界が全くない。ただただ眼に焼き付くような白。白。白。 体温を奪う雪に纏わりつかれて、身体が冷たくなっていく。 動かない。動けない。 ついには指先までも凍りそうになる。 ”…このまま、死ぬのかな” 真っ白の中で、冷たい雪の中で、埋もれて。 ”誰か…たす…けて………ごう” そう思いながら、重くなった瞼を、ゆっくりと閉じていった。
「……」 眼が覚めると、木製の天井が見えた。 遠くに、暖炉の火が燃える音がぱちぱちと遠くに聞こえる。少なくとも現実感がある部屋だった。 天国とか、死後の世界ではないらしい。 (…助かったのか?) 指先を動かそうとしてみたが、何かできつく拘束されていて動けない。たぶん包帯だろうと思う。 足もうまく動かない。 身体は体温を取り戻そうとしていたが、動けないのではどうしようもなかった。 首だけなんとか動かせるようで、あたりを見渡す。 テーブルの上に、お湯が張られたらしい洗面器と、タオル。 あとはカーペットがあるくらいで、寝るだけの部屋、という印象だ。窓すらない。 ドアはあったが、動けないのでは意味がなかった。 しかし、生きている。それだけが、今の自分にとっては救いだった。 (本当に、助かったんだ…) 死にたくないと願った。 生きていたいと願った。 それを誰かが叶えてくれたのだ。 しかしそのお礼を言いたい相手は、今ここには居ないようだった。 「……」 まだ、少しだけ身体が痛んだ。何もできない以上、眠っているしかない。 覆われた羽布団をぎゅっと掴み眠りに浸ろうと、眼を閉じた。 眠気は、思ったよりもすぐにやってきた。 それは、もうずっと前のこと。 眠りの中でも、白い夢を見た。 冷たい雪の世界で、眠りそうになる自分を何度もたたき起こしてくれる人がいた。 弟の、豪。自分も辛いはずなのに、精一杯動かして、俺を助けようとしてくれる。 それでも、身体は動かなくなる。凍ったように、眠気が襲う。 「…つ…あ…き……あ…にき…」 薄れ行く意識は、黒い視界に閉じ込められた。 「さ…なら、……にき」 弟の、凍る音を聞いた。 気がついたら、今みたいにベッドの上。隣に豪はいなかった。 あれは、僕が11歳のころのことだ。何もできなくて、ただ、いなくなった豪を思った。 神隠しのようなものだったと思った。死んでいるとは思えなかった。 遺体が、みつからなかったのだから。 豪は家にいない。家族、友達みんなが悲しんでいても、僕だけは治療に精一杯で泣くに泣けなかった。 記憶は反芻されていくうちに、涙が零れる。 豪がいなくなって7年。真実もわからないまま。雪山に赴き、気がついたらこうなってた。 また、自分だけが助かった。 悔しいのか、うれしいのかわからない感情が溢れて、涙となって落ちる。 眠ったまま、記憶だけが紡がれていく。 だからだろうか。部屋の主が来ても、ああ、音がしたな、という感覚だけしかなかった。 「…泣いてるのか?」 温かいタオルで顔を拭きながら、部屋の主は呆然とつぶやく。 「…ごう……」 ふと、手が止まった。 「本当に……烈兄貴……なのか?」 タオルでふき取る手が離れた。 ゆっくりと眼をひらく。そこには、心配そうに自分の顔を覗き込む、青い眼の青年が居た。 「……」 「…大丈夫か?」 少しだけ眉を寄せてじっと見つめていた。 「…あなた、は?」 「俺は…、いや、俺のことはいいんだ。よかった…気がついたんだな」 そんな、はぐらかすような返事だった。 「僕は…助かったのですか?」 「…ああ、運がよかったぜ」 そういって笑った。 「まだ動かないほうがいい…凍傷も少ししてる。あとでスープもってきてやるやら」 「ありがとうございます…」 青い眼に、青い髪の、綺麗とも見える青年だった。 肌が雪のように白い。おしろいでもこうはならないだろう、肌色と白の、限りない中間。 その危うい雰囲気に、困ったような笑みを浮かべた。 自分の顔の汗を大方ふき取ると、立ち上がった。スープを作りに行くのだろう。 「……あの…」 「ん?」 「…どうやって、僕を?」 「たまたま、倒れてるのを見つけただけだ」 「そうですか……」 「なぁ、お前の名前を、聞いてもいいか?」 聞かれて、断る理由もなかったから、答えた。 「…星馬、烈……」 一瞬だけ、青年の肩がびくりと震えた。 「烈、だな…わかった」 そういい残して、ドアを閉めた。 ◆ ◆ ◆ 「本当に、烈兄貴…なんだ」 7年ぶりだ。あんな風に成長してたなんて。 雪の中で、人が埋もれているのを知ったから行ってみれば、懐かしい顔を見た。 心底驚いたものだった。もう二度と、会えないと思っていたから。 会えなくても、生きていればそれでいいと決断して、7年。 ずっと、会いたかった。 思い続けた。 それが、こんなところで叶うなんて。 「…うっ……」 歓喜が身体を貫いて、涙となって零れ落ちる。 しかし、その涙は水滴ではなく氷の球体となって音を立て、床を転がっていった。 氷の球がいくつもいくつも、霰のように、こぼれ落ちていった。 「…烈兄貴……」 疲れ切った身体を、その青年は丁寧に看病してくれた。 どこかから食事を持ってきてくれて、身体を起こして食べさせてくれた。 けれど、部屋からは一歩も出られなかった。外の世界はまったくわからない。 名前も教えてくれなかったその青年は、それでも、自分のことを烈と呼んだ。僕は、相手のことしか呼ぶ人がいなかった。 たまに服を総て脱がされて、身体を拭いてくれる。 それを拒絶しようかと思ったけれど、そいつも照れてるのだ。 透き通る白い肌を朱に染めるさまは、恥らってるのがどっちかわからないくらいだ。 だから仕方なかった。 他人にまさかこんなところで裸体を見せるなんて。と思いつつも、彼に任せるしかなかった。 「だから、もういいってば…そこくらい自分でやるから」 「……」 彼は烈を睨んだ。これは自分の仕事だから、という絶対の目で。 「…んっ……」 胸の上なんか拭かれた時には感じてしまいそうだ。 そんな丁寧にしなくてもいい、と言ってもどうせ彼は聞いてくれない。 変なところで悪戯心が発揮する。ならそんな恥らうんじゃない。余計にきになってしまう。 風呂まで連れて行って欲しいと提案したが、却下された。 「風呂はあるんだけど…運ぶのめんどくさいから、歩けるようになったらにしてくれ」 「そんな…」 じゃあ、ちゃんと動けるまでずっとこのままなのか。 「…ごめん」 それだけ言って。 しょげた顔で言われたら。何もいえなかった。 「わかったよ」 「うん」 体を拭いたら、今度は凍傷で変色した指の包帯を解く作業に入る。 青年は自分の手袋を脱いだ。綺麗で細い指をしている。 薬を指に塗ってくれる時以外は、ずっとそいつは薄手の手袋をつけて、肌に一度も触れたことがない。 指は、凍傷で感覚がなかった。 「これ、大丈夫なのか?」 「ああ…しばらくすれば動かせるようになるはずだ」 この薬はよく効くんだ。と、悪戯好きの子供のように笑った。 ベッドから起き上がれるようになっても、やっぱり指がうまく動かなかった。 歩き回って気づいたら、ここは、どうやらロッジらしい。 キッチンはあるし、冷蔵庫もある。風呂場もちゃんとあった。 そして、住人はこの青年一人しかいないらしい。管理人をしているんだろう。と烈はぼんやり思った。 ただ、時計がない。このロッジの何処にも。 やはり、時間感覚がない日々は、烈に少しだけ不安を落とした。 数時間たって包帯を解き、緑色をした薬を塗っていくうちに、その傷も、少しずつ癒えていった。 いつもどおりの薬塗り。 ふと、目の前に青年に烈はたずねた。 「…もう何日、ここにいるんだろう」 「眠った分だけ、経ってるんじゃないのか?」 「…覚えてないよ」 昼も夜もわからない部屋で、何度眠ったかなんて。こうして、この青年が十数回来て薬を塗ったことは、覚えてる。 青い髪に青い瞳の青年は、静かに烈のそばにいた。 けれど、烈はまったくといって、こっちの情報は入ってこない。 だから、聞きたかった。せめて名前だけでも。 「…お前は、誰なんだ?」 「この家の主だよ」 即答された。 「…そうじゃなくて」 「……」 ふっ、と青年は笑った。包帯を巻いてその端を丁寧に結ぶ。薬で濡れた指を拭いた。 「じゃあ、烈の一番の秘密を教えてくれたら、教えてやる」 「僕の一番の秘密…か」 「ああ…」 ベッドに座ったまま、青年の表情を見ると、どことなく誰かに似てる気がした。 そうか、似てるんだ。髪の色が。瞳の色が。 まるで深い湖の底のような、綺麗な青。 予感はしている。だけど、少しだけ信じられない。 だから、確かめたかった。そのために秘密を話しても。 烈の一番の秘密。それを言ったとしても、本人でない限り、この青年はなんの意味もないだろう。 そう思い、烈は話をはじめた。 「…7年前、僕が11歳の頃。弟がいなくなったんだ。この山で」 「…弟?」 少し、青年が興味ありげに尋ねる。 「ちょうど僕がこんな風に山で遭難して、雪山で埋もれてた。眠りそうになった僕を何度も起こしてくれたけど、とうとう力尽きたみたいで、弟の声も、聞こえなくなっていった」 吹雪くなかで、意識すらなくしていく。このまま、白の世界で凍っていくのだろうと思った。 弟のぬくもりを感じながら。 「それで、弟は、どうなったんだ?」 「…いなくなった」 「…え?」 「気がついたら、僕は病院のベッドで寝かされていた。弟はいなくなってた。一緒に居たのに。弟だけが、いなくなってた」 「わからない、のか?」 ここまでは、秘密でもなんでもなく、調べればわかることだ。 「…ここからが、僕の一番の秘密だ」 「……」「僕は…弟と誰かが話してるのを確かに聞いた」 意識はそのときかろうじてあったのだ。 目も開かなかったたけど、意識だけは、そして声を聞いた。女性のような、話し声を。 「誰か…」 「弟はその人に、必死に自分を助けて欲しいと、叫んでいた。そして…」 「そして…?」 「弟の身体が氷付けになる音を聞いた」 ぱきぱきというよりは、静かに霜が降りるように、氷付けになって、呼吸を止めていく音。 「……」 「”兄貴、ごめんな。母ちゃんたちのこと、頼んだぜ”」 「…それが、弟の…豪の声を聴いた最後だった。氷付けになったなんて、誰も信じてくれないし、あの状況でどうして自分だけ助かったのかはわからない。これが、僕の秘密だ」 ふう、と息を吐くと、少しだけ重苦しさが落ちた。秘密がなくなったせいだろう。 「……そうか…わかった」 夢物語のようなその話を、笑うこともなく、青年は静かにその話を聴いていた。 「お前の、名前は…?」 聞くと、青年は少しだけ悲しげに笑った。「名前を知る前に、少しだけ、御伽噺をしてやるよ」 「…?」唐突に、タオルを置くとその青年は目を閉じて語り始めた。 「ある山に、雪女の一族がいました。雪女だから、女しかいない…そして、一族を次の世代に繋ぐために、雪女には男の精が必要だった…」 「雪女が一族を存続させるためには、男がいるのか?」 「ああ…昭和のはじめにはたまに男を氷付けにして、それを調達していたんだけど…時代が変化していくにつれそれは不可能になっていった」 「……」 「ある日、雪女の一族は考えた。人間一人捕まえて調達してを毎年繰り返すのは、とても危険が伴うと…ならば…」 「ならば…?」 「”人間の男の子を捕まえて、自分の手で育てよう”と…子供が成長したら、毎年毎年その子供から精を得られると。誰も危険を冒すことはない…と」 「……!」 「ある年、男の子の兄弟が、雪山に迷いました。兄のほうはすでに意識が無く、弟も道に迷い、このままでは死んでしまう。雪女の一族は、兄弟をねぐらに導き、意識が残っていた弟に先ほどの提案を持ちかけました」 「…弟は、どうしたの?」 「弟は言いました。”兄を死なせずに、麓に届けてほしい。助けてくれるなら、その提案を受け入れる”と。雪女の一族は、その条件を受け入れました」 「…じゃあ、弟のほうは……」 「弟は、雪女の口付けを受けました…。身体は氷付けになり…涙は氷の塊になりました。弟はもう人間ではない存在……兄が助けられるのを見届けた後、弟は雪山へ消えていきました」 「……そう、だったのか…」 「…ああ、その後、弟は行方不明となり、兄の前にも、誰の前にも姿を見せなかった」 眼を閉じた。そんな契約が、あったなんて。 頭の中で、ピースがかちかちはまるような感覚。雪女、なんて信じられないけど、それがあれば、全てのことに納得がいく。 「御伽噺は終わりだ」 いうと、彼は微笑んだ。 「…じゃあ、教えてくれ。お前の名前は?」 包帯で巻かれた指先をゆっくりと、青年の頬へ持っていく。 それに、青年は抵抗しない。 感づいているのだろう。僕が誰なのか。 「俺の名前は…」 |