雪が融解する温度2
「俺の名前は…もう知っているだろう?烈兄貴」 にこ、と笑った。遠い記憶が蘇る。烈のことを、烈兄貴なんて呼ぶ人物は、一人しかいない。 だから、烈も答えを確信して、言った。 「ダメだ、ちゃんと言え」 そう、にやりと笑って見せた。 「ん…しょうがない兄貴だな」 お手上げ、と両手をあげ、そして下ろす。 そして、烈のほうを見て、答えた。 「…星馬、豪」 同じ苗字、烈と豪。青い髪と、青い眼。特徴は総て…一致する。 豪だったんだ。もうずっと会いたかった。どうして、すぐに言ってくれなかったのか。 いなくなった理由がさきほどの御伽噺ならば、悔しい気持ちがあるが納得はできた。 活発な性格だったのは少しだけ鳴りを潜め、ただ困ったように笑った。 「会いたかったよ…豪…お前が、僕を助けてくれたんだな」 「…心配かけて、ごめん」 「いいんだ、お前が生きてた」 「人外になっちゃったけどな」 そういって、豪は苦笑した。なんでもないことのように。 「人外って…」 「俺は雪女と人間のハーフみたいなものなんだ」 「え…?」 「マイナス30度の中でもこの恰好で普通に外に出て、夏場は寝てる。そんな人間いないだろ?」 「豪…」 確かに、豪の服は薄手のセーターだ。この恰好は家の中で、暖炉のそばでこそ居られる服装で、外では一歩も動けないような格好だ。 「それに風呂に入ったら…、いや、考えたくねー」 首を振って、豪は僕に向き合った。 「また、会えると思ってなかった」 「僕も、会えるとは思ってなかった。死んだって言われたから…信じられなかったけど…」 包帯で巻かれた指を、解こうとする。直に触れたい。けれど、豪はそれを許さなかった。 手袋で覆われた手で阻止される。 「俺に直に触ろうだなんて思うなよ。とっても冷たいんだからな」 「豪…」 「傷が治ったら、麓まで送るから、兄貴は家に帰れよ」 「どうして…」 どうして、と言われて。豪は目を閉じ、兄貴のほうを見た。 「俺がいなくなって、兄貴までいなくなったら、みんな悲しむ」 「あ……」 今の状況でも烈は遭難しているのだ。必死に無事を祈っている。 「なら、お前も一緒に戻るんだ」 豪は静かに首を振った。 「俺は、もう下じゃ暮らせない」 人外だって言っただろ?と豪は笑った。 「どうしてだよ、どうしてお前は…」 「わがまま、かな?」 「え?」 「俺は、兄貴に生きてて欲しかった。それだけのわがままだ。それに…」 手袋をした手で、豪は烈の頬に手を伸ばした。それでも触れようとはしない。形をなぞるだけ。 「また、兄貴に会えた。もし俺が条件を受けなかったら、それすらもなかった。だからこれでよかったんだ」 「豪…」 知らないうちにぼろぼろと涙が零れる。会いたかった。 その気持ちがあふれ出しているようだ。 豪の手袋に触れた瞬間、凍り付いて霜になった。 「ほら、兄貴はそんな泣き虫じゃないだろうが…、これ」 「あ、ありがとう…」 温かいタオルを渡され、それでしばらく顔を覆った。 「なぁ、兄貴、少し話しをしてくれよ。俺がいなくなったあとの、みんなのこと」 「あ、ああ……」 豪に誘われるまま。 この7年のことを話した。豪がいなくなったあと、母さんがひどく落ち込んでしまったこと。 自分の雪山に行くのも本当は反対されてたこと。 それでも、自分が豪がいるかもしれない、と毎年来ていたこと。 「…そっか、大変、だったんだな……」 やはり、豪はしょげているようだった。 仕方ないとはいえばそうだろう。豪は死んだも同然にみなされているのに、こうして生きているのだから。 もう戻れないことは烈以上にわかっている。 「なぁ、豪、やっぱり戻ろう……その、雪女さん、にはさ…俺から言うから」 「え……」 「豪を返して欲しいって…言うから」 「兄貴……」 一瞬、泣きそうになるように目を細める。 「いままで、寂しかっただろ、寒かっただろ。これからは、俺がいてやるから…」 ベッドから腕を伸ばす。そうして、豪の薄手のセーターの中に、顔を埋めた。 ひんやりとしていた。 人間の通常の体温よりかなり低い。ちょうど、冷蔵庫の中みたいなそんなつめたさ。 「あ、兄貴…俺に抱きついたら冷たいって…」 「いいんだ…あとで暖めれば、いい…」 「……」 恐る恐る、といった様子で、豪も烈の背中に腕を回した。 「会いたかった…れつあに、きっ……!」 震える声で、豪が言う。 「うん…会いたかった…」 冷たさを感じながら目を閉じていると、こつん、と膝になにか当たる感覚がした。 「ご、う…?」 豪は、静かに涙を零していた。 ただ、その涙は地に着く前に凍りつき、硬い音を立てた。氷の結晶が、いくつも膝の上に落ちた。 それでわかった。 …豪は、もう人ではない、のだと。 「大丈夫だ、俺がいる」 それくらいしか言ってやれなかった。こんなに冷たくなってしまった豪を、自分は戻せるのか。 いや、きっと戻してみせる。 豪だってきっと、帰りたいはずなんだから。 そう信じて、烈は雪女との対面に臨む。 ◆ ◆ ◆ 「夜、起きててね」 豪は深夜にそう言った。話をしてくれる、と。 そうして、豪は部屋を出ていった。 うすぐらい部屋の中、烈は一人で待った。彼女たちかどうかわからないが、話をするために。 じっと、待っているとふと、粉雪が舞った。 怖い、だろうけど、不思議とそんな気はしなかった。豪を助けてくれた人だ。怖がっちゃ、いけない。 ぎゅっと、毛布を握り締めた。 「…こんばんは、雪女さん」 誰もいない雪にむかって呟くと、ぶわっと風、があたりを包んだ。 「こんばんは。豪から、話は聞いているわ」 白い、着物をきた女性だった。 肌が豪よりも透明で、髪も銀色。怪談にでてくる雪女そのものだった。 「…ずいぶん、見た目どおりなんですね」 「そうかもしれませんね」 音もなく歩くと、彼女は豪がいつも座っている椅子の前に座った。 「要点だけ手短に言います。豪を、返してください」 「それはできない」 やはりか、と烈はため息をついた。 「豪は、私たちが育てた。私たちの生きる糧。私たちの水そのもの」 きっぱりとした口調で、続ける。 「私たちと豪の間の契約はすでにできている。だから、返すわけにはいかない。あの子は私たちのもの」 「…どうしても、ダメですか?」 「ええ。兄として、あの子を取り戻したいと思うのは当然だけど…あの子はね、豪は…私たちの太陽なのよ」 「太陽、ですか」 ふふ、と雪女は口元に笑みを浮かべた。本当に嬉しそうに。 「豪は、変わった子だったのね」 「まぁ、そうですね…いつも無茶ばっかりしてました」 10歳の豪を思い出しながら、呟く。 そうね、と彼女は頷いた。 「豪がこっちに来た理由は知ってるわね」 「ええ、聞きました」 なら、その後の話をしましょうか、と彼女は口を開いた。 「あなたを麓に送った後、豪はひとりきりになった。寂しい、って言うと思った、帰りたいって思うに決まっている。そう思っていた…」 「そうじゃ、なかったんですか?」 豪が、烈の元から離れた後、豪はいままで、どうしていたのか。 「豪から聞いていると思うけど、あのときの私たちは、本当に消えそうだった。男の精を得られなくって、どうしようもなくて。こんな子供に何ができるんだろうって、そう、思ってた」 息絶えそうな雪女の一族。そして、一人残された豪と。 あのときの豪はまだたったの10歳だった。 「帰りたい、って泣き出したら、帰すつもりだった。私たちの望むものは得られないから。だけど、あの子はそうはしなかった」 ”なぁ、お前ら、俺がいるんだろう?なら、使えよ。烈兄貴を助けてくれたのに、何にもできないんじゃ俺イヤだからさ” ”俺のセイ?せいって何だよ…ああ、そういうことなんだ。いいぜ、俺がやる。な、俺がいてやるから、そんな悲しそうな顔するんじゃねーよ” たったひとりで、一族全員の命を救ったのだ。 「たった10歳の子供に、私たちは救われた」 「……」 「それだけじゃない、あの子の天性の微笑みは、私たちを解かさない太陽だった。私たちはいつのまにか、あの子を手放せなくなってしまった」 泣きもせず、一人で寂しいはずなのに。それを見せもせず。 彼女たちの気持ちは、わかる気がした。 豪の、あの性格は、きっと…人間だってひきつける。 「私たちは、豪に感謝した。そして、7年、一緒に暮らしてきた。もう家族みたいなものよ…死ぬまで一緒にいるわ。だから、帰せないの。ごめんなさい」 「でも…!」 「諦めなさい。それがあの子が望んだことでもあるし、あなたのためでもある」 有無を言わせず、きっぱりとした口調で言い切った。 そして、椅子からたちあがる。 「待ってください、まだ話は…」 「あの子の体温を元に戻してあげたい?」 後姿のまま、彼女はたずねた。 「ええ、戻したいです」 「…でも、それをするには代償が要る」 「なんですか?」 「あなたそのものよ、もし、ここで迷ったのがあなたでなければ、豪を生かすために私たちが殺すつもりだった」 「…!」 「でも、着たのはあなただった。だから、あの子に聞いた。あの子は迷わなかった」 横顔で、悲しげに彼女は烈を見る。 「あなたを犠牲にすれば、あの子を人に戻せるかもしれないけど、あの子はそれを望まず、もう一度助けることを選択した。だから、私たちもあなたを助けることにした」 「なっ…!」 僕を犠牲にすれば、豪を元に戻せるって? 「どうして…!そんなこと豪は一言も…!」 「言わないでしょうね。あの子なら。あなたを犠牲にするなんて微塵も考えてなさそうだから」 そういって、くす、と笑った。 「帰りなさい…戻りなさい。あなたと豪は兄弟だけど…もう住む世界が違うのを、自覚しなさい」 「待って…なら…なら豪はずっと一人きりであなたたちと一緒にいさせる気なのか?」 びゅう、と風が巻き起こる。彼女が戻る気なのだろう。 「待って…!どうすれば、どうすれば豪を戻せるんだ!僕を犠牲にしても構わないから!」 彼女は、答えなかった。 僕の叫びより、豪の意思を尊重した。 「帰りなさい」 あとは、ただ粉雪が解けるだけだった。 ◆ ◆ ◆ 「そっか…失敗したんだ」 豪は静かに、聞いていた。 いつもの通り、朝ごはんを作って。薬を塗って。 「もう、平気だな、包帯も取れたし」 そういって、豪は笑った。 「明日は晴れるって、だから、兄貴は荷物を持って降りろよ」 豪は言う。けれど、烈は答えなかった。 じっと、何か考えるようにして、うつむいていた。 「豪」 「なに?」 今日一日、ずっと口を開かなかった烈が、ぎっ、と豪を睨んだ。 「あに、き?」 表情の意味がわからず、豪は気圧される。 「雪女さんから聞いたぞ。お前…僕を犠牲にすれば、元に戻るんだってな」 「…!」 豪が、息をのむ。 「どうしてそれを言わなかったんだ!」 「っつ…!」 避けるように、顔を背けた。 「昨日、母さんに会いたかったっていうのは嘘なのかよ!」 「そうじゃ、ない…」 「…なら、俺を犠牲にすればいい…!俺が豪の代わりになればいいんだろう?どうして、そのことすら言わなかったんだ…」 しばらく、顔を背けていたが、やがて、豪はしっかりと烈を見つめた。 「やるつもりが、ないから」 「なっ…!」 「たとえ、助けたのが烈兄貴じゃなくったって。俺は誰かを犠牲にして戻る気なんかない」 それは、豪の瞳に灯った静かな決意だった。 そして、ふと視線を落とす。 「俺は、もう、いいんだ…一人って言っても、彼女たちが一緒にいる。兄貴だって、今だって心配されてるんだろう?だから」 また、射抜く視線で烈を見る。 「兄貴は戻れ」 豪が、どうしてそんなことを言うのか、烈にはわからなかった。 戻りなさい。戻れ。 どうして、みんなそんなに烈を突き放す? 豪が傍にいるのに。自己犠牲なんて普通ならもってのほかだけど、豪にならばできる。一度、豪に助けられた身なのだから。 だから、惜しくはないのに。 もういい?どうして豪はそんなに自分を諦めているんだ? 何もしなくていいみたいに。 知っている豪はもういい、なんて言ったことなかったのに…どうして。 「お前…変わったな」 「兄貴?」 「なんで、もういいなんて諦めてるんだよ…お前はここから出たくないのかよ!」 「それ、は…」 豪の瞳が揺らいだ。 烈はさらに畳み掛ける。そして、言ってしまった。 「そんな風に諦めてる豪なんて、俺は知らない…お前、本当に豪なのかよ!」 幼い頃、一度だけ言ったことがある言葉だ。 びく、と肩が跳ねた。そしてうつむいた。肩を震わせて、何も言わない。 「…!」 そこまで言って、言い過ぎたと気がついた。 「ご、う…悪い…今のは……」 聞いてないそぶりで、豪は息を吐く。 「く、くく…あはは……」 豪はうつむいたまま、笑っていた。まるでどこか気がふれてしまったかのように。 「ご、う…?」 ぴた、と笑いが止まる。 「ああ、そのとおりだ」 じろりと、烈を見つめた。 「……!」 何もなかった。何もかもを飲み込む、冬夜空の青。 かたん、と椅子からたちあがる。そして、ドアの方に向かっていく。 「待ってくれ、豪…謝るから……!」 「いい」 慰めはいらない、と豪は一度だけ、振り向いた。 「お前の知る星馬豪は…7年前、お前のために心臓を止めた。だから、今の俺は…お前の知ってる豪じゃないかもしれない。本当の、豪じゃないかもしれない」 「…!」 「俺がニセモノならば、自分を犠牲にしてまで、俺を助けようなんて思うな」 「あ…」 「兄貴の知っている、星馬豪は…7年前に死んだんだよ。さよなら、兄貴…最後だけでも会えてよかった」 「待て豪!」 ぱたん、と扉が閉じられた。 「豪!」 慌てて部屋を飛び出した。 さっき部屋を出たばかりのはずなのに、いない。 ただ雪が残るばかりの部屋。 「どこだ豪!」 キッチンにも、ダイニングらしき部屋にも行った。いない。 豪がいない。ただ、玄関先に遭難したときにリュックが残されているだけだった。 「そん、な…」 他の客間を覗いてみても、誰かが使った形跡がない。 火を使った形跡がまったくない。 豪の存在感を残したものが、このロッジに、1つもない。 「嘘だろう…?」 ばたん、とロッジを飛び出す。 空は快晴の水色だった。太陽がきらきら光り、一面の銀世界。 「豪ー!」 叫んでも木霊すら返ってこない。 代わりにばらばらばら…とした音が聞こえる。 太陽に影が落ちた。 「あれ、は…」 太陽をさえぎった黒い影の正体は、ヘリコプターだった。 こちらへ、降りてくるようだった。 「助かっ、た…?」 このまま行けば、自分は助かり、みんなに助かったと言えるだろう。 けれど豪は? このまま、こんな別れ方をして、謝ることもできないで。 豪を助けることもできないで、自分だけ、のうのうと助かって。 ”俺に直に触ろうだなんて思うなよ。とっても冷たいんだからな” ”会いたかった、兄貴” ”兄貴の知っている、星馬豪は…7年前に死んだんだよ。さよなら、兄貴…最後だけでも会えてよかった” 「さい、ご…?」 どさ、と体中の力が抜けてしまった。 「いや、だ…」 こんな別れ方で、助かりたくなんかない。 豪を探したい。今すぐに会いたい。けれどもうどこにもいない。そして。 ”お前の知る星馬豪は…7年前、お前のために心臓を止めた。” ”今の俺は…お前の知ってる豪じゃないかもしれない。本当の、豪じゃないかもしれない” 疑ったのは、自分だ。豪を、信じられなかったから…だから、豪は… 「あ、ああああっ!!ご、うっ!!」 でも、もう戻れない。豪は消えてしまった。雪のように。 自分の中の後悔と絶望で、烈は悲鳴をあげた。涙がこぼれた。 助ける声なんていらない。 豪の声が、欲しかった。 |