雪が融解する温度3



雪の上を滑るように豪は歩く。
びゅうびゅうと風が吹きすさぶ中、なびく髪にもまったく意を解さず、ただひたすらに。
空は透き通るような青。
遥か天空からの眩しさに、思わず豪は足を止めた。
風はなおも強く吹く。
細かな雪が地平をさらって、舞い上がった。

「…本当に、あれでよかったの?」

豪の耳に、ふとそんな声が響いた。
声は何処からともなく響く、その声に、豪は頷く。
「あれで、よかったんだ。ちょっと強引だったけどな…ああでもしないと烈兄貴、帰ってくれないから」
そう言って苦笑する。
でも、最後くらいお別れは笑顔でいたかったな。
それも仕方ないことだと、豪はため息をつく。

「さっき、あのひとがヘリコプターに乗せられていった」
ふと、息を止めたように豪の表情が固まった。
「そっか、助かったんだな。烈兄貴」
そして、笑った。喜ぶ気持ちを半々にして。あんな別れ方したから、もしかしたら喜んでいないのかもしれない、と。
けれど、烈はもうここにはいない。きっと今頃はちゃんとした病院で手当を受けているだろう。
「もうここには来ないかもしれないわね」
「そうだな、2回目だ。もう一度行こうとなんてしたら止められるな」

雪山が危険な場所だってことはもう十分わかっただろう。烈が行こうとしても、周りがそれを止めるだろう。
「…行こうか」
「ええ」
淡々とした会話だった。
そして、また豪は明後日の方向へさくさくと歩いていく。
彼女は無言で後に続く。

"本当によかったの?"

言葉は豪の胸に去来する。
「いいわけない、んだけどな…」
ぽつりと呟き、空を見上げた。空はまったく変わらない青空だった。
痛いくらいに眩しい。
「なぁ」
「なに?」
「今年は早く寝てもいいか?」
突拍子もないことを、彼女に告げる。
彼女はしばらく考えて答えた。
「構わないわよ。けどなんで急に?」
「…夢を、久しぶりに見られそうな気がして、な」
不思議な豪の言葉も、彼女は受け止めとめて答えた。
「そう。寝床は確保しておく」
「サンキュ」


歩いてどれくらい経ったのか、吹雪の中で、豪と彼女は雪原に消えた。


”もう、住む世界が違うのだから”

こっそり聞いてしまった彼女の言葉。
確かに、もう住む世界は違うけれど、もう一度会うくらいなら、許されるだろうか。
「来年は、大雪になるといいな…」

そしたら、烈に会える。そんな気がした。
もう雪に近い。いまの体ならば。
舞う粉雪のように飛んで行って、烈に会って謝るくらいなら、できそうな気がしたから。


「…あのひとは危険だから、もう会わない方がいい」
彼女はぼそりと言った。

「どうしてだよ。兄貴はそんなやつじゃないぜ」

「…長年抱え続けた思いを開放したとき、たまに人はおかしくなってしまうから」

「…おかしくなる?」

「そう、おかしくなる。私たちよりずっと怖い存在になる」


「兄貴なら、だいじょうぶだよ。心配することはない」

そう、と彼女はそれ以上、何も言わなかった。
冬が終わる。
雪が解けて、緑が芽吹き始める。

そうしたら、眠る。とても長い時間のなかで眠りに浸り、幸せな夢を。
雪が水になるように。蕾が花開くように。
生命の芽吹きと共に、彼女らと豪は眠る。


また白い日々が戻る日まで。




◆    ◆    ◆




「もう、冬が来たんだな」
あれから1年近く時間が過ぎて、烈は病院から薬を貰って、道を歩いていた。
怪我はすっかり治っているのに、本当はやらなくなちゃならないこともある。
けれど、烈はここにいる。
病名はPDSD。ということになっている。中身は精神安定剤だ。
具体的な症状を言えば、どうしようもなく混乱して時折ふらりと歩いてしまう。
その間の記憶はおぼろげだ。
理由はわかっている。豪を探しに行っているのだ。いないことがわかっていても。
みんなが豪がすでに死んでいる、と認識していることも。
それでも、諦め切れなくて、意識のどこかで彷徨うのだ。
まるで夢遊病か、意識が乖離しているようだ。

豪は、どこにいるんだろう。
それからの日々は、豪を探すだけの日々と体を回復する日々の半々を過ごした。
烈の半分の人生は、もう豪のものだ。
それでも、豪の言葉を信じるなら、冬にならないと豪はこない。

「……」
まじまじと自分の手のひらを見た。
傷は無い。きれいな肌色の指先がある。いつもどおり動く指だ。
これくらいしか、豪が残したものは無かった。
豪に看病された日々は何週間も経ってるようだったが、実際は3日しか経ってないことを救助されてはじめて知った。
ただ、救助された時、酷い状態だったらしい。
らしい、というのはあまり記憶がなかったからだ。
助けてくれる人が言うには、まるで誰かを追いかけるように雪山に戻ろうとして、それを必死で止めているのに泣きながら向かっていくので、大変だった。
ということだ。
たぶん、豪を探しに行こうとしたんだろう。
あの時は、後悔と絶望が意識の全てを支配していた。他にどうしようもなくて、雪山に戻って探したかった。
そして、気がついたら白いベッドの中だった。また助かった。母さんの泣き顔が見てて辛かった。
助かった。その事実があるのに。思うのは豪のことばかりだった。
豪はどうしているのだろう。雪の世界に囚われて、まだ彼女たちと一緒にいるのだろうか。

寒空の下で、石畳を踏みつつ歩く。考えるのは豪のことばかりだった。
「…ごう……」
黒々しい灰色の空は、今にも雪が降りそうだった。
そして、はらりと白い欠片が舞い降りる。
「降って来たな…」
赤い瞳に、白い雪がはらはらと降りて、烈の頬を掠めた。

「帰ろう…」

今年の冬は強い寒波が来て、大雪になるとのことだった。
ここにも、たくさんの雪が降るらしい。
「たくさん、降るといいな…」
目を細めて、大きくなってゆく雪の粒を眺めた。


思ったとおり、雪は止む気配を見せない。
電車は止まり、道路は封鎖されて、人が身動き取れない状態になっていた。
学校も授業を停止して、烈は一人で部屋にいた。
外はもう暗闇だったが、窓には雪がまだ降り続いている。
「…止まないな」
それを、烈は期待と不安が同時に混じった気持ちで見ていた。
こんな雪が積もる日は、なんだか変なことが起こりそうな気がしていた。
もしかしたら、寝てる間に外に出ているかもしれないな、と烈は苦笑した。

医者の心配のよそに、烈の外をうろつく癖は、半分自身で容認していた。

理由はわかっていても、どうしようもないと、知っているからだ。
無意識がそれを望むなら、隠していても仕方がない。
ならば、思いのままにさせてやろうと思ったのだ。

「豪は、そろそろ目を覚ましているのかな」

あの、雪山で。
彼女たちを生かすために、ただ一人でいるのだろう。
そばに行ってやりたかった。
会えるのならば、すぐにでもあの雪山に行って、豪を温めてやりたかった。

「…ひどい、な。これじゃ、まるで…恋でもしてるみたいだ」

烈はひとり苦笑した。
0時を過ぎた頃、烈はベッドにもぐりこんだ。
明日になっても雪が止まなかったら、またここにいる。
それだけのことだった。



◆     ◆     ◆




体が、雲か何かになってしまったかのように軽かった。
意識は散漫して、ふらふらと空中を漂う。

黒い空から白い雪が舞っていた。
こんなに寒いのに、寒いというよりは冷たかった。

寒いと冷たいは似ているけれど少しだけ違う。

冷たさは、時に安らぎをもたらす。
身体がからっぽで、何もないときや、熱があるときは、冷たさはこの上ない安らぎだ。
ただ、歩いた。どこへ向かっているのかも、夢なのかも、現実なのかもわからないまま。
ああ、これが心配される由縁なんだな、とふと頭の片隅で思っても、歩みを止めない。
剥き出しの感情のまま、歩いてゆく。

歩いていった先に、ふと手を握られた。

「こんなところにいると、風邪を引くぜ?」

「……」
その声に、ゆっくりと振り向く。
手の先は、薄手の手袋。
灰色のコートを纏い、自分の歩みを手を引いて止める。
青い髪と、青い瞳は、ぞっとするほどこの空に似合っていた。
どこか言葉に迷うように、視線を動かしながら、それでも手を離さない。

「もしかして、俺を探してた?」
「…あ……」
困ったような顔で、その白い顔を見ていた。

「少し、痩せたな」
「……」
自分を見つめながら、言葉を紡ぐ。

「…俺に、会いたくてここに来た?」

もう一度、たずねた。
自分はこく、と1つ頷いた。

「…どうして?俺はニセモノかもしれないのに……」

必死で首を振る。
肩に積もった雪が舞って地面に落ちた。

「あ…」
そうじゃないんだ。ここにいる豪は…、豪だ。
ただ、変わってしまった豪が信じられなくて、言ってしまった。本気じゃなかったのに。
白が舞う風のなか、豪の姿はゆらゆら揺れる。

「……ごめ、ん……」
「…あに、き?」

今度は、豪のほうが戸惑う番だった。

「ごめん…」
会ったら、言いたかった。疑ってしまったことを。
そのせいで、豪に辛い思いをさせたこと。

「……あにき……」
涙の筋が凍りつく。みっともないとわかっていても止められなかった。
豪は苦笑して、涙を拭う。ぱきん、と音がして、肌から氷が剥がれた。

「あいたい、んだ…」
この感情は恋に近かった。何だって構わない。もう一度会えるなら。
この命さえ、この魂さえ。そう思った唯一の相手。
だけど、それをこいつは望んでいない。それを知っている。

しばらく見つめていたが、豪は眼を伏せ、そして。口元に笑みを見せた。

「わかった、会いに行く…そのかわり……」

誰にも、言うなよ。
耳元で囁かれると、身体に震えが走った。


ふと、声が途切れた。
気がつけば、また一人きりだった。
足はちゃんと地面についている。そこにあるはずの足跡はない。
雪にかき消された足跡が、時間を告げる。

後ろを振り向いた。

そして、また歩き出した。また日常へ帰るための道を。



「…また、夢か」
現実感のある夢。現実感のない記憶。
夢の中の記憶はいつもふとしたことで消えてしまう。なのに、この手がそれが現実だということを教える。

朝起きたら、足も手も冷たくなって赤くなっていた。
それでわかる。また外に出てしまったんだと。
どうしようもない心の虚ろを埋めるように放浪を繰り返す自分と。
節制しながら、どこか満たされない日々を送る自分と。
そのどちらもが、いまの烈のなかにいる。

綺麗な水色の空だった。
いつもどおり、学校へ行って、授業を受けて。
退屈けれど安定の日々。
ぼんやりとしたまま授業を受けて、ノートに文字が埋まっていた。
ふと、気配を感じて窓を見る。
「あ…」
外を見たら、また雪が降り出していた。

”わかった、会いに行く”

豪の懐かしい声が頭の中で鮮明に響く。
休みを貰って、また雪は降り始める。すっかり囚われの身だった。

声だけで、こんなに体が震えるし、会いたいという思いが支配する。
どうしようもなく。
罪悪感もあるのに、どうしても、会いたい。
恋い焦がれる気持ちにも、欲望にも似ている。冷たい炎に焼かれてゆく。
(そうか…僕は……)
狂ってしまったのかな、と、烈はひとり笑った。
その笑みは誰にもわからなかった。
窓の外では、白が世界を覆ってゆく。

鈍い灰色のの空に、白い粉雪が舞ってゆく。




◇    ◇    ◇



小さい頃の話だ。
豪が物心ついた頃に、はじめて雪が積もった日。
解けるのはあっという間で、1日しか雪は持たなかった。
豪は、「雪がなくなるのは嫌だ」と泣いて、雪をいっぱい持って、冷凍庫に詰めた。
「これで、もう雪は解けないよね」
幼い豪はそう言って笑った。

けれど…、1週間たったある日、豪は母さんにこういわれた。

「早くその氷を捨てなさい」と。

雪が、氷に変わってしまったのはいつからだったのだろうか。



◇    ◇    ◇



夜になっても、雪は降る。
豪は、星馬家の屋根の上で、風に吹かれていた。
冷たい雪も、風も、豪にとっては生ぬるい春風と、そう大して変わらなかった。

「…こう真っ暗だと、高いのか低いのかもわかんねーな」

雪が積もり道路は機能停止してしまい、ビルの明かりも雪に細かくさえぎられる。
人の流れは止まっていた。
その中で、かれこれ3時間ほど、豪はここで座っていた。この下には烈がいるのだが、そこへ下りるだけの気持ちが、豪にはなかった。
会いに行く、と言ったはいいものの、豪は迷っていた。
烈にどう対応すればいいのか、わからなかった。

1年前の、自分に執着した兄の感情にまだ戸惑っていた。
あれだけの強い感情を見たのがひさしぶりだったかもしれない。

雪女とのハーフになってから、平穏だが感情の起伏もあまりなくなっていた。

兄貴に会ってからだ、あんなに泣いたの。それ以前は泣いてなんかいなかった。
昔はあんなに泣き虫だったのにな、と豪はひとり笑う。

まだ、俺は人でいるらしい、と思って、心が温かくなる。

こんなに体温は低いけれど、まだ温かさが残っている。
泣いたのは、嬉しかったから。
また兄に会えた喜びと、心に灯る火を繋ぎとめた感触があったから。


…兄貴に、会いに行く。


わずかな時間しか会えないかもしれない。
それでも、あのまま兄貴を放ってはおけなかった。
こんなに体温は低くても、ずっとの人の世界を知らなくても。
まだ、兄貴が俺を弟と言ってくれるのならば。




雪深い、午後2時。
俺は兄貴のベッド脇にいた。

「……」
兄貴は、人がいることは気づいても、俺ということを認識していない。
ぼんやりと俺を見上げる。これが、兄貴を病ませたもの。
「どこへ行くんだ?」
聞いてみると、思ったよりははっきりと言葉が返ってきた。
「…豪を、探しに行く」
そう言うと、立ち上がろうとする。それを肩を押して制した。
「……止めるの?」
「ああ」
「どうして?」

小首を傾げる。まるで子供だ。
いや、違う。この兄貴は、時間が止まっている。俺と全く同じ時間で。
離れ離れになったとき、その時間そのままで。

俺は少し考えて、答えた。
「必要がないからだ」
「…みんな、そう言った。だけど、僕は信じられないんだ」
「そっか…」
死んだことになっている弟。一人だけ生き続けていると信じているのは、辛いのかもしれない。
俺にはわからないけれど。

伝えよう。あっちの兄貴は俺を豪だと言ってくれた。
だから、俺は豪。
「…なぁ」
「ん?」
「いかないで」

手袋越しに手を握る。

「いかないで、おいていかないで。れつあにき」

俺はここにいるのだから。
「…ご、う?」
うつろだった目が、見開かれた。
「…約束通り、会いにきた」
待たせて、ごめんな。
少しだけ笑ってみせる。烈兄貴は震えて、すとん、と部屋の床に座り込んだ。
「…あ、兄貴?」
こちらの顔を凝視していた。さっきまでの虚ろな目はもうない。
俺を見つけたので、必要がなくなったから。

「ご、う…まさか、本当に?」

「うん…ホント」
がたがた震えている兄貴に、俺はそこにあった掛け布団をかけてやった。

「…1度しか、会えないけど……やっぱり、あのままで俺、終わりたくなかったみたいだ」
「豪…お前、俺を恨んでないのか…?」
「……恨んでない、っていうと…ちょっと違うか……すごく、悲しかったから」

ニセモノ、って呼ばれたこと。
一度死んでる身だし、ずっと寝てるか雪の中だったから、外の世界知らないから、兄貴からしたらニセモノに見えるのかな、って。
「…ごめん、豪……」
「いいって、俺もちょっと…兄貴にはひどいことした、って思ってるんだ」
「…」

俺のせいで、部屋の空気はずっと冷えている。
その冷たさを感じるように、ずっと兄貴は目を閉じていた。
俺に会えたのなら、もういいだろう。
この凍える冬が終われば、また眠るだけ。いつまでも、ここにはいられない。
兄貴にはそんな思いさせたくないしな。

「俺も、会いたかった」
精一杯の思いを乗せていう言葉。
兄貴は思いっきり俺を抱きしめていた。
1年ぶりに感じる温もりが、心の中の冷たさを溶かしていく。

どれくらいの時間、二人で抱きしめあっていたんだろうか。
抱擁は自然に解けていた。
「なぁ、豪」
「ん?」
「朝まで…ここにいてくれないか?」
「いいけど…朝日が昇るときにはいないからな」
「うん、それでいい」

兄貴はとても幸せそうな笑みを浮かべて。身一人では余る掛け布団で、一緒にくるんだ。
「…あ、兄貴?」
「眠いんだけど…やっぱ…お前と一緒に少しでも居たいんだ」

失われた兄弟の時間を必死に取り戻すように。
らしくないことはわかっていても、それでも、照れ隠しに言う兄貴に、思わず笑ってしまった。
「…うん、俺も一緒に居たい」

ただ、1つの思いを乗せた。

「…ごめんな」
兄貴の体温が温かい。
なにか懐かしい気持ちに包まれて、泣きそうになってしまう。

「…ごめんな」
そんなに、謝らなくてもいい。こうしていられるのはわずかな時間だけだ。
ならば少しでも、兄貴には楽しい思い出だけでいてほしい。


「ごめんな…豪」
もう、いいってば。



◇    ◇    ◇



「…ごめんな、豪」

俺はやっぱり、お前を手放せない。
ずっと一緒にいて欲しい。
そのためには…どんなことをしても。

「あに、き……これ……」

驚いた顔をした豪の頬を、手袋をした手で撫でた。

「…お前を、彼女たちの元へは、返さない」


豪の右手と右足をベルトで縛りつけた。
そこから伸びる鎖はベッドのヘッドフレームに繋がれている。
自分がやった。

豪が先に目を覚ますのか、僕が先に目を覚ますのかの賭け。

それに、勝った。
自然と、口元に笑みがこぼれる。
豪を彼女たちから取り返した。帰ってきた小鳥は逃がさない。
もともと、こちらと一緒だったのだから、再び放つ理由はない。


「…俺の眼を覚ましてくれて、ありがとう。豪」


間違いなく、僕の眼は覚めている。
もうあの夢遊病に悩むことはないだろう。

お前がそばにいてくれるのならば。



「なんだよ、これ……」
手錠を外そうとと、もがく豪を、見つめていた。
外れないことにようやく気がつくと、信じられない表情で俺を見つめていた。
手錠ををしたのが誰なのか、どうしてなのか、そう言いたそうに見つめていた。
「兄貴、どうしてだよ…これ、外してくれよ!」
「……」
それでも、僕は動かなかった。
豪にとっては、ここは帰る場所でなく、いる場所で。
どうしようもなく、それが悲しかった。母さんも父さんも、俺もいるのに。

「なぁ、兄貴、おねがいだから。これ外してくれ、帰らないと」
「どこへ?」
「どこへ、って…」

青い瞳が、そのとき揺らめいたのを確かに見た。
しゃがみこんで、目線と豪にあわせる。
「おまえの家は、ここなんだよ。豪」
言い聞かせるように、ゆっくりと言う。
ここは、星馬豪のいるべき場所だ。あんな冷たい雪山じゃない。
「そうだけど…おれは……!」
「豪…」
「ひっ…!」
豪の瞳が、恐怖の色になったのを見た。
そんなに、怖い表情をしてたのかな。いきなり手錠をかけられたんだから、それも仕方ない、か。
「…よく、考えろ、お前は今は混乱してるだけだ」
「兄貴?」

「手錠したこと、悪いと思ってる。だけど、お前はそうでもしないと、ここからいなくなってしまうから」
「……」
「お前は”帰ってきた”んだよ、もう、あんな冷たいところにいなくたっていいんだ」
ここはお前がいるべき居場所。
「俺は、帰ってきた…?」

信じられないように、言葉を紡ぐ。
そして、こちらを戸惑いの眼で見つめた。

「…何か、欲しいものあるか?雪が今止んでるから、買いに行くことくらいはできる」

少しだけ笑って見せた。立ち上がって支度をする。
掛け布団を豪にかけて、肩より下を覆う。冷たい豪を温度から護るために。
豪は、手錠と、僕を交互に見た。そして、一言
「…水」
だけ、言うと、眠るように眼を閉じた。

「うん、わかった」
ぱたん、とドアを閉じると、部屋が確かに冷えていたことを知った。

取り戻した、豪をこの手に。
あとは、豪の気持ちが変わって、ここが自分の家だって思うようになってくれれば、それでいい。
大丈夫。だってここは僕の家で豪の家だ。

きっと、思い出してくれる。



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