雪が融解する温度4





さて、これからどうすればいいだろうか。

自由に動かない片手と片足を眺めながら、ぼんやりと考えていた。
兄貴のことだから、俺を殺しはしないだろうし、たぶん、人に教えるってことも考えてないだろう。
大騒ぎになることは、目に見えてるから。
俺が生きるには、水と低い温度さえあればいい。食糧さえもいらない。
生きるには、また別のものがいるのだけど、それはここにいれば全く問題ない。
監禁されたって、俺は平気だ。

だけど…兄貴は。
俺にこんなことしたって、どうにもならないことくらい、兄貴だってわかってるはずなのに。

このまま、俺が監禁され続ければ。
雪が止んで日が差す時、俺は死ぬだろう。上がりすぎた気温の中ではきっと解けてしまう。
兄貴はきっと泣くだろう。
目の前で死んでいく俺を見て。自分のせいで死んでいくのを見て。
…それは、回避したい。

じゃあ、ここから逃げればいい。
兄貴が寝ているすきを見計らって、こっそり姿を消せばいい。
そうすれば、生きられる。
兄貴はやっぱり泣くのだろうか。俺が裏切ったって思って。
そうしたら、今度こそ兄貴はどうにかなってしまうかもしれない。
今だって不安定なのに、今度こそ決定的な何かが壊れてしまうかもれない。
…それも、嫌だな。

結局、どう転んでも兄貴を悲しませる結果にしか、ならないわけだ。
「…会わない方が、よかったのかな」
こんなことになるとわかっていたのなら。でも、それでも会いたかった。
俺は、ただそれだけを望んだのに。
一瞬で、よかったんだ。兄貴みたいに、ずっといたい。なんて俺は…思ってなかった。
「…いや、でも」
後悔はしてない。監禁されたことは驚いたけど、兄貴といられる時間が増えただけのこと。
最後の時間まで、俺は兄貴といられるのならそれでいい。
俺の思いはすぐに決まった。

このまま、ここにいよう。そう決めた。
怖いくらいに俺を求めてくれるなら、この命をもって受け止めよう。

「兄貴、ごめんな」
俺は兄貴の前で死ぬことになる。
泣かせてしまうことになって、本当にごめん。
でも、兄貴が大好きだから。最後まで一緒に居たいから。これは俺の決意なんだ。

窓に背を向けたまま俺は座っている。
視界を少し外に向けると、鈍い色の空が厚く覆っていた。
風が強く吹きつけて、ごとごとと音を鳴らす。
また、雪が降る。
この天気はまだもう少し続くと思う。まだ雪が解けるには早い。
「…早く、帰ってこいよ」
雪に閉ざされて、足が鈍くなってしまう前に。

「…ただいま」
数十分経って、兄貴は帰ってきた。
コートの雪を払い、ハンガーに掛ける。
袋にはアイスクリームとミネラルウォーターらしきものが入っているようだった。
「おかえり、烈兄貴」
「……」
俺の言葉に、兄貴は訝しげな眼で見つめた。
「兄貴?」
「…逃げなかったんだな」
悲しいような、嬉しいような、そんな笑みだった。
「どうして?」
「俺は、お前を監禁したんだぞ」
「…うん、知ってる。だけど俺はここにいるよ。少しの間だけだから」
「そんなことはさせない」
「…うん、ありがとな」
兄貴が監禁しても、それは決められた未来。
知ってるのか知らないかはわからないけれど、そう力強く言ってくれることが嬉しかった。

「俺は、ここにいる。逃げたりしない」
そういってやれることが、俺ができる精一杯。
兄貴はその言葉を聞いて安心して、心からの笑みを見せてくれた。
「お前の注文の水、あと、アイスクリームあるけど食べるか?」
「いいの?」
「これならお前だって食べられるだろ?」
「サンキュ、烈兄貴」
冷たくて甘いアイスクリームなんて、すごく久し振り。
蕩ける感覚がたまらない。
水を飲むと、身体が生き返ったみたいにすっきりとした。
こういうあたり、この身体は便利だ。
「うん、もう平気」
「そっか」
でも、手錠は外してくれなかった。
まだ不安なんだろう。鎖の長さがあるから、食べるには苦労しなかった。

「…豪」
「ん?」
唐突に呼ぶ声に、顔を上げる。
「…兄貴?」
兄貴は、涙を目にいっぱいに溜めていた。
「どうしたの?あに……」
言う暇もなく、抱きしめられていた。温かくて、どこか切ない。
「烈兄貴、何してんだよ、苦しいって…」
俺はそう言うけれど、兄貴はどんどん力を強めていった。
温かい、兄貴の欲望に沈んでしまいそうだ。どこまでも深い、思いに。
「兄貴、冷えるって…離せよ」
「……」
それでも、兄貴は離そうとしなかった。

その執着は、俺にはないもの。
そして、俺が求めていたもの。



◇    ◇     ◇



豪は、悲しいくらい穏やかだった。
僕の部屋に監禁されている事実を受け止め、その手足を鎖で繋いでもなお、豪は僕に向き合った。
「少しの間だけ、ここにいる」
そう言って。
そんなことはさせない。彼女たちが豪を連れ戻そうとやってきても、離したりなんかしない。
決意をこめて言う言葉に、豪は静かに笑って、「ありがとう」と言った。

「水さえあれば、俺は生きられるから…俺のことは心配しなくていいぜ」

外の雪は、降ったり止んだりを繰り返して、不安定だった。
その間、ずっと自室に篭もって、豪と他愛のもないことを話したり、ソニックとマグナムのメンテをしたりした。
籠の中の日々。
それは豪にとってもそうだったし、僕にとってもそうだった。片時も離れたくないという思いは日増しに強くなって豪を呆れさせるほどに。
豪に触れていれば幸せを感じ取れた。
言葉を聴けば、それだけで嬉しかった。
けれどいい加減な雪の日々に慣れて、雪の中でも電車は動くようになった。
豪を監禁して4日。とうとう、学校へ行くことになった。
一時も離れたくなんかないのに。

「いいって、兄貴は過保護すぎなんだよ。俺は逃げないって言ってるだろ」
「だけど…」

「大丈夫だから、な、兄貴…」
まるで、兄と弟の立場は逆転していた。
離れてれば、ふとしたときに豪はいなくなってしまう気がして仕方なかった。
だけど、一緒に連れて行くことも出来ない。
「わかった、なるべく早く帰ってくるから」
「うん」
粉雪が舞い散る中、学校へ行く。
そこの日々は久しぶりで、元から空虚だったけれど。
豪が着てから、まったく味気なく感じるようになってしまっていた。
(前は、まだ現実感があったのにな)
今は、それすらもない。
エアコンの温かさが、妙に気持ち悪かった。
ずっと寒い部屋にいたせいで、このエアコンの温度に身体が慣れていなかった。
(…変な感じだ)

自分は豪を監禁している。
それは、豪は自分のもので、どこにも行かせたくないから。
独占欲と庇護欲が同時に発揮された結果だった。
だけど。

自分が豪の世界の中に飲み込まれてしまいそうな。

ふと、そんな不安がよぎった。
あの、青い眼はそんな、何もかも沈み込ませる深さを持っていた。
自分を病ませる欲望すらも。
豪の視界を離れて、はじめてそれが認識できた。

(…どうしよう。どうすればいい)

怖くなってしまった。
このまま、豪の深さに飲み込まれていく自分が。豪に手錠を掛け、監禁して、なお支配したいと湧き上がる欲望に。
豪の手錠を外せばいいのか。
そうすれば、この不安から逃げ出せるのか。

「…ただいま」
「おかえり、烈兄貴」
豪は手錠に繋がれたままそこにいた。朝とまったく変わらない姿だった。
「はい、水」
「サンキュ」
豪の唯一の栄養源らしいミネラルウォーターを渡すと、嬉しそうに飲んでいた。
「母さん、部屋に来なかったのか?」
「ん…物音はしたけど、来なかった」
「そっか」
部屋の掃除を定期的にしているから、用事がない限り、部屋には来ないのだろう。
「…寂しかった?」
苦笑しながら豪がたずねる。
「だ、誰が寂しいって…」
「俺は、寂しかった。ずっと一人で」
「…」
眼を細めて、豪はそう言った。
「おかしいよな。ずっと、一人きりだったのに…いまさら、寂しいとか、思うなんてさ」
「お前…」
「ここの部屋いると、兄貴の匂いが少しだけして…余計に、なのかな」

豪の眼を見てはいけない。
そんな気にさせた。

見てしまったら、きっと…また豪に溺れてしまう。

「烈兄貴」
豪が、こちらに指を伸ばしていた。

「…おいていかないで。れつあにき」
もう、どうでもいい。
これが罠だろうが地獄だろうがなんだろうが。
豪の手を離さないと決めた。お前が俺がここまで縛り付けた。

その手を取って、その眼をしっかりと見つめた。
綺麗な青い色の相貌に、紫じみた自分が映る。
「置いていくわけないだろう。ずっと一緒にいるから」
「うん」

はじめから、こうなる運命だったのか。
それでもいいと思った。
豪はここにいて、一緒にいたいと望んでいる。それが全てで、いいと思った。
「…キスしていい?」
「勝手にしろ」
「うん」
豪はすごくためらいがちに、頬に口づけをした。
口にしなかったのは、凍らせてしまうからだと思う。
「…別に、口でもよかったんだぞ」
「それは、遠慮しとく」
真っ赤になっていう言う豪に、思わず笑ってしまった。

そんな、自分だけの弟。
緩やかで、穏やかに幸せを積み重ねながら、愛情と独占欲に塗れた日々。
手を繋いでさえいればよかった。

雪が降り続けて、1週間。

「それじゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
相変わらず、豪の手錠は外せなかったけれど、もう僕も豪も気にしていなかった。
ちらちらと降る雪も、見慣れたものになる。
水さえあれば平気な豪は、病的なまでに白く、閉じ込めれば閉じ込めるほど、綺麗になっていくようだった。
言ったりはしないけれど。

もう、豪に鎖にがんじがらめにされていても、気にすらしていなかった。

「…ふう」
お昼が過ぎ、あと4時間で学校が終わる。
じっと、空を見ていた。豪は何しているだろう。そう思いながら。
空は、綺麗な青い色をしていた。

(…青い、色?)

いままでずっと、灰色の鈍い色だった空。
粉雪が止むことがなかった空。
それが、ひさしぶりに日の光を取り戻し、街一杯に太陽光を浴びせていた。

雪が、きらきら光を浴びて、解けていく。

「…!」
がたん、と立ち上がった。
(…今日は、確か……カーテンを閉めてなかった…)
豪の座る位置は、ベッドの隣、窓の下にある。
もし、手錠が外れないまま、カーテンを閉めずに光を浴びてしまっていたら。

がたがたと体が震える。
嫌な予感が脳裏を掠めた。

そう思った瞬間、行動は早かった。
「おい、星馬、何処へ行くんだ」
「都合が悪くなったので、急いで帰ります!」

(豪…、無事でいてくれ…)
必死で、濡れた地面を蹴った。






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