雪が融解する温度5



きらきらと、日差しが差してくる。
晴れ上がった空を見るのは久しぶりだった。そう、久しぶり。
だけど。
「うぅ…あ……ああっ……」
漏れるのはうめき声ばかり。俺は、その光の前で崩れ落ちていた。
全身が濡れて、ぽたぽたと雫をこぼす。乾いた部屋で、自分だけ水浸しになっていた。
けれど、それを気遣う余裕は、俺にはなかった。
(れつ、あに、き……)
異変は、兄貴が学校に行った時から少しずつ始まっていた。
雪が止み、灰色の雲が少しずつ無くなっていったときから。
「……」
まるで、汗でもかいているような肌の湿り気に目を止めた。
自分自身を構成している水が、奪われる。
カーテンを閉めたけれど、逃げられなかった。
手錠が逃げることを許さない。
かといって、日が翳るベッドに行くわけにもいかない。
あれは、兄貴の場所だから、濡らすわけにいかなかったから。

「はぁ……はぁ……」

時刻は、昼過ぎ2時を指していた。
気温は上昇し、いるだけでも涙かわからない液体がこぼれた。
冷たいものが欲しい。なんでもいいから。
暑い。解けてしまう。
きしきし身体が悲鳴を上げていた。ちょうど、春になって氷が解けるのと、同じ音。
「…たすけ、て……あに、き……まだ、おれ…」
全身塗れながら、呟いた。
まだ、解けたくない。まだ…兄貴の傍にいたい。
その思いだけで、必死に解ける身体を繋ぎとめた。
そのときだった。

「誰かいるのかい?」

母ちゃんの声だった。呻き声を聞いて、不振がってやってきたのだろう。
大方、泥棒かなにかだと思って。
今の状態では、母ちゃんがこの部屋に入ってくるのを止める手段は俺には無い。
ただ、苦しんでるのを見つけるだけだ。
そしてどうしようもない。…ああ、そうか、氷が欲しい。って母ちゃんに言えば、くれるのかな。
でもちゃんと言えるのかな。この状態で。

こんこん、と音がして。入るよ。と声がした。

俺は、応えなかった。
ドアがぎい、と音を立てる。倒れたまま動けなかったけれど、ゆっくりと顔を上げて、入ってきた母ちゃんを見た。
こっちを見て、言葉を失っていた。
それはそうだよな…、息子の部屋に、知らない奴が全身ずぶぬれで、倒れてかけているんだから…。
荒い息を吐きながら母ちゃんを見ると、驚きながらも、こういった。

「……あ、あんた…いったい誰なんだい?」
そんな言葉。
俺はもう8年前に死んでるし、体は成長してるから、わからないのは当然だ。
「…はぁ……はぁ……」
息が、続かない。
「と、とにかく。救急車…、誰かわからないけど…、あんた、いったいどこの誰なんだい?何で家に…」
答えられなかった。
俺の名前を言っても、きっと信じてもらえない。
それでも、不審者であるはずの俺を、この人は心配してくれている。
「だい、じょうぶ、だか、ら……」
とぎれとぎれに、答えた。
「だけど……、あんた…その格好はどうみたってて…、いいから、そこでじっとしてなさい。今救急車呼んであげるから」
「や、やめ、ろ…!」
そんなことしたら、俺のことがばれてしまう。
それだけじゃない。

”彼女たち”にも、兄貴にも、迷惑がかかってしまう。

「呼ぶ、なっ……!かあ、ちゃん!」
叫んだ瞬間、後ろを振り向いた。
「あんた、今なんて…!」

動くだけでも精一杯だった。それでも、その電話に向かう足を止めたかった。
手錠が引きずられ、それでも前へ行こうとした。
必死になっている俺を、母ちゃんは硬直して見ている。

「やめて、くれっ…!」
手を伸ばしたとき。
ぐちゃ、と音がした。そして、いきなり前に倒れこんだ。

「ひぃいいっ!」

そして、母ちゃんの悲鳴が聞こえた。
「あ……」
痛みなど無かった。それは、枝に積もった雪が落ちてしまうように。
二の腕あたりから、腕が、解け落ちてしまった。

「……かあ、ちゃん…」
眼の前の母ちゃんは、恐怖でひきつった顔をしていた。
青ざめて、かたかた震えていた。
「う、ぁ…」
残った腕で、なんとか上体を起こそうとする。濡れた身体で指が滑っても、なんとかして。
「……」
立ちすくんだ母親を見上げた。
大丈夫、だと。そう言いたかった。だから、少しだけ、笑った。
けれどそれは逆効果だったようだった。
「こ、こないでおくれ、こないでおくれ!」
「…!」
言われた言葉が信じられなくて、目を閉じたとき、ばたん、と扉は閉められた。

再び部屋は俺一人になった。
「あ、あっ……」
どうして。
ばたばたと階段を下りる音が聞こえた。もう、電話がどうとか考える余裕もなかった。
それよりも、悲しくて。
どうしてかわかっているのに、認めたくなかった。一気に身体の力が抜けて、再び床に突っ伏す。

「……かあ、ちゃん…!」
涙が、止まらないんだろう。どうして。
俺はとっくにこの家族からいなくなってたのに。
俺は人ではなくなっていて、雪が解ければこうなってしまうのはわかっていたのに。
なのに。
わかっていて言われたことが、こんなにも辛い。

ずる、と身体を引きずる。
手錠が外れてしまっても、もう動く気力は、残ってなかった。
もう兄貴しかいない。
こんな体になってしまっても、受け止めてくれるのは、兄貴しかいない。

「たすけて…れつあにき……」


(だから、行くなって言ったのよ)


ああ、そうだ。だけど、こんなになっても俺は、まだ烈兄貴を諦められない。




◆      ◆       ◆



濡れた地面を走る。
日はきらきらと光輝いているが、それを心底憎み、雲が来ることを願った。
(…ごうっ……!)
考えるのはそのことばかりだった。
今までは思うだけで心配はしていなかったけれど、今回は違う。
豪はきっと危機的状況にある。そう確信してしまうほどだった。
こんなあっという間に雪が解けていくくらいなのだから。天気予報では、日没近くにまた吹雪くだろうと予想が出ていた。
リミットは日没まで。
それまで、豪の身体が持ってくれれば…。
途中で、水と氷を買い、慌てた様子で家に飛び込んだ。

「母さん、ただいま!」

声が、しなかった。
「れつ……」
代わりに、ひどく青ざめた顔の母さんの声がした。
「どうし、たの…母さん……」
「烈…、烈の部屋に、ね…変な人がいるんだよ……」
「…!」
全身の毛が逆立つような感覚がした。会ったのだ、豪と母さんが。
今まで豪が部屋から一歩も出なかったために、安定していた調和が。崩れた。
「…すごく、苦しそうなんだよ……だけど、腕が…なくて……」
「腕がない?」
「め、目の前で、崩れたんだよ…!まるで雪みたいに…!」
腕が、雪みたいに崩れ落ちた?
「母さん、落ち付いて。そのひとは後で僕が説明するから…だから今は落ち着いて。眠っていて」
「烈……」
「黙っていてごめんね母さん。ちょっとしたことで部屋でその人をかくまっていたんだ。だから、あとでちゃんと説明するから…!」
必死で不安がっている母さんを訴える。今は眠ってもらい、落ち付いてもらうしかない。
「わかったよ、烈…私は少し眠るから…後のこと、頼んだよ……」
「うん、わかった…」
こっそりと冷凍庫に買ってきたものを仕舞い、布団を出してやると、母さんは横になってすぐに眠り始めた。
疲れと豪のショックが効いていたのだろう。これでしばらくはごまかせる。
「……」
一息、ついた。そして自分の部屋へ氷と水を持って飛び込んだ。

「豪……!」

自分の声は、たぶん掠れていた。
あまりに、ひどい有様だった。
豪の身体は一回り小さくなり、手錠が外れているのにも関わらず、濡れたカーペットに倒れていた。
べたついた前髪が痛々しかった。かろうじて、息をしているのがわかり、すぐに駆け寄った。
「豪、しっかりしろ、豪!」
「…はぁ……はぁ……」
触れると、ぐちゃりと解けてしまいそうだった。
それをなんとか抱えて床に寝かせると、氷を口に含ませた。
「どうして、こんな…」
いくら日が射したからってこうも早く、こんな状態になるなんて。
気にしていたカーテンは掛かっていた。おそらく、動ける間に豪が自分でやったのだ。
今の気温は10度ほど。雪は解けかけていたけど、カーテンを閉めた状態にもかかわらず、こうなってしまうなんて。
「…ん……」
氷を飲み込んで、豪は薄眼を開けた。
「豪…だいじょうぶ、か…?」
「れつ、あにき……きて、たんだ…」
「ああ…、ひどい状態だな…」
それしか言えなかった。すると、豪は眼を閉じて、少しだけ笑った。
「だから、言っただろ……少しの、あいだ、だって……」
「豪…お前、こうなるのわかってたっていうのか…」
体中が、冷えていく感覚がした。
豪がいう少しの間、というのは彼女たちが豪を連れ戻すことだとばかり思っていた。
実際は…、豪の身体がこの環境に耐えられずに解ける、つまり日が差すまでの間ここにいる。という意味だったことに。
「なんで…お前…そういってくれれば……」
言いながらも、豪が氷を欲しがったから、また氷を口に含ませた。
「……」
当然、食べている間は豪は話せない。
人間だったら温もりを与えることもできるだろうに、豪が求めるのは人が生み出せない冷たさだった。

日が落ちる。
まだ空は、残日で薄く橙に染まっていた。暗くなるまで、もう少しだった。

日が落ちたら、こっそり豪を連れてここから出よう。ここよりはずっと冷たいはずだから。きっと、雪は降る。
こういう時の予感はよく当たることを、自分は知っている。
「…はぁ……はぁ……」
豪の身体をタオルで拭いていても、なすがままだった。
氷を与えるたびに、あいつの呼吸が落ち着いてくる。

「…よし、豪…外に出るぞ」

外はすっかり暗くなっていた。窓の外はちらちらと粉雪が舞っていた。
これなら、ここよりも外が冷えているはず。
「…でも……」
「俺がおぶってやるから」
「…うん」
タオルで豪を包み、おんぶする形になる。
そこで初めて、なくなった腕を目の当たりにした。解け落ちてしまったというから、今はもうどこにも見つからなかった。
「片腕だと不安定だろうけど…つかまっていろよ」
「うん」

吹雪く街を、ゆっくりと歩き出した。
肩から首にかけてかかる冷たい吐息が、どことなく心に温もりを与える。
「山なら、雪積もってるかな…」
「そうかもな」
以前、リョウくんたちがいた山も、今の時期では誰もいないはずだ。
僕と豪はそこを目指して、歩き出した。

…誰もいない。
本当に誰もいなかった。
豪をおぶったまま、かろうじて斜面を登ってゆく。
ブーツを履いていたものの、かなり辛い状況だった。
「烈兄貴…」
「ん?」
「…いいよ、降ろしてくれ。あとは、歩けるから」
そういい、ぽんぽんと肩を叩いた。降ろしてくれ、という合図なんだろう。豪なりの。
「大丈夫なのか?」
「寒いから、だいぶ調子いいんだ」
「そっか、じゃ降ろすぞ」
雪の色がほのかに暗い。その中に豪を降ろすと、少しばかりふらついたように足元が揺れた。
「ほら、言わんこっちゃない」
「へへ…」
近くの樹に豪の背をあずけさせる。
一度、大きく深呼吸をして、ずるずると引きずるように、地面に倒れていった。
「豪…」
「……」
眠るように、豪は目を閉じる。
雪の冷たさを感じ取っているんだろう、と勝手な想像をした。
人の地で生きていくには不自由すぎる豪の身体。
それが、8年前自分を助けた故の代償。それでも、ここまで追いやったのは、他ならぬ自分自身だった。
「あの、さ。烈兄貴」
「ん……」
「母ちゃん、大丈夫かな」
どこか、遠くを見るようにして、豪が呟いた。
「平気だ。俺がなんとかしたから。お前のことは、かくまっている。ってごまかしたから」
「ありがとな」
「気にするな」
にこ、と微かな笑みを浮かべたが、豪はすぐに、その笑みを消した。

「…母ちゃんに、会って。気づいたよ。俺」
「何をだ?」
「俺はもう、星馬家の人間じゃないんだ、って」
「豪…」
「…俺は、全部覚悟してたつもりだった。兄貴の前で解けて死ぬことも。逃げるか、死ぬか。俺に残された選択肢は、それしかなかったから」
淡々と、豪は話しつづける。それを静かに、聞き続けた。
「俺は……、兄貴の前で死ぬつもりだった」
「お前……」
「兄貴の気持ちも考えずに、俺はあのとき、兄貴を見捨てちまったから…。だから今度は兄貴の気持ちをちゃんと受け止めようって」
たとえ、それが死ぬことになっても。
「俺は…、兄貴の気持ちに、応えられてたのかな…また勝手なことしてたのかな」
そういって、また、目を閉じた。お互いの吐く息が白くなる。
豪に、自分はなにも言えなかった。
勝手なことをしてたのは自分のほうだ。手錠を掛けて、閉じ込めて、勘違いして。
その結果が、今の状況。
だけど、それがわかってもなお、豪への思いを止められない。

「お前は、十分やってくれたよ」
そういって、抱きしめることくらいしか、できなかった。
「……兄貴さえ、いてくれればいい。兄貴さえ、いてくれれば…」
「豪…俺も、だ」
それでも、これが叶うのは、ほんの僅かな、雪が降る時間だけ。
「だけど…それじゃダメなんだ」
「…どう、してだ?」
思いは僅かにずれてゆく。
その理由は、まだ自分には理解しきれていなかった。
僅かな心のずれを埋めたくて、無理やりにでも、豪を強く抱きしめていた。
目を閉じて、絶対に離さないという意思を伝えるために。

「……お前…、どうして、ここに」
ふと、豪の声が聞こえた。
目を開けて、顔を見ようとすると、豪は正面を驚いた表情で凝視していた。

「豪、だから行くなって、いったでしょ。戻れなくなるからって」

透き通る、女性の声だった。そしてその声には聞き覚えがあった。
「…!」
豪から腕を放して後ろを向く。
押し殺した怒りの表情を持った、彼女がいた。
彼女は何も言わず、自分の首に向かって腕を突き出した。
「やめっ…」
豪は短く叫ぶ。

首に触れられた。と思った瞬間、意識を失っていた。



◇    ◇    ◇



俺の中には、2つの気持ちがある。
1つは、兄貴を独り占めして、どこにも行かないようにして。俺だけ見ててもらおうっていう気持ち。
もう1つは…残された人たちを悲しませたくないからこそ、兄貴には自由でいて欲しい、っていう気持ち。
どっちも大切だし、選べない。自分の思いに正直でいるからこそ、選べない。

だけど、この2つを両方取ることは、俺が死ぬことを意味する。
そして一番悲しむのは兄貴だ。
選択肢は少ないけれど、どれも選びきれなかった。

彼女は、俺にこういった。
(豪…、この雪はあと三日で止む、それまでに自分の未来を決めなさい)

行っちゃダメだって、何度も俺に言ったけど、それを振り払った。
そのために、この冬が着て早々、彼女たちに精をほぼ全て与えきったのだから。
ここに来ることができたのも、それに由来する。だから少しの間だけのつもりだった。
ただ、謝りたかった。それだけだったのに。

こうなってしまっては、もう無理だ。それ以上に、俺の中に、兄貴を離したくないって感情が生まれてしまった。
(決められるわね、豪)
凛、とした声で彼女は俺に宣告する。

「…わかった」
あと、3日。それまでに、俺と烈兄貴の未来を決めないといけない。
まだ迷っているけれど、決めないと。

(…これ、渡しておく)
彼女は、俺にラムネのような白い珠を3つ渡した。
(朝が来たら、飲んで。1日はその体を維持できる)
俺は、それをじっと見つめた。
これで、今日のように解けることは3日間心配はない。
腕は、彼女に直してもらった。これでなんとか母ちゃんたちはごまかせる。

あとは、自分の問題だけだ。

自分が氷付けになったあの日のことを、少しだけ思い出した。
「なぁ」
(何?)

俺は、今考えていることを、彼女に話した。
それは、きっと多くの人を悲しませるだろう選択。ひどい、裏切りだ。
烈兄貴にも代償がいる。

それを話すと、彼女はため息をついた。
(確かに、豪の考えていることはできる)
「そっか…」
(あんまり、やってほしくはないけど…その選択をするなら。私たちはそれを受け入れる)

「…ありがとな」
(ただし、最後は豪の手でやりなさい)
「うん、そうする…、ごめんな。聞いてくれてありがとな」

(最後の街…ゆっくり楽しみなさい)

そういうと、彼女は姿を消した。

「う、ん……」
ベッドの上で、兄貴が身じろぎする。そろそろ目が覚めるんだろう。
ふっと、紅い目を開けた。
俺は、窓際の壁にもたれて夜明けを待っていた。

「豪…」

「…烈兄貴」


兄貴、兄貴は俺のために狂う覚悟がある?
どこまでいっても俺しかいなくて、ずっとずっとそのまま時間が止まってしまう。
きっと、兄弟なんて関係すらも意味がなくなる。
そんな世界に、兄貴は耐えられる?俺だけで、生きていける?
それとも、生きていけないようにすればいいのかな?


「おいていかないでくれ、ごう」

「……」
その言葉に今の俺には、頷くことも、首を振ることも、できなかった。





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