雪が融解する温度6
目覚めたら、自分のベッドの上だった。 見慣れた天井に、一瞬何処にいるのかわからなくなったくらいだ。 ひんやりした空気が部屋を満たして停滞する。なんどか瞬きを繰り返して、ようやく、現実感が戻ってくる。 彼女にいきなり襲われて、意識を失った。そこまでしか、記憶がなかった。 弟の名前を呼んだ。 「…ごう」 しばらく、無音が続く。 実際はほんの数秒、けれど、それはとてつもなく長い時間のように感じた。 自分が気を失っていた間、彼女に連れられて戻った可能性もあったからだ。 だからこそ、あんな距離を飛び越えて、今ここにいる。 「…烈兄貴」 豪の声が、返った。 その事実に、とてつもなく安堵した。 体を動かす気力もなかったけれど、それでも豪はここにいた。 「おいていかないでくれ、ごう」 それが1つの願い。 何度か豪に僕に言った言葉。そのたびに、豪に捕われた言葉。 今度は、自分が豪を捕らえるために放つ言葉。 豪は、それに何も応えてはくれなかった。 目を覚ました母さんには、あの少年は家出をしていて、事情があって家でかくまっている。と伝えた。 食事も何もいらない。ただ、関係が落ち着いて彼が帰る気になるまでは、自分が面倒を見る、とはっきり伝えた。 「…そうかい、そういうことだったなら」 言ってくれれば食事とか、用意したのに。と父さん母さんは豪が家にいることを納得してくれた。 豪の腕が落ちたことに関しては、夢だったのだと何度も言い聞かせて、目の前で治った腕を見せることで、ごまかした。 もう、あいつが本当は生きていた星馬豪だったということも、言えない。きっかけとして言い訳を作ったのは自分だ。 ただ、豪に面影がある家出少年。まったく関係のない他人。 豪がそうしたいと言った。「俺はもう星馬家の人間ではない」と。 その言葉に、どんな意味があったのはかは計り知れない。母さんの怯え方、豪の悔しそうに首を振る様子に、何かあったのだろう。とは思う。 母さんの目の前で腕が落ちて、豪自身もきっとショックだったんだろう。 「これで、よかったんだ」 それは、僕に言ってるようで、豪自身で言い聞かせているようだった。 もう手錠は必要ない。そんなことをしなくても、捕われの身であることは、豪も僕も十分分かっていた。 僕は豪のために生きて、豪は僕がいないと生きられない。そう思うくらいお互いを思いあってる。 少しずつ、自分たちの関係性が閉じてゆくのが、自分でもわかった。 この冷たさが続く限り、くるくると回ってゆく。 豪を手放したくない。そんなことをするくらいなら、なんでも捧げようと思っている。 でも、相手は空。何を捧げても、その時間は止められなかった。 「わかってた、ことだ…」 豪のいう通り、何をしてもここにいられるのは「少しの間」だけ。 その後、豪の手を離すのか、目の前で死ぬのを見届けるのかの2択のみ。 「いいよ、兄貴」 豪は優しく言う。 「俺は、もう決めた。兄貴の傍を離れることなんてもうできないから。最後まで、一緒にいたい」 「…お前は、それでいいのか?」 そういうと、豪は1つ息を吐いて、笑った。 「兄貴のこと、普通に兄貴だって思うんだったら、きっとこんな選択はしなかった」 「豪…」 会うだけで、悲しい別れを経て、別々のところで生きてゆく。それで、終わるはずだった。 けれど、僕は離れたくなくて、認めたくなかった。 豪は…どうだったんだろうか。 「きっと、この気持ちは恋だって、思った。例え死ぬことになっても、傍にいたいとか、離したくないとか…そんな風に思うのは…きっと恋のせいだって」 「お前らしくない言い方だな」 ホントだな、と豪はくすくす笑う。 「だからさ、俺は日光で死ぬわけじゃなくて、烈兄貴に恋して死ぬんだ」 それって、すごくロマンチックだろ?と僕を指差して笑う。 「お前、そういう趣味だったか?」 「悪かったな。でも、そう思えるなら…あまり怖くないんだ。死ぬこと」 豪は、そういう。 逃げれば生きられるのに、なのに。豪はたった1度の恋に全てを捨てるという。 馬鹿だ。とんでもない馬鹿だ。 「…決意は、変わらないのか?」 「ああ」 どうか、春が来ないで欲しい。 この冷たさがずっと続けばいい。そうすれば、ずっとここにいられるのに。 そう願う僕も、きっと馬鹿なんだろう。 そのあと流れた天気予報では、この雪はあと3日で止み、その後は快晴が続くという。 豪に、そのことを伝えた。 「知ってる…それまではなんとかこのままでも大丈夫だって、言ってたから」 「そうか」 その3日間…、僕は知る限りの友人に電話をして、3日学校を休むことを伝えた。 雪は降り続く。空はまだ鈍い色のまま、白い粉雪を舞わせてゆく。 それまでに、僕自身も決めなくてはならないことがあった。 豪に、それを伝えることも、伝わることもないだろうけれど。 お前は何もわかってはいない。 お前が俺に恋をしているように、自分も同じように恋をしている。 ならば、取るべき未来は1つしかない。 こっそりと準備をはじめていった。きっと、これで全てが終わる。 「…豪?」 昼食を終えると、豪は部屋にいなかった。 窓が開いたままで、豪がいた場所には紙が1枚置かれていた。 ”佐上のおっちゃんのところ行ってくる” 見ると、財布から1万円札が1枚なくなっていた。 「あの馬鹿」 でも、咎める気にならなかった。もう、どうでもいいことだった。 ◇ ◇ ◇ 8年の月日は、こっちではずいぶん長い時間だった。 最初にあっただろう公園もなくなって、レストランができていた。 商店街もスーパーに変わってて、すっかり人気がない。 それが自然なことだったんだろう。古いものは淘汰されて、消えてしまった。 人気のない通りを歩きあがら、ふと空を見上げた。 「兄貴の金、勝手に持ってきちゃったな…」 まぁ、買うだけならいいか、あとで謝っておこう。と軽く考えて、道を歩く。 頬を伝う雪が心地いい。 灰色の空も、それに溶け込むようなアスファルトも。 「おっちゃんの所は残っててくれよ…」 せっかくマグナムと会えたのだから、思うようなメンテナンスをしてみたかった。 そのためだけにこっそり抜け出したんだから。 何かを残すために、それが今の俺にできること。 どうせ残り少ないんだ。少しくらいなら。 「あ、あった」 8年前と同じ看板で佐上模型店はそこにあった。 中をこっそり見てみると、女の子が一人。おそらくジュンだ。 「熱くないと、いいな…」 エアコンが効きすぎていたらさすがの俺でも選ぶ余裕があんまりない。 「さて、行くか」 ドアをくぐると、かららん、と懐かしい音がする。 「いらっしゃいー」 振り向いたその女の子は間違いなくジュンだった。へぇ、と思う。 あのいつも俺たちを振り回してジュンが、すっかりおしとやか、というか。女らしいというか。 あの彼女たちとはまた違う、明るい雰囲気を伴ってそこにいた。 「…ん、何?」 「いや、何にも」 俺とジュンはもう違う。もう俺は死んだことになっている。こいつもきっとそのときは泣いたんだろう。 けど、もう8年。忘れてもいいくらいの年月がそこにはある。 だから普通の客でいい。用があるものを買って、ただ帰るだけの、こんな寒い日に来た酔狂な客だ。 「…へぇ」 8年の間に、いろいろパーツも出回っていたらしい。見たことのないものばかりがそこにはあった。 「えっと…」 俺が欲しいのは、雪道に対応できるやつ。あとは、バッテリー。 もう3日しか生きられないことはわかっているのに、どうしても心はうきうきとして、あれでもないこれでもないと想像が勝手に弾けていく。 「…時間が経っても、レーサーはレーサーか」 その事実が、なんだか嬉しかった。 「はい、これだけ」 「これね……5640円です」 ずいぶん高い買い物だ。それでも、当時に比べたら、だからきっと買おうと思ったらもっとたくさん買えるんだろう。 「まいどありがとうございます」 「ああ、ありがとな」 そっけない会話、それでいい。俺が誰かなんて、お前は知らなくていい。 「じゃあな」 紙袋を片手で持って、さっと身を翻す。もう、会うことはない。 扉に手をかけようとしたとき、後ろから声が聞こえた。 「ねぇ、アンタ…豪、なの?」 「…」 一瞬、足元が止まってしまった。 「……」 「豪、なんでしょ?いったい何処に行ってたのよ」 「……人違いだ」 人違いなんだよ。ジュン。気のせいだって、言ってくれ。 そう思いながら硬く目を閉じる。 「豪」 カウンターからジュンが駆け出す音がして、手を掴まれる。 「アンタの顔見れば何年経ったってわかるよ、豪!」 「…違う」 首を振るしかない。お願いだから、諦めてくれ。 お前は見てるのは、ただのそっくりな他人なんだよ。 「豪!」 「何、勘違いしちゃってんの?お前…うざいんだよ」 「あ…」 ジュンは一歩後ずさった。 こうでも言わないと、お前は引き下がらないだろう? 「俺は豪って名前でもないし、お前なんか知らない。いい加減にしろよ」 「ご、ごめんなさい…」 そのまま、扉を開けて、店の外に出た。ジュンは追ってはこなかった。 これでいい。きっと俺が生きているって知ってしまったら。ジュンは烈兄貴と同じ道を辿るかもしれない。 だから、これでよかったんだ。 「ごめん、な…ジュン……」 お前は、俺のことなんて忘れてしまえよ。 この雪が止んだら、きっとお前の好きなことだって、できるんだから。 お前は、太陽の下のほうが、いいんだから。 「あれ…」 意外に、俺はジュンのことが、結構好きだったのかもしれないな。 だって、兄貴以外のことで、こんなに痛いと思ったのは、初めてかもしれないから。 「豪…」 家に帰る途中、烈兄貴が立っていた。 片手に傘、片手に畳んだ傘を持って。 「ごめん、勝手に出て行って」 「いいよ、お前のことだから、帰ってくると思った」 「うん」 兄貴は俺に傘を手渡した。雪が強くなってくる。 「ジュンちゃんに会ったのか?」 「ああ」 「…辛かっただろ、お前」 一言言われて、ぎょっとして兄貴を見た。 「今にも泣きそうな顔してるぞ」 そう言って、少し背伸びをして、ぽんぽんと頭の雪を払った。 「なんでもお見通しなんだな」 仕方ないように笑うと、兄貴も少しだけ笑った。 「俺だってきっと、ジュンちゃんに会ったら辛い」 「兄貴…」 「…逃げても、いいんだぞ?」 それは、つまり。俺が兄貴の手の離す、ということだ。 「ううん、俺は、逃げないよ」 「そうか」 片手で俺の手を取り、指を絡めた。 「だったら、勝手にどこかへ行くな…」 「ごめんな」 それは、兄貴なりの嫉妬だったのかもしれない。 目を伏せて歩く兄貴が、心なしか、照れているように見えた。 兄貴を見てわかったことがある。 残された者が抱える痛みは、置いていった者より深く、突然であれば…痛みは増していく。 時を積み重なれば癒えるかもしれないそれも、時には時間が重圧に変わる。 兄貴の狂気を肌で感じたからわかる。 …だから、兄貴。 ”置いていく側”になんてならないで欲しいんだ。きっと誰もが悲しむだけだ。 …それでも、兄貴。 俺と同じように、この恋に身を解かすって兄貴が言うんなら。 全てを捨てることを、兄貴が選ぶって言うんだったら。 俺は、その選択をしようと思う。 でもな、その選択をできれば俺はしたくない。 だから、兄貴。 ”俺がいなくなったら後を追いかける”ってことだけは、しないで欲しい。 ◇ ◇ ◇ 豪を求め続けて、8年。 長かったような、短かったような気がする、その年月。 やっと手に入れた。だけど、手に入れた豪はまるで手のひらにのせた雪のように。 その手のひらの温度で、解けることを選んだ。 手を離して雪原に置けば、解けずにいられるのに。 それでも、雪は俺と一緒にいることを選んだ。それが自分の選んだ未来だと。 解けることを選んだけど、認められない俺はどうすればいい。 「お前なんてどっかに行ってしまえ」と言えればよかった。 そうしたら、豪も…、こんな選択をしなかっただろう。 だから、豪を殺すのはきっと俺なんだろう。 自分の持つ熱で、豪を解かして殺してしまうんだ。 だから、その罪は…きちんと償いをしよう。 豪がこの恋に全てを捨てるというのなら、俺もそうして全てを捨てよう。 たくさんの人を置いていく。その罪も。 全てを捨てる、という決断をしたとき、ようやくその感触が現実感を持って伝わった。 豪が「一緒にいたいけどそれだけじゃダメだ」といった理由。 豪はきっと、自分がやってしまった「たくさんの人を置いていってしまった」ことを後悔している。 だから、俺にはそんなことをさせたくなかったんだろう。 お前は、優しいな。 俺よりも、ずっと。 だって、俺はお前のためならこんなにも非情になれる。 …お前を愛しているよ。豪。 だから、お前の願いはきっと聞き届けてやれない。 |