薄闇と透明に至る蝶々
プルルルル…… ぷつ 「はい、もしもし……どうしたの……うん、うん……そっか、まだ帰ってこないんだ」 蛇口から、水が一滴零れ落ちた。 それ以外に、音は無い。 「わかった…こっちに来たら、伝えておくから………え?俺は大丈夫……うん、それじゃ」 ぱたん、と携帯電話を閉じる音。 そのまましばらく、立ちすくんだ。 ふと、思いついたように部屋のクローゼットを開けた。 それを見て、酔いしれたような、恍惚の表情を浮かべる。 他に音は無い。しかし、クローゼットの中、薄闇の向こうだけは、微かに蠢く。 「……さっきの電話、母さんからだったよ。心配してたけど、大丈夫だって。伝えておいたから」 それは、少しだけ身を振った。あとは動くことも無いまま、ただ、重みが変わった髪だけが、僅かに余韻を残す。 薄く、眠そうな目を開けた。綺麗に濡れた二つの眼球。 その仕草だけで、理解する。 「心配ないよ、俺が、全部守ってあげるから……烈兄貴」 豪は、クローゼットの向こう、縛られた烈に向かって微笑んだ。 ◆ ◆ ◆ 大学生になって、一人暮らしをはじめた。 それでも、俺は結構真面目なほうだったらしく、勉強は嫌いだといっておきながら進んだのだから、不思議。 原因を言うなら、「成り行き」だったんだろう。 そして、今の”これ”もそう。 家を出る前に、兄貴をぐるぐる巻きにして、クローゼットの中に。 鍵をかけて。 特にしてることはそれだけ。 ……それだけで、監禁って出来るみたいだ。 「痛いけど、ちょっと我慢して」 食事の用意をして、烈兄貴の口元だけ覆った布を取る。 兄貴は、まだ少し眠いみたいだった。空ろな眼を向けていた。 ぺちぺち頬を叩いて、少し覚醒させると、持ってきたスープをスプーンですくって、口に食べ物を運ぶ。 兄貴は何も言わずに、口を開ける。 親が雛鳥に餌をあげているような。この状態。 スープで濡れた唇が、陰鬱に光る。 少しだけ垂れた雫を、俺の舌で舐め取る。 そのまま、深いキスをしてみたいけど、モノ食べてるしね。 まだ、おあずけ。 ゆっくりと、兄貴が租借していく。 俺はずっと、それを見てる。 まぁ、これで目を醒ますと、ちょっと手が掛かるのが難点なんだけど。 「やっ……やめろっ……ごぉっ……」 「聞こえちゃうから、もう少し静かにして」 「っつ……離し、て……」 例えば、身体を洗うときとか。 手首だけ縛ったまま、兄貴を座らせて。 スポンジを使わずに、ボディソープを直接兄貴の身体に塗りたくる。 直接擦って泡立てるんだけど、それだけの行為に、必要以上に身体を紅くして、息を吐く。 全然引っ掛かりが分からない。男なのに、全然毛が薄いし。すべすべだし、だから悔しい。 「洗うだけだから、そんなに硬くなんないでよ」 「で、でもっ……」 ああ、しょうがないな。塞いじゃえ。 「んんっ……!」 思いっきり舌を突き入れて、掻きまわす。息も出来なくなるように、深いものを。 こういうのは取っておきたいんだけど。今日の兄貴はちょっと冴えてるみたいだから。 「ふうっ……んんっ……」 あ、今の声すっごいイイかも。 こっちまで頭が蕩けそう。 息が続くまで、ゆっくりと、口腔の吐息を吸う。 余韻をたっぷり味わって離すと、唾液が僅かに糸を引く。 「こ、の……」 「へぇ、まだ余裕あるんだ。でもここにいる以上は俺がルールなんだから、ちゃんと従ってくれよな」 「……っ」 くすくす笑ってどんどん泡立てると、一瞬、兄貴が喉を反らせた。 「あ、感じてくれた?」 「…やめっ………」 一番敏感な部分を洗われて、兄貴は喘ぐけど、最後までそれをすることはできない。 「…くっ……あぁ……」 シャワーに混じって、こぼれてくるものも、俺は全部好き。 本当は、そんなことをさせたくはないんだけど。 ここに居たいって言ったのは烈兄貴だし、家にも、今暮らしているはずのアパートにも、烈兄貴の居場所は無いから。 誰にもいえないし、思い出したく無いって言うから。 俺も、全てを知らないけど、何が烈兄貴を閉ざすのかは、わかるから。 あの日、雨がひどく降っていた日。 一度だけドアを叩いた音に、気になって開けてみたら。 烈兄貴が、立ってた。 服はぼろぼろになってて、髪には泥が絡み付いてて。 何よりも、酷く抵抗した跡と、血の匂い。 そして、男の匂い。 「…ごめん、豪………ここしか、行く場所がなかったんだ……ごめん……」 一言だけ、烈兄貴はそういうと、前のめりに倒れそうになる。 それを、慌てて俺は抱きとめた。 「…ごめん、……」 そういって、烈兄貴は俺の胸の中で泣いた。 何が起こったのか、正確なことは俺にはわからない。 知っていることは、がひどく傷ついたこと。 もうここしか居場所が無いこと。 明るい兄弟の関係が、もうなくなってしまったこと。 「……ね、兄貴、ちょっとだけこうしてていい?」 座っている烈兄貴に、頭を預けてみると、何も言わずに眼を閉じた。 好きなだけ、ここにいて。 そのままずっといても構わないし、逃げるならその呪文を。 それまでは、ずっと、俺は兄貴のそばにいるし、なんでもしてあげる。 だって、綺麗じゃん? たとえ誰が汚いって言ってもさ。 俺の飼ってる蝶々は、すっごく綺麗だと思うんだ。 羽ばたくたびに鱗粉を撒き散らして、俺を溺れさせていくけれど。 全部、好きなんだよ。 |
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背景:廃墟庭園