淫獣楽土―異星でイブになった女― (前編)
作/(川崎龍介)(現・石榴 舞)
ある日、目が覚めるとそこは砂漠だった。
赤茶けて日射しに灼けた大地の上を、ごつごつした岩が至る所に散らばっている。
宇宙船に乗り込む前に可搬型の冬眠装置に入ったのは、昨日の事だったのか、あるいは遠い昔の事なのか。
彼女サラ・ウームがそんな奇妙な時間感覚に陥ったのは、多分まぶたの裏の暗がりでリアルな悪夢を幾つも見て来たからであろう。
彼女は上体を起こして、ただ呆然と目の前に広がる砂漠を見渡していた。
そういえば士官学校の図書館に置かれていた百科事典に、これと同じ光景が載っていた。確かあれは大昔に初めて火星に到達した探査機が最初に撮影した映像だったか。
だがこの光景は火星のそれとは若干違っていた。空を見れば、まるで地球と同じように青く、小さな雲が悠々と泳いでいる。そもそも火星の環境は地球と違うから、人間が実際こうしてじかに空気を吸うことはできない。
ここは移民先? サラはそう考えたが、側に原形をとどめない大きな金属の物体を見つけると、すぐにその考えを捨てた。――黒焦げになってそこいらに金属の破片をばらまいたその残骸は、サラが乗っていた宇宙船だ。少なくとも彼女にはそれが分かった。
乗組員は宇宙船に乗り込む前に既に可搬型の冬眠装置で眠らされていたため、操縦などは全て備え付けのコンピューターに一任した形になっていた。
おそらく、隕石の衝突などのコンピューターですら把握できなかった不測の事態が宇宙船に起きたのだろう。
それで、宇宙船はこの星に落下した。そして、冬眠装置に取り付けられていた非常用の生命維持装置でこうして自分はなんとか生き長らえることが出来た。
――だが、サラが推測できるのはそこまで。
冬眠装置の内部電源はとうに失われ、ただ日射しに灼かれるままとなっている。サラがゆっくりと冬眠装置から地面に足を降ろした時、ふくらはぎが装置の金属部に触れ、服越しに火傷しそうな熱さが伝わる。
日射しは強い、本当に真夏の太陽みたいだ。丸みを帯びた肩の周りからすらりとした足の爪先まで、タイツのように体にぴったりフィットしたジャンプスーツは日射しの熱で熱くなり、そのせいでサラは汗ばんでいた。
本当のところ脱ぎ捨てたい気分なのだが、代わりに着るものはないし、とりあえず胸元のファスナーを少しゆるめて服の中に空気が入るようにする。
汗でじっとり濡れた胸の谷間があらわになる。窮屈そうで、さらにファスナーを開けば何一つ纏わない乳房がそこから弾け出そうだ。
他に確か何人か乗組員がいたはずだ。サラは宇宙船の周りを伺い、さらに中を覗き込んだ。
すると、何かがドサッと落ちた。
それは――黒焦げになった人間の焼死体であった。唇が焼けてなくなっており、乾いた白い歯がだらしなく開かれた口から見えている。気持ち悪さの余り、サラは目を背けてその場を離れる。
他にも乗組員は数人いたはずだ、しかし――死体を見て絶望的な直感を覚えるサラ。
彼女は思い出したように冬眠装置に向かうと、ベッドの枕の下からミリタリーナイフを取り出した。
ミリタリーナイフの柄からドライバーを引き出して、機体のハッチの一つのネジをなんとかこじ開ける。そこからタンクを力づくで引き出す。
蓋を開けると、中には水が入っている。機会の冷却に使われたものだろう。飲むことが出来なくても、浴びて体を冷やす事はできるだろう。
そのままサラは頭から水を浴びる。顔の上を流れ、首を伝い、服からはだけた胸の谷間に滴り落ちて肌を艶やかに輝かせる。そこからさらに服の上を伝い、腹から臍の下にかけての無駄のない滑らかなボディラインを流れ、そして滑らかな鋭角をかたどった股間に至ったあと、そこから内股に移り、スレンダーな脚線を伝って、乾いた地面に消えていった。
ジャンプスーツに使われている素材は全天候順応性に富んだものが使われている。水を浴びたおかげで幾分か火照りが和らぐ。しかし下腹部あたりはどういうわけだか、少し熱っぽい。
しかし、今置かれている状態は苛酷であった。宇宙船には移民先の詳しい情報を得るための計器類や、連絡をとるための通信機器類、その他に当座の食糧及び水が積載されていた。が、宇宙船のこの残骸を見る以上、それらはなくなったか、あるいは使用不可になっている可能性の方が極めて高い。
なにより精神的に辛いのは、自分が宇宙船に乗り込んでから一体どれだけの年月が経過しているのかがさっぱりわからないことだ。それが分かっただけでも、自分がどこまで飛ばされたのかは計算できるし、なにより少しでも状況がわかれば少しでも気が楽になる。だが、それを知る術は何一つない。
右手にミリタリーナイフ、左手に半分まで水の入ったタンク。全天候対応型のジャンプスーツを纏い、頭には冬眠前までにたくわえた記憶がある。
……それだけだ。
ゆっくりと彼女は歩き始める。
◇
サラは冬眠装置に座っている。
その側に彼女の友人が座っていた。
いわゆる宇宙船発射前の最後の面会である。だが、二人のいる部屋はあまりにも静かだ。そこには未知の世界への期待とか胸踊らせる熱気のようなものは一切なく、あるのはただ暗く深い憂愁のみであった。
「そう言えばさ、一緒に通った小学校に図書室ができるんだって」友人は無理矢理作った明るい声でサラに話し掛ける。「今度、サラの事とか移民の事とか、学校のみんなで勉強するんだって」
「ふぅん……、そういえば、私らが通っていた時にあったバスの図書館は?」
「あれは……数年前になくなってしまったらしいけど」
「いらなくなったら簡単に捨てちゃうんだね。学校って、残酷よね」
サラのその言葉で、友人はまたも黙り込んでしまった。
決してサラが好きこのんで移民を希望したわけではないことは友人も知っていた。宇宙船に入る前の一年間にわたっての訓練も、彼女は地獄にいるような心境で臨んだに違いない。彼女の行いに対する学校の仕打ちは余りにもひどい気がする。だが、士官学校の一教師でしかない友人にはどうすることも出来ない。
「わたしね、」さらの友人が口を開く。「この後学校に辞表出しに行こうかなって」
それまで固く閉じていたサラの口が開く。
「……どうして?」
「あなたをこうしてしまった学校が許せないから」
「でも……私も悪いもの、仕方ないわ」
「でもなにもここまですることないじゃない? 何であの程度の事で……」
またも二人は沈黙してしまった。
だがそうしているうちにも、サラが冬眠装置の中で眠る時刻は迫っている。
「ねえあなた。私の乗る宇宙船見た?」
今度はサラが友人に話し掛ける。友人が首を振ると、彼女は笑いながら話し始めた。
「まるで大昔の衛星打ち上げ用ロケットよ。3段式のね。しかも宇宙船には航路を微調整するためだけのために最低限の燃料しか積んでないわ。まさに片道切符」
ようやく場が和んだように感じて、友人はほっとした。だが、下向きに伏せた目を動かすこともなく、声を唇に引っ掛かけるように出しながら顔を引きつらせて作る彼女の笑顔に何か引っ掛かるような感覚を覚える。
「次に貴方とあえるのは、学校の歴史の教科書かもしれないわね、くふふふふ……」
ようやく友人は、サラが自らを嘲り笑っているのに気がついた。
結局彼女の心は、あの時から暗がりに沈んだままなのだ。
経緯を知っている友人には、そんなサラが可哀相に思えた。目から涙がこぼれる。
潜めたような乾いた笑い声と、こらえ切れずに少しずつもれるすすり泣きが部屋の空気を固く震わせる。だが、会話はもう交わされなかった。
そうこうしているうちに面会終了の時間になった。
部屋に青いツナギを着た係員が数人入ってくる。その中の一人が面会終了をサラの友人に伝える。
たまらなくなって、友人は走って部屋を出て行ってしまった。
それを見て半ば動揺する係員達に、サラは暗い笑みをたたえながらこう言った。
「何でもないわ。さあ、早くしてよ」
◇
全く風のない灼熱地獄の中を歩いているうち、サラは遠くに何をか見つけた。蜃気楼ではない、確かに何かがそこで蠢いていた。
暑さで疲労困ぱいであったが、力を振り絞って彼女は走り始める。
だが、しばらく走った後で彼女は突然足を止めた。
そこにいたのは、異形の容姿を持つ、少なくとも地球では見たこともない生物であった。
まず首がたくさんあった。パイナップルの様な外観を持つ手足のない2メートルほどの胴体から、蛇に外観の似た非常に長い首が十数本ほど伸びている。だが、動いているのはそのうち5本だけで、後は二つある目を閉じたまま、力なくぐったりしていた。5本の首が尺取り虫のメカニズムで動き、胴体と他の首を引きずっているといった様子であった。数本の首が地面をのたうち回っている様は余りにも不気味、サラは悪寒すら覚えた。
ミリタリーナイフを構えて、サラはじりじりとこの奇妙な生物に近寄る。一歩近付くことに、微かな悪臭が彼女の鼻をつく。それは、何か肉が腐ったような……ふと見ると、引きずられるままの生物の首の何本かは細長い頭蓋骨を露にしており、肉すらもぼろぼろになっていた。思わずサラは目をそむけた――5本の首以外はみんな死んでしまっていたのだ。
異形の生物の悲惨な実情を知ってしまうと、生臭い匂いがさらに気持ち悪く感じられた。たまらなくなってサラは鼻をつまんだ。
しかしサラがそこまで近付いているというのに、その生物は彼女に気付く様子もなく、ただ前を目指して一生懸命首を動かしている。だがおかげで、この生物のもっと細かい部分を観察することが出来た。
首は、蛇に似ているというより蛇そのものだ。だが、決定的な違いは鱗がないということ。茶褐色の皮を持っており、この砂漠の日射しのためか随分とカサカサしている。胴体は、その外見とは裏腹に柔らかいようで、ゆっくりだが絶え間なく、わずかにふくらんだりしぼんだりしている。どうやら肺のような呼吸器官を持っているのだろう。
だが、良く見ると、胴体が地面に触れている部分に何かが刺さっているのが分かった。それは、平たく細長い金属片であった。その色と形状からして、宇宙船のもののようだ。どうやら宇宙船が墜落した時に、何らかの形で巻き添えをくったのだろう。
サラは、自分の手元の水タンクを思い出す。彼女は、この奇妙な生物にそれを差し出した。
ようやく彼女の存在に気付いた様子であった。首が動きを止めると、5本一斉に彼女の方に向く。それに驚いて、サラは思わず水タンクを落としてしまった。地面に落ちたタンクから水がこぼれ、砂の中に吸い込まれていく。
すかさず、5本の首の一つがタンクの中に顔を突っ込んだ。そのまま奥まで入ると、首はヒクヒクと筋肉を動かし始める。どうやら、水を飲み込んでいるようだ。
サラを睨む他の4つの首にサラが手を差し伸べてみると、そのうち一つがゆっくりと絡んで来た。彼女はまたも驚いたが、先程のものではない。ひとまずたぐり寄せて頭などを撫でてみる。すると、その首は見るからに人なつっこく頬をすり寄せて来た。見た目に似合わず、おとなしそうだ。
タンクの水を飲んでいた首がようやく顔を出す。見ると、タンクの中にはもう水はなかった。だが、サラは後悔しなかった。生物がいるということは、この近くにあるいは生きるために必要な何かがあるはずだと思ったからだ。ひょっとしたら、地球の生物とはその生態を異にすることも大いに考えられるが、今さら何を躊躇する必要があるのだろうか? 宇宙船は大破し、あるいは自分も死んでいたのかもしれないのだ。
生物は再び動き出した。水を飲ませたせいか、妙にその進み具合は速い。
やや後退して、サラはこの生き物の胴体のところに行き、押してやることにする。その両手に、この生物の鼓動を感じとる事が出来た。ややもすればその中に溶け込んでしまいそうな、静かだが存在感のある心臓の鼓動――
◇
「何? こんなところに呼び出したりなんかして」
そこはだれもいない教室だった。スーツ姿のサラは、目の前にいる一人の生徒に問い掛ける。
非常にすらりとしたプロポーションを持つ彼は、サラよりも背が高い。
彼は確かバスケ部に所属していたっけ?
サラはこの生徒の事をよく知っていた。よく授業の質問があると言って自分から会いに来る。確か、名は……ステファン。ステファン・アルフレッド・オコーネル。士官学校在籍の生徒のほぼ半分を占める航空コースに所属している生徒で、その成績も同期生で1、2位を争うほど優秀だ。それ以上の事は、実は余り知らない。いや、知る必要は全くなかった。
サラは仕事は仕事と割り切っている方だった。自分にとって生徒は自分の仕事が顕著に現れるモルモットに過ぎない、とさえ思っていた。それは、今の仕事に誇りを持つ彼女の方針であった。生徒に優秀な成績を修めさせ、優秀な兵士として世に送る――それが自分の仕事なのだと思っていたのだ。それはどこか空虚ではあったが、自分自身に科せられた使命であり生きがいなのだと信じて疑っていなかった。
「私も忙しいんだから、早くして頂戴」
その台詞もそういうサラであったからこそ出来る発言である。その上、彼女はこのパターンが読めていた。
彼は告白するつもりなのだ。
自分はステファンの事を特別に扱ったつもりはない、恐らく外見がいいからととかいったあさはかな理由からだろう。20歳である彼なら充分考えられることだ。もちろん、サラはどう答えるか既に決めていた。
「先生、……先生、……その――」
「言いたいことがあるならはっきり言いなさい! 優柔不断な態度で優秀な兵士になれないわよ」
強い口調でサラは言い放つ。
「こんなこと、軽々しく言えません、先生。……僕は貴方の事が……」
ステファンはしばらく口をつぐむ。サラは、彼が呼吸を荒げているのを見て取る。ずいぶん興奮状態に陥っているようだ。言おうとして、声を喉につまらせて、なかなか言い出せずにいるようだ。これ以上せかしても逆効果だろう、彼女はただ黙っていることにした。
「僕は……、先生を初めて見た時から、決して忘れることはありませんでした。勉強に手がつかないこともあったほどなんです。でも今まで、先生に気に入られようと思って、一生懸命頑張りました。先生、僕は、ぼ、僕は……、あなたに認められたいんだ! 今まで教えて来た生徒の中で一番優秀な生徒として、最高の生徒として、……そして、一人前の男として。
先生、僕はあなたのことが好きなんだぁ!」
ステファンはサラの手を強く握る。
当のサラには、強い雷に撃たれたような衝撃が走っていた。きっぱりと断わるつもりでいたのに、どういうわけか、できない。どころか、今彼女はステファンに強引に、強く手を握られている。改めて、サラは自分に向けられた恋の強さを思い知らされた。
ステファンは彼女の手を自分の額から胸に移した。強く脈打つ鼓動。ややもすればその中に溶け込んでしまいそうな、静かだが存在感のある心臓の鼓動。油断をすれば自分の心は溶け、彼のこの胸の中に取り込まれてしまいそうだ。
――だ、駄目!
押され気味になっていた理性が力を振り絞って、溶けかけたサラの心を引き止める。
彼女はステファンの強い手から振りほどき、さらに思いきり平手打ちを浴びせた。
叩かれた頬を押さえるステファン、サラは動揺しつつも強い口調で言い放った。
「み、身分をわきまえなさい! 仮にも私はあなたの教師、生徒と教師はいうなれば部下と上司の関係。部下のあなたが上司に手を出すなんて、どういうこと? そんなことじゃ、まともな兵士になれないわよ!」
「……おこらせないでよ、先生」
低く呟くように、しかし確かに自分に向けられた攻撃的な響き。またもサラは心を揺るがせる。
「先生を僕のものにできるんなら、兵士なんかになれなくてもいいし、刑務所に入れられてもいい。先生、分かってくれないの? 僕、先生に認められたいんだ。なのに……」
振り返ると、ステファンは目に涙を見せていた。サラの心は地震のさなかにいるように激しく揺さぶられる。これほどにまでなぜ動揺するのか、サラにはてんでわからなかった、いや、自分自身の信念の陰に潜んでいた空虚に攻め込んで、強い圧力をかけていることに気付きたくないだけなのかもしれない。
どちらにせよ、もうその場にはいられない。サラはふらふらと教室の扉に駆け寄る。
だが、その彼女の手をステファンが強く引っ張った。抵抗する余裕なく、サラは教室の奥に放り投げられる。床に叩き付けられ、倒れたサラの前にステファンが立ちはだかる。
「先生、何で逃げるんだよ」
その表情は、教室の蛍光灯の逆光となってよく見えなかった。だが、声からして彼は怒っている様子である。いつもなら自分が怒る側、しかし今自分は生徒に怒られている。
彼女の信念の陰の空虚に、ステファンは深く侵入して来た。
「わかってくれないんなら、もう実力行使しかないね」
サラの胸元にステファンの両手が伸びる。スーツが掴まれ、激しく引き裂かれる――