寝間着に着替え、蝋燭の炎を吹き消そうとしたとき、窓を叩く音がした。
あの男、またこんな時間に……。
溜息をひとつ。窓辺に歩み寄り、薄闇の中、その姿を確かめる。
頭の白い布は相変わらず。でも今日は黒装束ではなかった。
ジーン――私の力になることを約束した、下賤の男。
不本意だけれど室内に招き入れ、扉の鍵をかけに行く。戻ったときには窓は閉まっていて、ジーンは暖炉脇の壁にもたれていた。許した覚えなどないのに、ずいぶんなくつろぎようだった。
「なんのご用?」
「冷たいねー。挨拶だよ。今日はお疲れさんってね」
お疲れもなにも、私はエシューテを散策していただけ。
そうしたら突然、子爵の息子を名乗る男の人に声をかけられた。
ジーンの姿はなかったけれど、不自然に近づいてきたその男が、私が会うべき人なのだとすぐに気づいた。
「あれで良かったの?」
「おぉ、ばっちり。で、明日、アーデンまで出てこれっか?」
「大丈夫……だと思うわ」
「よし、じゃあ明日はアーデンな。適当にうろついてくれりゃ、こっちから見つけっから」
「また誰かと会うの?」
「そ」
「誰?」
「そん時ンなってからのお楽しみ。やっぱ出会いってのは運命あってのもんだろ?」
なにが運命よ……――話をはぐらかす軽口に、苛立ちを覚える。苛立ちを口にしたところで意味がないことは、すでに何度も思い知らされている。
だから、さっさと気持ちを切り替える。エシューテからの帰り道、ずっと抱いていた違和感へと。
あの家のご子息、あんな年頃だったかしら? 昔、何度か遠目に見たけれど、私よりずっと年上だと思っていた。遊学中という噂も聞いたことがある……ような気がする。
「今日、会った、あの人……どういう人なの?」
「あっれー? もう深入りしたい? ……やめとけって」
軽口に慣れきっていた耳に、一転して低くなった声――全身が冷たくなった。
ジーンの表情は変わっていない。でも目の奥に恐ろしいものを見た気がして……思わず後退っていた。
「……そうね。いいわ、聞かなくて」
ジーンは笑みを深める。一歩、私に近づいてきた。
一歩、私は後退る。
また一歩、ジーンが私に近づく。
私はさらに一歩後退って、ジーンは……――なんでこんなことになるのかしら。なんで私は逃げようとしていて、なんでジーンは迫ってくるの?
「……なに?」
「なにって?」
明るい声が、脳裏にあの夜の光景を呼びおこす。不必要に近づかれたくない。
だけど距離はどんどん縮まる。昼間のように、服の裾に広がりがないのが恨めしい。
「ちょっと……」
真正面に、だらしなく着崩した生成の服。黒装束の時ほどではないけれど、胸元がのぞいている。炎の色を基調とした陰影が、不吉に揺れている。
なんなの、と――変わり映えのしない問いを口にしようとしたら、無骨な手が伸びてきた。払いのけようとした私の手を掴む。
力の差は歴然。一瞬で片腕を封じられた。
「なに……どういうつもり?」
顔を上げても、きちんと目をあわせられない。お腹にしっかり力を入れたはずなのに、声が震えてしまう。
答えなど容易に察しがつく。聞きたくない。答えてほしくない。このまま立ち去ってほしい――。
と、ジーンは突然、喉の奥をくつくつと鳴らして笑いはじめた。
「アンタ、ほんっとわっかりやすいよなー。かーちゃんに睨まれたら一発で終わり?」
「なっ……」
この男、私を試したの? ……いいえ、からかったんだわ。
「明日、アーデンでしょ? わかったから放しなさいよ、出ていって……もう寝るんだからっ」
「その前にやることやろーぜ」
「……っ」
掴まれたままの腕を引っぱられた。抵抗しているはずなのに、あっけなく引きよせられる。
さっきまでのは、冗談だったかもしれない。でも今度は――。
「待ちなさいよっ……この前、覚悟は見せたでしょう?」
「ああ確かに」
顔がジーンの胸に当たりそうになる。慌てて自由な手で口元をかばった。
「じゃあっ……なんで、また、なのよっ」
「そら決まってるじゃん、お楽しみ。男と女がこんな時間に二人っきりで場所もあるとくりゃ、やるこたひとつだろ?」
「私は楽しくなんかないわ、嫌よ!」
「へー?」
指先に、かすかに生地の感触。その向こうにはジーンの身体がある。これ以上、触れたくない。
「アナタ失礼だわ! 最低よ! ちょっ……やめっ……」
腕が自由になったと思ったら、身体が浮いていた。
暴れたら落とされる――身を固くしたのもつかのま、寝台に投げ出された。
起きあがる暇はなかった。
私の両脇に、ジーンの腕が降りてきたから――まるで杭が打ちこまれたかのように。
「ンなこと言ったって、この前もまんざらじゃなかったじゃん? 王子さんには腕利きの護衛つけたし、オレもいろいろ無償奉仕してんだし、ちょっとくらいお願いきいてもらいてーなー、なんてなー」
真上には、ジーンの胸。これは逃げようのない檻なのだわ――頭のどこかが、早々と結論を出す。
「カインに……護衛?」
「ああ。オレが知る限りで、アイツが最強だね」
逃げようのない檻――逃げられるとしても、逃げてはいけない。それだけのものを、ジーンは私に突きつけている。無償奉仕だなんて、口だけ。
「……『お願い』って……いつアナタが、私にお願いしたのよ?」
「あー……、……今!」
悪びれた様子はまったくない。そもそも、下賤の男にそんなものを期待する方が間違っている。
一度で済むと思っていたのに。金銭で一息に話をつけられないから、こうなってしまうのかしら。これは今後も繰りかえされるのかしら。
カインが無事でいてくれるために、必要なことなら仕方がない……でも。
「卑怯よ……これが代償だって言ってるようなものだわ」
十分なお金を用意できないから、そのかわりに。
「そんな……私を、街にいる、女の人みたいに……」
春を売る女の人たち――ああいう人達のこと、なんて言うのだったかしら……思い出せない。
「あぁん? なーんだ売女って言えねーんだ、このお上品なお口は」
思い出そうとしていた言葉より、明らかに酷い言葉が降ってきた。
私が……売女? ――見開いた目の両端が滲む。奥歯がぎりっと鳴った。
「心配すんなって、そんなんじゃねーよ」
強ばった身体にジーンが降りてくる。鎖骨から首筋へと、場にそぐわないほど柔らかい動きで。
「いいオンナ目の前にして、手ぶらで帰りたくねーだけ」
耳元の空気が熱くなる。肌がじわりと濡れる。――あの夜と、同じ感覚。
「……不釣り合いだとは、思わないの?」
「ははっ言ってくれるねー」
せめてもの抵抗は、あっさりと笑い飛ばされた。耳たぶに、軽い痛みが走った。
「……だからいいんじゃねーの」
低い音が言葉だったと気づくには、少し時間がかかった。
深い闇の底から這い出てきた唸り声。声そのものがどす黒い。きっと、怒りを孕んでいた。
全身が竦んで、不覚にも嗚咽の声を漏らしてしまった。
挑発してはいけない。おとなしく過ぎ去るのを待つしかない。
我慢しなくてはいけない。この私が。こんな下賤の男に。
ただ涙をこぼすしかない自分が、この上なくみじめだった。