目の前が、ぐらぐらと揺れている。
同じものがいくつも現れては重なりあい、ぶれてまたばらばらになる。
一歩一歩、足を動かす。身体が何度も傾ぐが、そのたびに、すんでのところで堪える。
そしてようやく辿りつく。異変を察して身構えた、王宮の騎士達の前へと。
「騎士団の……方々と……お見受け……」
駄目だ、しゃべる力があまり残されていない。
王宮の正門から出てきた甲冑姿の二人は、僕になにごとかを語りかけてくる。
聞いている場合ではない。どのみち僕にはもう、聞きとることができない。
「僕の名は……リオウ……騎士だ……ヴィンセント様……に、お目ど……」
騎士の一人が差しだしてきた手をすりぬけて、僕の身体は石畳に崩れ落ちる。
切れ切れの言葉は、正しく伝わっているだろうか――確かめる間もなく、意識は黒く覆われる……。
僕たちの一族は、厳しい掟でひとつにまとまっている。けれど実際のところは一枚岩ではなく、長老の数にこそ満たないものの、いくつかの派閥がある。
僕とジーンは、もっとも強い発言力を持つ長老の一派で育った。そして、僕らが影で愚図坊と呼ぶ男は、最近とみに野心を顕しはじめた別の長老のお気に入りだ。王家の双子暗殺計画に、この愚図坊が絡んできたのは、決して偶然ではないだろう。
他人の手柄を奪うことしか能のないこいつを、僕もジーンも認めていない。
馬鹿げた覇権争いのためにお荷物を背負わされるのはごめんだ。特に今回のような重大任務においては。
けれど、野心家の長老が勢いづいたそもそものきっかけは、建国祭での僕の失敗にあるらしいから、声高に異を唱えるわけにもいかなかった。
それにしても――これは屈辱だ。
自らあおった薬の支配からようやく解放されたかと思えば、上半身を剥かれ、寝台に転がされていた。
意識を失っている間、手荒な扱いを受けた様子はないが――むしろ介抱されていた節があるが――両手は寝台の足に、緩く繋がれている。
ここは……牢なのか? 窓のない狭い部屋に、寝台と机、椅子、灯りは蝋燭がひとつ。石造りの壁、じめじめした空気。扉は頑丈そうな鉄格子。どう見ても地下牢か、それに近い場所だ。
本当に、眠っているだけで入りこめてしまったらしい。――殺されていれば良かったものを。
この部屋は、通路の突きあたりに位置しているようだ。見張りはいない。大層なもてなしだ。
……じゃあまず、この鎖からなんとかしようか――鍵穴は……と。
まったくの手ぶらで捕まったおかげで、自由を取り戻すのにひと手間もふた手間もかかってしまったが、それで予定が乱れることはない。
真夜中。下調べと、警備を妨害するための小細工を済ませて、打ち合わせ通りに愚図坊を王宮内に招き入れてやると、やつは笑って僕に包みをよこした。
中身は僕の装備一式。木立に紛れ、手早く身支度を調える。
預けておいた荷物に、笛は含まれていない。さすがに今回ばかりは、納得のいく場所に隠してきた。大丈夫だ。あれがなくても、僕はやれる。
僕はやれる……のだが。
愚図坊の相変わらずの愚図ぶりに、僕のこめかみは何度もひくついた。
時間はそうないというのに……僕の脱走が知れれば、今は緩んでいるかに見える警備が、一気に厳戒態勢へと変わることは、間違いないというのに。
こんなやつを本気で王宮に送りこもうとは、長老達も焼きがまわったものだ。
壁をよじ登り、屋根を伝い、見張りの盲点を突きながら、姫と王子の部屋へと近づいていく。
愚図坊が遅れるたびに僕は足留めをくらい、辺りを警戒しつつ、雲の多い夜空を見上げる。
さっさとしてくれ……僕は早く終わらせたいんだ。
これから起ころうとしていることを、彼女は露程も知らず、穏やかに眠っているだろう。そしてそのまま眠り続ける、永遠に――。
ああ、だから――僕に考える時間を与えないでくれ――苛々と髪を掻きあげ、足元を見下ろせば、ようやく愚図坊の手が屋根の縁にかかった。
蹴り払ってやろうか……。きっと誰にもわかりはしない。こいつはここから落ちて絶命し、王宮内は大騒ぎ。暗殺どころではなくなる。今回は僕の失敗ではない、こいつが勝手に落ちるんだ……。
左足がぴくりと震えた。けれど衝動に抗って、斜面を踏みしめる。
しゃがみこんで愚図坊の腕を掴むと、力任せに引き上げた。
最後の機会だったかも知れない――姫を選ばなかった己の手を、苦々しい思いで握りしめた。
ここまで来れば、目的地はすぐそこだ。この屋根の反対側から、二人の部屋のバルコニーが見下ろせる。
王子の部屋は右側……寝たな。
姫の部屋は左側……窓辺が少し明るいが、おそらく寝台脇の蝋燭がひとつ灯っているだけだろう……確認する必要はあるが。
お荷物でしかない愚図坊とは、これで別行動だ。僕は王子を、こいつは姫を――そういう話になっている。
といっても、こいつはここから降りるのに苦労し、窓の鍵を開けるのに手間取り、結局、王子も姫も僕が手を下すことになるのだろう。
手柄なんてくれてやるから、僕の方が片づくまでのんびりやっててくれ――さっきとはうってかわって、愚図坊の愚図ぶりに期待を寄せつつ、二人の部屋の間に降り立つ。
そこには――信じたくない光景が待っていた。
薄明かりの中、姫の部屋の窓が、ゆっくりと押し開かれる。
ふらりふらりと、人の形をした影がさまよいでる。薄絹の寝間着を身に纏った、部屋の主だった。
上の愚図坊に「待て」の合図を送り、素早く壁に身を寄せる。
姫はこちらに気づかない。手摺りに歩み寄り、月の隠れた夜空を見上げている。
まさかこんな夜更けまで起きていたとは。そしてわざわざ、殺されに出てくるとは。おとなしく眠っていてくれれば、僕が苦しめずに逝かせてあげられたというのに。君は……どうしてそうも、夜歩きが好きなんだ……。
軽い眩暈を溜息で吹き払う。どうしたものか……愚図坊が降りてくる前に、僕が済ませてしまおうか……彼女を不必要に苦しめないためにも――そうだ、それがいい。
一歩踏みだしかけたとき、突然、姫がうずくまった。
ぎくりとして愚図坊を見上げる。……違う、やつはなにもしていない。ならば、どうしたというのだ。
静かに近寄れば、微かに呻き声が――すすり泣く声が聞こえてきた。
単なる夜歩きではなかったらしい。小さく丸めた背中は儚げで、小刻みに震えている。
なにがあったのだろう。なぜ、そんなに悲しそうなのだろう。
姫を案じる気持ちは、けれどすぐに、自嘲にすりかわる。
知ったところで僕は、涙の理由を消してはあげられないだろう。心の臓ごと、涙を止めてあげることしか、できないだろう。姫の命は、ここまでだ……。
ゆっくりと、短剣の柄に手を伸ばす――と。
無防備な目標を目にして調子づいたのだろうか。愚図坊が、危うい動作で僕の前に降ってきた。得意気な笑みを投げてよこしてから僕に背を向け、姫へと迫っていく。
その手には、すでに短剣――好きになれない握り方だった。
汚い呻き声。ごみの塊が地面に叩きつけられる音。幾ばくかの間をおいて、弾かれたように姫が立ちあがる。
自分の行動を、僕がようやく知覚できたとき――それらはすべて、終わっていた。