まずい。これは、とりかえしがつかない。
愚図坊は、仲間と呼びたい相手ではなかったが、同じ一族の人間だ。それを、手にかけてしまった。
以前から、やつには苛々させられてばかりだったが、そんなことは言い訳にすらならない。指示通りに王女を始末しようとしていたあいつを妨害するというのは――あまつさえ殺してしまうというのは、紛う方ない裏切りだ。
裏切り者は死罪、一族の掟――耳の奥で囁く声があった。
痛みを覚えて触れた眉間には、深いしわ。それを確かめる指先が、今しがた、愚図坊を死へ誘った……。
待て。やつは本当に死んだのか? 生きているのではないか? この目で見届けなくては。まだ息があるなら、僕の行いが一族に知れる前に、とどめを――。
ふっと息を漏らした。とどめなど、考えるのも滑稽だ。
狙いは正確だった。僕が放った針は、やつの頸部の一番もろいところをついたはず。そしてやつは手摺りに倒れかかり、向こう側へ落ちていった。それも頭から。
下からは、声どころか物音すら聞こえてこない。やつは死んだ。僕が殺したんだ。
姫の命が、今夜、散る――何日も前から、動かせぬ事実として受け入れていたことだ。なのにそれが現実になろうとした瞬間、僕は――。現実にならなかったことに、僕は――。
さっきまで小さく震えていた背中が、すぐ目の前にある。いつのまにか、姫の真後ろまで来ていた。
厚い雲が月明かりを遮る夜空の下。姫は手摺りから精一杯、身を乗り出して、下の様子を窺っている。その目は愚図坊をとらえているのだろうか。いやそんなことより、そこに浮かんでいた涙は?
細い背中に手を伸ばしかけ、慌てて戻す。
殺せ、まだ間に合う――命じてくる冷静な声があった。僕自身の声だ。引き戻した手をきつく握りしめた。
その動きが、まるで姫を操ったかのようだった。寝間着をふわりとなびかせて、彼女の身体がこちらを向いた。
この暗さでは、愚図坊の骸を見ることは叶わなかったかもしれないが、さすがに僕が立っていることはわかるだろう。
殺せ――抑揚のない命令が繰りかえされる。
姫が怯えたように後退った。口を開きかけた。
悲鳴は厄介だ――握りしめた手の中で、指先が剣の柄を求める。
けれど僕は身動きひとつできず……姫が大声をあげることもなかった。
僕を見上げる鋭い目が、やがて大きく見開かれ――、
「リオウ?」
さっきまでの嗚咽に似た声が、僕の名を呼んだ。
ああ、やっぱり濡れている――雲が流れ、月明かりが蘇ると、姫の頬は銀色に輝いた。優美な鼻の線も、長い睫の先も、きらきらと。
泣きだしそうに歪んだ唇が、なにやら言葉を紡いだ。この状況には馴染まない音ばかりが並んで、意味を探っても混乱するだけだった。
ひとつ、はっきりしていることがあった。
今の姫は、とても無防備だ。
僕が何者かわかっているだろうに、建国祭の一件を忘れたわけでもなかろうに、さっきの怯えた顔はどこへいってしまったのやら。
気にしても仕方ない。もう時間がない。
遠くから、草を踏む複数の足音。甲冑を身につけたやつらが、こちらへ向かってきている。足取りは速い。おそらくすでに、異変を察している。
殺らなくては――僕は、手ぶらでは帰れない――。
「こっちだ!」
「なっなんだこれは!」
「隊長を呼べ!」
バルコニー下で怒号がとんで、姫がびくりと首をめぐらせた。恐怖と苦痛を最小限にとどめる、絶好の機会が訪れた。
姫は僕を見ていない、今しかない、殺れ――命令が全身を駆け抜け……虚しく空回りした。
「なんの騒ぎだ!」
次いであがった声は、良く知るものだった。
荒々しく窓を開け放ち、バルコニーに現れたその姿に、今度こそ僕の手は反応した。
愚図坊は姫を、僕は王子を――もともとそういう話だった――。
動き出そうとした身体は、けれど真正面からの強烈な突きで、押しとどめられた。
どこにこんな力が――とびこんできた細い身体を、驚きをもって見下ろす。
こちらに油断があったのか、それとも麗しい姉弟愛のなせる業だったのか。僕は、開いていた窓から、姫の部屋へと押しこまれていた。
後ろ向きだったから、窓辺の段差に足をとられた。よろめいた僕に、姫が倒れこんでくる。受けとめた重みは、そのまま、姫の切実さだった。
そうだね……君が大切な弟君を、むざむざ殺させるわけがなかったね……。
だから殺らなくてはいけなかったのだ、こうなってしまう前に。
殺意を覆そうとする情動ごと姫を突き放せば、力強いまなざしとぶつかった。
頭を振って、もの言いたげな表情で僕を見上げて――その仕草に気づかされた。姫は、人が来てから、一度も声をあげていない。
ここに暗殺者がいると叫べば、兵にも王子にも確実に届く。なのにそれをしていないのだ。
なぜだ――力の抜けた両腕を、身体の脇にだらりと落とせば、姫は静かにきびすを返し、バルコニーへと戻っていく。
そこで彼女が王子と交わした短い会話は、明らかに僕を匿うためのものだった。
駄目だ、死んでいる――風が運んできた兵達の言葉に安堵する一方で、理解できないままだった姫の言葉が蘇った。
月明かりの下、泣きそうな顔で僕を見て、姫は確かに言っていた。無事だったのか、と――。