今日は特に酷い――噴水脇で一人佇む姫を、草木の影から見やって溜息をつく。
夜更けの王宮庭園。姫の困った行動も、とうとうここまできた。
王宮は王族の庭だから、姫がいつどこをどう歩こうと、僕にとやかく言う権利などない。だが自室のそばで騒ぎが起きたばかりなのだ。もう少し自重してくれても良いのにとは思う。
一族内に居場所を失った僕は、姫の言動が気がかりで、王宮に戻ってきた。
といっても僕が心配したのは、彼女が僕と会ったことを口外し、それが一族に伝わること。僕を取りこんだ者として、依頼とは別に、彼女が一族に命を狙われること。不用心な夜歩きなどではない。
幸いにも、姫には姫の思惑があるらしく、僕の当初の心配は杞憂に終わりそうだが――この奔放ぶりは困りものだ。
だいたい、姫の今の生活、健康的ではない。
日中は、王子の補佐を務める合間に、度の過ぎる一人歩き。
夜は自室の窓を開け放ち、部屋とバルコニーを行ったり来たり。それも冷たい風に身を晒しながら、かなり遅い時間まで。
無防備に歩きまわる姫を放っておくことができず、僕も同じような生活をしているが、連日の夜更かしに身体が悲鳴をあげはじめている。
いったい何の目的があって、姫はこんな無茶を続けるんだろう。ジーンはふざけたことを言っていたが……馬鹿馬鹿しい、考えるに値しない。
月明かりの冷たさも水音の涼しさも、そろそろ遠慮したい季節。なのに今夜の姫は、バルコニーに出るだけでは飽きたらず、こんなところまでやってきた。時折見せる病的な表情が、僕を不安にする。
警備の目は外向きだから、内側で姫が一人うろうろしていても気づかない。そのくせ僕のような者の侵入を許しているのだから、救いがない。
とりあえず今回は、姫が部屋を空けていることに周囲が気づくよう、手を打ってきたが――ああ、やっと来た。
「姉上、こんなところでどうしたの?」
正門を向いて立っていた姫が、肩を震わせて振り返った。
「カイン……! あの……散歩を……」
おろおろと答える細い声。少し、胸がすく思いがした。姫も、伴をつけない夜歩きには後ろ暗いものを感じていたのだろう。この際だから弟君にきつく咎められるといい。
と思ったが、姫に歩み寄る王子の表情は穏やかだった。
「こんな時間に、一人で? ……みんなが心配するよ」
「そうね……」
王子は姫のそばまで来ると、噴水の縁に腰をおろした。まるで、自分がここにいれば姉が安全で、まわりも納得する、と言わんばかりだ。
僕は天を仰ぐ。お二人とも、月夜を楽しんでいる場合ではありません、早く中へお戻りになってください――。
うつむいた姫、彼女を笑顔で見上げる王子。どちらにも、僕の願いは届きそうにない。
そして――、
「リオウを待ってるの?」
王子は唐突に、僕の名を口にした。
姫がぎょっとした目で王子を見る。彼女を見返す王子もこれには驚いたようで、その横顔から一瞬だけ笑みがひいた。……一番に驚いたのは、たぶん僕だ。
「……ごめん、冗談だったんだ」
王子の笑顔に混じるのは、なにかを悟ったような、複雑な色。
姫は口元を手で覆って、再びうつむいてしまった。
僕の背中を、ひんやりしたものが伝い落ちていく。
「姉上は最近、少しおかしい」
「……そう?」
「うん。リオウが捕まってからだね」
姫はもう顔を上げられないようだ。その姿に、僕まで追いつめられた気になる。
「ずいぶんやつれたよ。ちゃんと眠れてる?」
「……ええ」
「ならいいんだけど……」
水の音と木々のざわめきばかりが耳につく。二人がともに押し黙ってしまったからだ。
面倒なことになってきたな――芝生に視線を落とし、見聞きしたばかりの出来事を反芻する。
「リオウを待ってるの?」――王子はなぜいきなり、あんなことを聞いたのだろう? まさかあの晩、姫が僕を匿ったことを知っているのか? それとも単に、姫の様子がおかしくなった原因を僕だと考えているからか?
そして姫のあの反応――まさか本当に僕を待っているのか?
二人へと視線を戻せば、姫は相変わらずうつむいている。王子も噴水の飛沫へと手を伸ばし、沈黙を紛らしている。
「そうだ。姉上はまだ、リオウが捕らえられた経緯、知らないよね?」
王子が話題を変え、姫はようやく顔を上げた。
王子の表情が和らぐ。姉が弟思いなら弟は姉思い。うつむいたままの姫を見るのは、王子も辛かったのだろう。なんとも麗しい姉弟だ。
「……リオウは、ヴィンセントとの面会を願い出たらしい」
「リオウが?」
「うん。突然、王宮の前に現れて、兵達に話しかけてきたんだって。でもすぐに倒れてしまった……もの凄く具合が悪そうだったという話だよ」
姫が息を呑む音が響いた。
「でもリオウはっ……」
「でも」――なにを言うつもりだ、姫。
あの夜の光景が脳裏で弾ける。寝間着を翻してこちらを向いた、細い身体。泣きだしそうな顔で僕を見て、体当たりで僕を匿った姫。あれは……誰にも言ってはいけない!
僕の願いは今度こそ届いたのだろうか。姫の唇が、凍りついたように動かなくなる。
「……そう、その日のうちにいなくなってしまった」
途切れた姫の言葉を王子が拾って、僕は胸を撫で下ろした。だが。
「……姉上、もしかしてあの晩、リオウに会った?」
王子の発言に、またも僕の心臓は潰れかける。姫も、はっきりと見てとれるほど、言葉に詰まった。――まずい。
「……会ってないわ……だって私、騒ぎに……、……騒ぎが起きたとき以外は、ずっと眠っていたのよ」
姫は嘘をつくのが苦手らしい。相手が大切な弟君だからだろうか。
王子の問い方は漠然としていた。「あの晩」のいついつ、というような限定はしなかった。
なのに姫自ら、僕と会った時間――賊騒ぎに言及してしまった。しかもそこで、はっと口をつぐんだ。その後の取り繕うような説明も、しどろもどろだった。
「ごめん。姉上を疑ってなんかいないよ。……信じてる」
王子が姫の返答に違和感を覚えなかったはずはあるまい。なのになにを「信じてる」というのやら。
でも王子の嘘の方がよほど上手だ――思わず頭を振った。