冷え切った血が一瞬で煮え立つような光景が待っていた。
忌々しい白布頭。切り伏せないだけの自制心が働いたのは、こいつがこんな行動に出た原因が僕自身にあると、気づいていたからかもしれない。
それでも怒りで指先が震える。今にも加減を誤りそうだ。
姫の部屋の窓辺。窓の内側――室内。
僕の右手には短剣。切っ先は頸部。白布の向こう、長い耳飾りに触れるか触れないかの位置を捕らえた。
「……なにをしている」
精一杯、押し殺した声で問いただす。
問われた側は、言葉を返す代わりに、ゆっくりと両手を挙げた。
そのすぐ向こうで、薄桃色の生地に包まれた細身が、ぺたりと床に崩れ落ちた。
意識はしっかりしているようだ、無事と言えないこともない――視界の端で確認し、わずかに安堵する。
あろうことかジーンは、たった今まで、一国の王女に絡みついていた。僕があともう少し、早く辿りつけていたなら――。
この上なく間が悪かった。
よりにもよってジーンが近づいているときに、姫はバルコニーへと出てきた。病み上がりの頼りない足取りだった。ジーンがそんな好機を逃すはずはなく……一瞬で距離を詰めていった。
ふらついた姫を抱きとめた、などという類のものではなかった。二つの人影が重なり、室内へ雪崩れこんでいったときには、心臓が張り裂けるかと思った。この落とし前、どうつけさせようか……。
「ははっさすが。お姫さんのこととなると、早いねー」
ジーン……空気を読め。
手元が少し狂ってしまった。刃の先端に小さな玉が浮かぶ。
「……僕はこういう冗談は嫌いだ」
「わーってるって。リオウ、ここで騒ぎを起こすつもりか? あとでお姫さんが困るぜ?」
言われずともわかっている。
それに、騒ぎがどうという問題ではなく、僕はここではジーンを斬れない。
この位置で斬れば、姫がこいつの血で汚れる。怯えているときでさえ気高く美しい姫の顔が、この世のいかなる不浄よりも汚らわしい、こいつの血を浴びてしまう――あまりにしのびない。できれば避けたい。
腹立たしいことに、そんな僕の感傷は、おそらくこいつの中では織りこみ済みなのだ。
「……依頼人だって、知りたいだろ? オレから聞くほうがラクだと思うけどねー」
なるほど、それも考えのうちだったか――今さらだ。
「お前に話す気があるならな」
「だーからー、ちょっと待てっつってるだけじゃん。今おもしろいとこなんだよ」
何気ないジーンの言葉に思わず舌打ちした。こいつ、あの我が儘娘と同じ感覚で、姫に触れたのではないだろうな?
「お姫さん、本当にこんなヤツでいいわけ? 怒ると性格変わるぜ?」
話を振られて姫の身体が強ばる。逃げようにも動けないらしく、先程から硬い表情でこちらを見上げたままだ。
人を呼ばれては都合が悪いから、叫ばないでくれるのはありがたい。だが心配になる――喉を痛めているのだろうか。それとも恐怖で声が出ないのだろうか。
「ま、お姫さんがいいなら、オレはいーんだけどね」
ジーンは姫の返事を待たない。くだけすぎな態度を改めることなく納得してみせる。
いいわけないだろう――怒りを新たにするが、斬り捨てるわけにはいかない。あれは姫への問いではなく、実質、僕への念押しだ。姫の前で無体を働くなよ、という――。
「……さて、快気祝いも来たことだし、オレはこれで退散するわ。リオウ、今度は長居してけよ?」
やはり僕はおびき出されたらしい。――あのときは、これしか方法が浮かばなかった。
ジーンは余裕綽々。わずかに首をずらして、僕の短剣を爪の先で弾く。
腹いせに先端の血を振り払いたかったが、ここではそれも叶わない。後始末を考えると二重に不愉快だが、おとなしく剣を鞘に収める。
ジーンは両手を挙げたまま、「じゃっ」とひと声。あくまで人を小馬鹿にした態度で、僕の横を擦り抜けていった。
追うことはできない。ならばもう目にしたくない。だから振り返らない。
ひと呼吸おいて気を静める。改めて視線を落とせば、床に座りこんだまま、呆然とバルコニーの方を眺めている姫がいた。
やつの後始末、否、『快気祝い』をしていけということか……。
床に伸びる影は、輪郭を失いつつあった。