毒を盛られたかのようだった。眩暈がする。酷くなっていく。
今、姫はなんて……『ああ言えば』僕を『引き留められるのでは』……?
ならばあの『取引』は、そのあとの一人歩きは、僕を探していたのは……いったい、なんのためだったというんだ?
「……本当に愚かだったわ。ごめんなさい」
「姫、違う、あれは……」
とっさに否定していた。なにを否定したいのか、わからないまま。
待ってくれ……彼女はなにを言っているんだ。
僕を引き留めるために――まさかそんな。だってあれは――。
まばゆすぎるほどの光は失われていた。苦痛を感じていたはずなのに、なくなってしまうと今度は名残惜しさで胸が塞がる。
気づけば口先が、「あれは」と何度も繰りかえしている。
あれは……そうだあれは……姫は愚かではない、謝罪など必要ない、だってあれは――。
「あれはもともとは僕が言い出したこと。自業自得だったんです。姫に謝って頂くことではありません」
我ながら、強すぎる口調だと思った。姫の言葉を否定するどころか、拒絶しているかのような……。
固く閉じた目蓋の裏で、あの夜の光景がちらつく。
……拒絶したい。姫を怯えさせ、悲しい顔をさせたあの夜――もう思い出したくない。
「私ね、ずっと後悔していたの。あなたが捕らえられたと聞いてからは、特に」
静かな声から強い意志を感じて……身構えた。きっとなにを聞かされても、肉を抉られる思いがする。いっそ逃げだしたい。
「あなたとの取引……受け入れていれば良かったって」
「姫……っ」
もう、やめてくれ――。
崩れる身体を抱きとめたとき、緊張感の残る頬を伝い落ちていった、一筋の涙。
最後まで踏みとどまった彼女が、意識を手放した瞬間に落とした、それまでの恐怖の証。
――もうあれを、思い出したくないんだ。
「取引を拒まなければ、あなたはここにいてくれたのかしらって、何度も思った」
けれど姫はなおも続ける。切迫した声で。
「どうしてもあなたを探してしまうの、音楽が聞こえてきたり、楽士さん達が歩いていたりすると……そこにあなたがいるんじゃないかって……。あなたがいなくなって、本当に悲しかったのよ。だから……」
矢継ぎ早に投げかけられる、言葉の数々。
いつのまにか、目を見開いていた。全身の毛が逆立っていくのを、為す術もなく感じていた。
彼女はいったい、なにを……。
「だから取引を……、……願わずにはいられなかったの、あのとき」
「……姫……」
君はいったい、なにを言っているんだ? ――初めて姫の顔をまじまじと見た。
理解しづらい内容ではなかった。だが、容易く納得できるものでもなかった。
うつむき加減の姫は、まるで断罪の時を待っているかのように、じっとしていた。
王女の威厳はそのまま。素の部分を表に出そうという覚悟が強く滲み出ていた。後退りそうになるほどの気迫だった。
建国祭前夜を思い返していた。
再会した夜を思い返していた。
彼女がどんな思いで取引という言葉を聞いたのか、どんな思いでその言葉を口にしたのか、そればかりを考えた。
姫が顔を上げる。真っ直ぐに僕を見る。目が……逸らせない。
「あなたの事情を聞かせてほしいの。今すぐすべてを、なんて言わない。……あなたがそばにいてくれるなら……そのためなら、できることはなんだってしたいのよ」
「姫、僕は……」
だめだ。僕が関われば、彼女は狙われる。
彼女に対する暗殺の指令も下ってはいるが、より逼迫しているのは王子の方だ。ことは明らかに王位継承権絡み、彼女がいきなり子を成しでもしない限り……今後の流れで彼女の立場が変わっていけば、彼女は無事ですむかもしれないのだ。その可能性をみすみす捨てるなど……。
ずっと目が離せなかった――離れていてさえ忘れられなかった輝きが、すぐそこにある。僕がそばにいることを許し、望んでくれている。彼女は僕の正体を知ったのに、僕は彼女を裏切ったのに、さんざん傷つけ、悲しい顔をさせたのに――それなのに。
「……僕は……」
呼吸が荒れる。四肢が強ばる。
冷静さは半ば失われていた。
この決断は、姫の人生を大きく左右してしまう。安易な気構えは許されない――なのに。
「君を巻きこみたくない……、……そう思っていました」
腹の底から、抑え続けてきた願いが溢れだす。さながら濁流で――止まらない。
「いつかすべてが終わるまで、君にはなるべく近づくまいと。そのほうが君は安全で、事も運びやすいだろうと……そう思っていました。……でも……」
……あとはすべてが言い訳だった。欲望に勝てない自分自身に対しての。
彼女が僕に向けてくれた強い想い。
僕はそれに応えられるだろうか。
これまでの振る舞いを贖えるだろうか。
戸惑いに揺れるその瞳に、もう一度、喜びの光を灯すことができるのだろうか……、――僕に。
引きよせられるように、押し流されるように――姫へと一歩を踏み出した。