『……は農作業をしたことはあるの?』 ――それは、彼とアーデンの町を歩いていたとき、ふと聞いてみたくなって、でもなぜか口にできなかった問いだった。
不穏な邂逅はその少しあと。確か、視察が長引いてアーデンに留まった日の夜。冷たい月を背に酷薄な笑みを浮かべていた彼は、土の付いた鍬ではなく、血濡れた短剣を手にしていた。
思い出すと胸が酷くざわついて、とても眠れそうになくて。そっと自室を抜けだして、夜の庭園に降りた。
明かりは持ってこなかった。ゆっくりと目を慣らしながら、庭園の中央へと進みでる。
人影はない。
白く光る木々の葉は濡れているように見え、噴水の飛沫は銀色に輝いている。
空を探せばやや低い位置に、丸い月が浮かんでいた。――あの夜、見た月と、どこか似ていた。
そういえば、あのとき彼はアーデンという場所について、『縁があるらしい』と言っていた。
……だから期待したの? そんなに会いたかったの? ――嘲笑をこめて、自分に問いかける。
数日前の昼、視察先で見かけた青年。
遠目には、髪の色や背格好に共通するものがあって、はじめは彼が現れたのかと思った。
あの場にはカインや護衛達もいたけれど、私だけが気づいた。――私だけが勘違いをした。
近づいてみれば、まったくの別人。髪の色は、青みがかって見えるような黒ではなく、むしろ濃茶で、背格好は確かに似ていたけれど、動作が酷く気怠げだった。
農作業――延々と鍬を振るい続けるのはきっと重労働で、喜び勇んで取り組むものではない。だから青年の、いささか鈍重な動きを、責めることなどできない。でももしリオウなら、きっともっと凛と――。
思考が良からぬ方へと流れはじめる。乱暴に切って捨てる。
愚かだわ……まだ引きずっているなんて――足を止め、目についた木の葉に手を伸ばした。引きむしりそうになって……堪えた。
どうかしている。罪のない植物を苛めたところで、自分の記憶を整理できるはずがないのに。
開いた手から、葉は勢いよく逃げていく。小さな声で謝って、その場を離れた。
あてのない一人歩きで辿る道はだいたい決まっている。庭園から神殿の方へ足を向け、林へと入りこむ。月明かりの届きにくい薄闇の中を歩いていく。
外からでは、林の中に道があるのはわかりにくい。
けれど通りやすい場所を選んで進めば、自然と道なりに歩いている。
人ひとりが歩くには十分な幅。裾がふわりと広がった服装でも困らない。
今は暗くて見えにくいけれど、ところどころ踏み固められたような部分もある。
皆、割と頻繁にこの林に足を踏み入れているのかもしれない。見まわりの兵や、庭園の職人、それに……――腰に笛を挿した青年の後ろ姿が閃いて、つかのま足が固まった。
ああ、と溜息をつく。呼吸が落ちつくのを待って、再び歩きはじめる。
まだ、きっかけがあると思い出してしまう。声も姿も、鮮明に。
神殿脇の林――リオウが人目を忍んで訪れていた場所。ここに来れば、彼を思い出すのは当然のことなのに、わかっていながら足を運んでしまう。
まるで記憶にしがみつくかのように……記憶がうつろうのを恐れているかのように。
記憶がうつろう? ――苦い笑みを零した。うつろうもなにも、もともと直視できていないではないか、と。
私にとってのリオウは、いつも穏やかに微笑んでいた優しい宮廷楽士。黒服の男性と密談していた彼も、冷たい月の下で見た彼も、私に取引を持ちかけた彼も、……カインに刃を向けた彼でさえもリオウなのだということを、私はきっと認められずにいる。
自分に都合の良い面影ばかりを追い続けている。だから未だに引きずっている。なんて不毛なのだろう。
ゆっくりと歩を進めているうちに、城壁が見えてくる。
確かこのあたりだった。私が二度も彼の秘密に踏みこんでしまったのは。
三度目などありえない。あれば今度こそ私は無事ではすまない。――否、三度目がなくても。
彼らが密談にここを選んでいたのは、見張りの目が及びにくいから。そういう場所を、よりにもよって深夜に、私は歩いている。
『一人歩きは危険です』――忘れたわけではないのに。
壁と木々の狭間に見える夜空は、月明かりのせいか少し青ざめている。そこに浮かぶ星を数えながら、城壁に歩み寄る。石の壁に手を当てて、その冷たさを確かめる。
私はこの向こうの世界に興味があった。憧れてさえいたかもしれない。そして彼は時折、王宮の外の空気を感じさせてくれた。
彼と一緒にいるのは楽しかった。
謎を垣間見れば気になった。
彼の育った環境を、彼自身を、もっと知りたくなった。
行き着いたのは、建国祭前夜のあの光景と、翌日の剣戟。知りたかった謎の答えは、開けてはいけない箱の中にあった――もちろん、私が開けなくとも自ずと開いたのだろうけれど。
どうせ開けてしまうなら、中身をすべて確かめれば良かったのかしら? 確かめたなら、どうなって……。
変わり映えのしない後悔を振り切って、城壁沿いに進む。
林が途切れたところで小径に戻り、城の裏手へとさらに進めば、やがて墓所へと辿りつく。
歴代の国王、王族達の視線を浴びながら、お父様とお母様、そしてカインが眠る場所を目指す。
幼い頃は、カインと度々ここで遊んでは叱られたものだけど、今は見えない手に頭を押さえつけられているようで心細い。虫の声が一段と大きく聞こえて耳が痛む。
いくつもの石造の脇を足早に通り抜け、最も新しい二つの棺の前に跪いた。
墓石に刻まれた文字は、一年程度の雨風で崩れるような脆いものではなく、まだはっきりしている。
一方で、二日前に私が手向けた花は、萎れはじめていた。今度また花を用意してもらって、昼間のうちに来よう……。
お父様、と胸の内で呼びかけた。
もう一人のカインは、とても頑張っています。どうか安心してください。お母様も、……カインも……。
声にしない言葉が途切れる。なにを話せばよいのかわからなくなる。
ここに眠っているのは、リオウがその命を狙っていた人達。
『あの事故がなければ僕が』――はっきりそう言った彼のことを、今もどこかでそう思っているに違いない彼のことを、こんな場所で思い描くわけにはいかない。
違う話題を……――彼という存在を性急に思考の外へと追いだせば、空白ばかりが残った。