『ぜんぜん見てくれていない』――そうだったかしら。
『うわのそら』――そうだったかもしれない。
『このところ』――あの視察から戻って以来、ずっと。
人気がないことを確かめながら歩を進め、カインの部屋の前に立つ。
握った手を胸元まで引きあげ、閉ざされた扉を見据える。
ここまでの動作は、夜明け前から、何度か繰りかえしている。
この先のことが、まだできていない。……大きく息を吐いた。
もう明るい時間。
カインが寝ているかもしれない、などという言い訳には無理がある。
金曜日の朝。
今日のカインには授業の予定が、私には付き添いの役目がある。
ぎゅっと拳に力をこめ……、思考を一掃するかのごとく躊躇いを振り切って、コンコンと扉を叩いた。
大きな音が鳴り響いたような気がして、心臓が跳ねあがる。
反面、室内に聞こえるような叩き方だったか、自信がもてない。
少し待ってみたけれど、応じてもらえる様子もない。
叩きなおしてみようかと迷い、結局、拳をおろした。
浅い呼吸をひとつ。深い呼吸をもうひとつ。お腹にぐっと力をこめる。
「カイン、私よ。……話したいことが」
「姫様?」
声は部屋の中ではなく、外から聞こえた。
びくりとして振り向けば、いつのまにかすぐそこに、エミリオが立っていた。
「ぁ……」
気まずいときこそ堂々と――すぐに背筋を正し、笑顔をつくった。
けれどエミリオは戸惑いの表情を浮かべたまま。
「……どうしたの?」
「……はい、あの、……カイン様は先ほど、本日のご予定通り、ロデル様のお宅へお出かけになられました」
「……、……そう」
「……姫様はお休みされると伺いまして、私、今、姫様のお部屋に……」
言われたことの意味が、すぐには理解できなかった。
おそらく、最後まで言わずに俯いてしまったエミリオの方が、私より正確に事態を把握していた。
寝台に腰をおろして、ぼんやりと窓辺を眺める。
青空を彩るのは、柔らかくて希望に満ちた朝の光。
同じものが私の足元近くにも届いているけれど、触れたら焼かれてしまいそうで、逃げるように足を引きよせ、服の裾を押さえた。
今日の予定は社交。カインは私を置いてロデルのところへ行ってしまった。
私は夕べから何度か、自室とカインの部屋の間を往き来していたけれど、それでもすれ違ってしまったらしい。
伴はつけていったそうだから、きっと大丈夫だけど……今からでも、私も行くべきかしら――すぐに首を振った。
夕べのような会話を、ロデルの家に持ちこんではいけない。話しあうのは、カインが戻ってから。
話し合えるのかしら……? ――天蓋を支える柱にもたれ、溜息をついた。
授業の朝、置いていかれてしまうなんて、初めてのことだった。ここ数日の、そして夕べの私の言動は、それほどにカインを傷つけた。
開いた両手に額を埋めた。目蓋を閉じれば眼前に、夕べの闇が広がる。カインの悲痛な声が蘇る。
泣きたくなる。でも涙はまったく出てこない。
泣いている場合ではないし、泣く資格もないのだと、身体はちゃんと理解しているらしい。
「……『変わり果てた』だなんて……」
堪えきれず呻き声を漏らす。
同時に扉を叩く音がして、はっと口をつぐんだ。
「姫様、失礼します。お茶のご用意をさせていただきますね」
お茶……? ――開かれる扉へと振り返るけれど、なぜお茶が運ばれてくるのかわからない。
てきぱきと用意してくれるエミリオを呆然と眺め……遅れて思い出した。
つい先刻、エミリオが勧めてくれて、私はいただくと答えたのだ。生返事に近いものだったような気がする。
「ありがとう」
後ろ暗く思いながら、窓辺に置かれた小さな卓へと進み、長椅子に腰掛けた。
陽の光は強すぎて目が痛むけれど、紅茶とお菓子の香りは甘く優しく、緊張を和らげてくれる。
ほっと息をついたら、不意に頬が震えた。
すぐに気を引き締めなおして顔を上げる。
こっそりエミリオの様子を確かめれば、さりげなく視線を逸らしていくところで……顔を歪めた瞬間を、おそらくしっかりと見られてしまった。
失態だわ――胸中で呟きながら、円卓の木理に目を落とした。
カインと私が気まずい状態にあることを、エミリオが察しているのは間違いない。時折、心配そうにこちらを窺い、もの言いたげな表情をしている。
けれど決してこちらの事情に触れてこようとはしない。かわりに、急用のない来客を上手に断ってくれたり、こんなふうにお茶を用意してくれたり、とにかく気を遣ってくれる。
カインと私の間に立たされて、不安に思うこともあるはずなのに……。
今朝、カインはエミリオに、「今日は一人で行くことになった」と告げたらしい。
その後、二人の間にどのようなやりとりがあったのかは、あえて聞いていない。
エミリオは明らかに、私に知らせないままカインを行かせたことを気に病んでいるし、私はカインがなぜ一人で行ってしまったのか知っている。心優しいエミリオを、これ以上、困らせたくはない。
……それでも、聞かずにはいられなかった。
「ねえ、エミリオ。出かけるとき、カインはどんな顔をしていたかしら?」
笑顔で、さらりと。世間話をするかのように。
「いつも通り、だったかしら?」
肯定の返事が欲しいだけなのだと知りながら。
「はい。ロデル様とお会いになることを、楽しみにしていらっしゃるご様子でした」
「そう、良かったわ。……ありがとう」
事実であってくれれば良いし、事実と異なっていたとしても、エミリオは私が最も欲しかった答えをくれただけ。
心の中で、感謝の言葉を繰りかえした。