「お、なんだおまえか。一人なのか? 身体はもういいのか?」
「ええ。一昨日は来られなくてごめんなさいね」
「ンなのいいって。カインのつきそいってのも結構大変そうだしな。あんまり無理すんなよ?」
「ふふっ、そうね。気をつけるわ。ありがとう」
急に訪ねていった私を、ロデルはいつも通りの笑顔で向かえてくれた。
真っ先に体調を案じてくれたから、金曜日にカインがどんな説明をしたかがわかる。
諍いのことは、知られていない――ここへ来るまでの緊張が解けて、強引に貼りつけた笑みがようやく頬に馴染んだ。
「カイン一人で大丈夫だったかしら?」
「おう、ぜんぜん問題なかったぜ。ちょっと元気なかったっつーか、ときどきぼーっとしてたけどな。おまえのことが心配だったんだろうし」
「そう……」
とっさに謝罪の言葉を漏らしそうになって、口をつぐんだ。
隠し事が増えていく一方で気が重い。カインに対して、王宮の皆々に対して、そして今、ロデルに対して。
だけど今回のことは、もともと私達二人の問題。カインが明かしていないなら、私も明かさないでおこう。――ロデルが用意してくれた椅子に腰掛けながら、そう自分に念を押した。
それに今はなにより、確かめなくてはならないことがある。
「二人でどんなことを話したの?」
「お、知りたいか?」
「そうね、知りたいわ」
これは詮索、褒められた行為ではない――自分の言動に、不快感が沸き起こる。ロデルと目を合わせているのが苦しい。笑顔を崩さないよう、あえておどけたように振る舞った。
「そーだなー……最近流行ってる遊びのこととか」
「遊び?」
「ああ。くだらねーことなんだけど、やってみると結構ハマるんだ。カインも必死になっちまってさ。ムキになればなるほどうまくいかなくって、二人で大笑いだったぜ」
その時のことを思い返しているのか、ロデルは肩を揺らして笑いはじめた。
カインもこんな心地の良い声で笑っていたのかしら――その場にいられなかったことに、寂しさを覚える。
同時に、描いていた筋書き通りに話を進めるべきだと判断した。カインには休息が必要だし、私には――。
「今度、おまえにも教えてやるよ。単純なんだけど、意外と奥が深いんだ。三人で勝負しようぜ」
「あ、あのね、ロデル。そのことなのだけど……」
「ん?」
「来週の予定……相談してもいいかしら? 一昨日、話せなかったから」
「ああ、そっか。どんな感じになるんだ?」
「えっとあの……来週の日曜日がお父様とお母様の追悼式だから、その準備があって、週の後半は来られないの」
「追悼式……そっか……」
「それでね、ロデルの都合を聞きたかったの。月曜日と火曜日、忙しいかしら?」
「月曜と火曜って、つまり明日と明後日か?」
「急な話で悪いのだけど……」
「んー、いや、別にいいぜ。平気だ」
「そう?」
「ああ、おまえも来るんだろ?」
ロデルの何気ない問いに息を呑み、すぐに笑顔を強く心がけた。
ここで言葉を失ってはいけない。表情を曇らせてもいけない。
諍いのことを、カインが明かしていないなら、私も……。
「そうね、来られると良いのだけど……外せない用事が入りそうで……またカイン一人かもしれないわ」
「そっかあ。おまえ、ホントに忙しいんだな。あんまり無理すんなよ?」
落胆したような、でもそれ以上に心配そうなロデルの声に、胸の奥が軋む。
気取られないようゆっくりと、溜息の塊を吐き出した。
とりとめのない話に花を咲かせたあと、ロデルは城門まで送ってくれた。
部屋までと言ってくれたけれど、気持ちだけ受け取った。
陽が傾きはじめた空を眺めながら、一人、門をくぐる。橙色に染まる王宮庭園が目の前に広がる。
品位の授業で何度も赴いた建物へと、無意識のうちに目を向けてしまい、溜息とともに顔を俯けた。
隠し事が増えていく――最近のそれらは、ひとつひとつが重苦しい。
人を喜ばせるためのものではないし、些細なものでもない。
特に、去っていった宮廷楽士へのこだわりは、事態を芳しくないものにしてばかり。
いい加減、断ち切らなくてはいけない。断ち切れずにいたからカインとのことがこじれたと言っても、決して過言ではないのだから。
ふと顔を上げると、噴水の向こうで語らっていた一団が一斉に下がって道をあけ、私に向かって礼の形をとった。
部屋に戻るまで、気は抜けない。頬に笑みを貼りつけなおして歩を進め、儀礼的な言を紡いでから通過した。
『姉上もか……』――ふとカインの言葉が脳裏を過ぎって、この人達は今のカインをどう思っているのかが気になった。
考えても詮ないこと。どう思われようと、なにを言われようと、鷹揚に構えているしかない。
だけど、カインが一人で抱えこむことはない。そのために私がついている……はずだったのに。
休日の庭園は、いつもより人が多い。城に入るまでに幾度も挨拶や、時には長めの言葉を交わすことになった。一人歩きをするなら、時間と場所をもっと考えた方が良さそう。
事故から一年。王宮内の様子が少し変わった。
皆々にとって今の私は、後ろ盾を失った前国王の娘ではなく、有力な次期国王候補の姉姫であり補佐――それは、カインの努力がもたらしてくれた、感謝すべき変化。
だからなおのこと、私もこのままではいられない。
「カイン? 今、いいかしら」
人目を避けつつ、カインの部屋の扉を叩く。返事はない。
「……カイン?」
昨日も今日も、カインはほとんど外に出ていないと聞いている。食事も部屋に運ばせているとか。
ならば今も、きっと室内にいる。少し待ってから、もう一度、扉を叩こうとした。
「急ぎの用?」
「えっ……」
「急ぎじゃないなら、またにしてよ。疲れてるんだ」
返事があったことに安堵したのも束の間、返されたのは拒絶の言葉だった。
歓迎などされないことは、わかりきっていた。早々に震えはじめた両足に、力をこめて踏みとどまる。
「……少し、お話ができればと思って……疲れているところに悪いけれど……お願いよ……」
扉の向こうにきちんと声が届くよう、何度も大きく息を吸う。それでも時折、声が上擦る。
言葉を切れば、沈黙が続くだけ。次第に息苦しさが増していって、気づけば両手を扉について身体を支えていた。
「……急ぎかと言われれば……そうね、明日のことも……」
「明日の予定ならエミリオに伝えておいてよ。あとで聞くから」
低い、くぐもった声。淡々とした口調。
それは、出会った頃のような、抑揚に欠けた物言いではなかった。私を遠ざけるため、ことさら強調された素っ気なさ。いつのまにこんな話し方ができるようになっていたのだろう。
いつのまに……――私が『うわのそら』だったあいだに?
『なぜ僕を見てくれないんだ』――カインの問いが脳裏に蘇った。もしまた同じことを聞かれてしまったら、私はなんて答えれば良い?
せめてここを開けて――懇願の言葉が音にならないまま、喉元から胸の底へ落ちて消える。
準備ができていない。今の私はまだ、カインに許しを乞うことができない。――漠然と感じていたことが確信に変わる。
「……わかったわ……だけど、これだけは言わせてちょうだい」
言ったところで、カインの心には届かないかもしれない――そんな思いを背中へと押しやって、口を開く。
「私はあなたのことを、とても誇りに思っているわ。今も……昔と、変わりなく」
一片の不実が混じりこんだ言葉。
今度はいくら待っても、カインの返事を聞くことはできなかった。