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Golden Ears of Barley

〜7〜

「泳ぐのが好きだったのよ」
私がそう答えると、水遊びはしたのかと尋ねてきたその人は、やわらかく微笑んだ。
いつもの穏やかな笑顔。だけどその直前、ほんの一瞬だったけれど、驚いた表情をしていた。
勝ち負けの話ではないと言われたのに、対抗意識に似た感情を止められない。
「本当に泳げるのよ。見せてあげるわ」
宣言して、水へと足を踏み入れる。
良く晴れた日のレイノル湖。
湖面も草花も木々の葉も、遠くの山々にかかる白い雲も、すべてがきらきらと輝いている。こんな日に泳いだら、きっと楽しい。
深い方へと進み、胸まで水に浸かったところで、岸辺へと振り返った。逆光が眩しくて人影さえ見えないけれど、きっと彼はあそこにいて、私の突発的な行動に慌てている。
もっと驚かせてあげるわ――大きく手を振ってから、水を掻こうとした。そこで、……違和感に気づいた。
冷たさを感じない。レイノル湖の水は、もっとひんやりしていたと思うのに。
服の状態もいつもと変わらない。布は濡れると水を吸って、重くまとわりつくものではなかったかしら?
なにより、水面がどこだかわからない。少し息苦しいから、胸まで浸かっているはずなのに。
「どうして……? どうしよう……」
泳ぎたいのに。泳いでみせると言ってしまったのに。
湖底を蹴っても浮遊感がない。腕を揺らしても水の手応えを感じられない。焦りと失望を綯い交ぜに抱いたまま、為す術なく膝をついた。……と、
「姫」
私を優しく呼ぶ声があった。
顔を上げれば白光の中、手を差しのべられていた。
一見すると華奢なのに、良く見れば大きくて力強そうな、綺麗な手だった。
誰のものかはわからない。確かめようにも眩しすぎて、腕より後ろは輪郭すら見えない。
だけどこの手を取ったらきっと良いことがある――胸が震えるほどの予感があって、自分からも手を伸ばす。
でも本当に、誰の手なの? ――絡みついてくる疑問は疎ましいだけ。手と手が繋がる瞬間が、待ち遠しくてたまらない。けれど。
待って……待って……――冷静な声は、指先同士が触れるか否かの刹那まで追いすがってきた。そして。
待って……、私、先刻まで誰と一緒にいた? ――簡単なようで答えの出ない、奇妙な疑問を突きつけてきた。
そうだわ……私、誰かと一緒だった。この手は間違いなく、その人のものだわ。誰……誰だった……?
我に返った途端、逆光の中に人の姿が浮かびあがった。今まで見えなかったことが不思議なほどはっきりと。
青味がかかった黒髪。穏やかな笑顔。宮廷楽士の装い。
「あ……」
慌てて手を引き戻した。
光景が瞬く間に霧散する。

気づけば薄紫色の闇の中にいた。
ここは自分の部屋。そろそろ夜が明けようとしている。そう理解した途端、今まで見ていたものが夢になる。
「……ぁ……あ……」
胸苦しさに耐えられず、声を漏らした。
耳に直に届く声は、夢の中の会話と比べるとずっと鮮明に聞こえて、今が現実だという事実を重ねて伝えてくる。
望むことなど許されないとしても、望んだところで叶わないとしても、温かい時間だった――すべてが夢だった。
「ぁあ、あ、ああああああ……」
融通のきかない塊が、胸の中、弾けんばかりの勢いで膨れあがった。
それを押さえこもうとする意思は、枯葉のように軽くて脆かった。
癇癪を起こした子供のようだわ――冷静に自分を評する声は、分別ない泣哭の音に、あっさり掻き消されていった。

衝動がおさまり、呼吸が落ちつく頃には、自分がなぜ泣いていたのかわからなくなっていた。
うなされたようだけど、あられもなく泣き喚いてしまったなんて情けない。誰かに聞かれたかもしれないと思うと気が重い。
泣きながら目覚めるなんて、冬にカインの夢を見て以来のこと。
今度はカインを失う夢でも見たのかしら? ――そうに違いない。現実に今、私はカインを失いかねない状況にあるのだから。
念のため、いつも通りの時間に身支度を調えたけれど、部屋の扉を叩いたのは、カインではなくエミリオだった。今日もカインは私のつきそいなしで行きたいらしい。
驚くことではなかった。夕べのやりとりを思えば、こうならない方がおかしかった。
ただ、状況を伝えてくれたエミリオは、不安を隠しきれない様子だった。
巻きこんでごめんなさいね――言葉で謝罪するかわりに笑顔を見せて、カインの見送りを頼んだ。
静かな月曜日の朝。
かわったことがあったとすれば……従妹が金色の髪をなびかせて現れ、私がカインのつきそいをしていないと知り、気を良くして去っていったくらい。
静かな……夜更けのように静かな、朝。
思えば昨日の朝も一昨日の朝も、こんなふうに静かだった。
二日間、ほとんど部屋に籠もっていたカインは、一人でなにを考えていたのかしら。
閉じた手帳を抱えて、窓際の長椅子に腰掛ける。
手帳を開いてみたところで予定は変わらない。今週末――八月二十八日は追悼式。
前国王、王妃を偲ぶ日は、カインにとって、記憶がないことを苦しむ日でもある。
役目は果たすと言っていた……式典自体は滞りなく終了するのかもしれない。
でも、自分を『変わり果てた』などと言うくらいだから、今のカインは本当は、衆目が疎ましいに違いない。
それでも、昔のカインを知る人を避け続けることなどできない。だからせめて今日と明日、ゆっくりしてきてほしい。
ロデルとお話して、少しでも気が晴れますように……。今の私では、心の支えになれないから。
「……私はどうしようかしら……」
窓の外を見やれば、今日も快晴。
立ち上がり、手帳をしまって部屋を出た。


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捏造の旋律

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