「カイン、お願い、待ってちょうだい!」
カインが走りだしたら、絶対に追いつけない。
白色の背中を目指して、がむしゃらに一直線に駆ける。
ふかふかの芝に何度も足を取られそうになったけれど、どうにか走り抜いてカインの前に飛び出し、行く手をふさいだ。
我ながらうんざりするほど呼吸が乱れていた。
話さなければならないことがあるはずなのに、口を開けば荒い息が出ていくばかり。
せめて目を合わせようと顔を上げれば、カインは硬い表情のまま俯いていた。
引き結んだ唇はほとんど動かず、ごくわずかに上下する肩が、深く静かな息づかいを伝えてくる。
力強ささえ感じさせる立ち姿と、決してこちらに向けられない眼差し。
思わず私も俯きそうになって、あわてて顔を上げなおした。
もう気持ちがくじけそうになるなんて、早すぎる。
それに、カインは足を止めてくれた。ずいぶんあっさり追いつくことができたから、もしかすると私が走りはじめたときには、すでにここで立ち止まり、待っていてくれたのかもしれない。
ならばこれは、完全な拒絶とは少し違う。今はとにかく会話をはじめてみよう――息を整えるのもそこそこに、話のきっかけを探す。
「……今日は、ずいぶんと、早かったのね。ロデルとは、楽しくお話できた?」
口にしてすぐ、もっと落ち着いて考えれば良かったと後悔した。カインが早く帰ってきたのは、ロデルと楽しくお話できなかったからかもしれない。
「ぁ、あの……、……お父様達に、用があったの?」
「……」
「もしそうなら……私、邪魔をしないから、どうぞ行ってきて。でもそのあとで……、私の話を聞いてちょうだい」
話の運びを焦りすぎていると思った。
でもこの機会を逃したくない。悠長に構えてなどいられなかった。
カインは口を閉ざしたまま。俯いたまま。
声を聞けない。目線も合わせられない。
実はカインはとうにここを離れていて、私は残映を見ているのではないかしら……――そんな突飛な考えまでが、脳裏をちらつきはじめる。……と、カインは無言のままこちらに背を向け、墓所へと歩きはじめた。
やっぱりカインは私と口をききたくないのかしら……。
でも引き下がらない。カインの用事が済むまで、邪魔にならない程度に近くで、待たせてもらう。――すぐさま自分に言い聞かせて、揺れる白の外衣を追う。
けれど、お父様達の墓標まであと十歩ほどというところで、カインは唐突に足を止めた。
「……やっぱり、やめておくよ」
「え?」
「行ったって、話すことなんてなにもない。……どうせなにも思い出せやしない」
「……カイン……」
ようやく聞けたのは、先日の晩を再現しているかのような言葉だった。
すぐに返す言葉を探すけれど、安易な慰めを除外すると、どれも消えてしまう。
そうね、あなたはなにも思い出さないわ――そんな無慈悲な囁きだけが残る。
思い出せなくても良いのよ――いっそそう伝えたら、カインは楽になれるのかしら。
「……今日あったことを報告するだけでも良いと思うのよ。きっとお父様達は喜ぶわ」
考えて考えて、やっとひねり出した答えは、やはり安易なものでしかなかったらしい。
カインは溜息にも似た笑声を吐き出した。
「もう昔の僕じゃないのに、喜ぶものか」
「そんなふうに思わないで。……カインはカインよ」
「本当はそんなこと思ってないくせに……」
「カイン」
「もうやめてくれ! 僕をカインと呼ばないでくれ、僕はカインなんかじゃない!」
「……っ」
カインの拳が宙を裂き、真横の木に叩きつけられる。
バシッという、威圧感を伴った音が押し寄せてきて、悲鳴を飲みこみながら身を竦めた。
「いい加減にしてくれ……。……カイン、カインって……、みんな勝手に僕をカインにして……、カインっていったい何者なんだよ!」
続いたのは、唸るような叫び声。
不覚にも怯んでしまい、一歩後退った。
「……姉上だけじゃない。みんな、昔のカインはこうじゃなかった、昔のカインはこうはしなかったって思ってるくせに、それでも僕のことをカインと呼ぶ。僕は……カインが何者かぜんぜんわからないのに、みんなにカインと呼ばれて……、……でもやっぱりあれはカインじゃないと言われるんだ!」
「……っ……」
「……駄目なんだ、どんなに頑張っても……、……どんなに頑張ってもなにも思い出せない……。なにを見ても、なにを聞いても、何度ここへ来ても、なにもわからないまま……自分が何者なのか、ぜんぜんわからないまま……。この身体だって……、自分のものじゃないみたいだ……!」
カイン――名前を呼ぼうとして、寸前で思いとどまった。今はカインを、気安くカインと呼んではいけない。
木の幹に打ちつけたままのカインの右手を見やれば、怪我をした様子はない。でも先程の痛そうな音は、まだ耳の奥にこびりついている。
「こんな僕では、カインらしくなんてなれないんだ。なりたい、ならなくてはいけないと思っても、僕はカイン・マクリールを知らない……。みんなが望むようなカインにはなれない……。まるで別人のようだと言われても否定できない……。……僕は……、僕でしかいられない……」
記憶がないから、自分に自信が持てない。
そんなカインに、まわりは各々が記憶しているカインの人物像を――もしかしたら各々に都合の良い側面ばかりを――押しつけて、今のカインを否定する。うりふたつの別人ではないかと、戯れに囁く者さえいる。
それはカインにとって、自分自身を『変わり果てた』などと言わせてしまうほどの苦しみ。
私はこんなときのために補佐についていたはずなのに……。
「……皆が……、……誰がなんと言おうと……、あなたはカインだわ。私の弟の、カイン・マクリールだわ」
ずっとリオウの面影に捕らわれ、余所見をしていた。
肝心なときにカインの支えになれず、逆に傷つけてしまった。
あまりに自分が情けなくて、少しでも気を緩めれば声が震えてしまいそうだった。
「昔とまったく同じでなくてもいい、そんな必要なんてない。あなたはあなたよ。今のあなたでいいのよ」
「……」
「別人のようだと言われたら、これが今の自分だと笑い返せばいい。大きな事故のあとで、記憶を失って、昔と変わったところがあったとしても、なにもおかしくないわ。昔は昔、今は今。私にとっては今のあなたが、カインらしいカインなのよ」
「……じゃあなぜ、僕を見てくれないの?」
白色の外衣が翻る。
振り返ったカインは、先程までの剣幕が嘘のように、静かな表情をしていた。
静かな表情のまま、痛みを堪えて揺れる瞳で、誤魔化しを許すまいと真っ直ぐに私を見ていた。
ああ、この問いだ――両の拳に力がこもる。
これが怖くて、カインにぶつかれなかった。でも今なら大丈夫。ちゃんと答えはできている。
「うわのそらと言われれば、確かにそうだったかもしれないわ。このところ少し調子が悪くて、ぼんやりしてた。でも、あなたから目を背けているつもりなんてなかったの。今のあなたが昔と違うとか、昔のあなたを懐かしんでいるとか、決してそんなことではなかったの。不安にさせてごめんなさい」
用意してあった言葉は、不自然に思われかねないほどすらすらと流れ出た。
饒舌すぎたかもしれない。嘘を見抜かれたくなくて、カインを見上げる目に力がこもる。
良く晴れた日のきらめく水面が嘘で淀んでいく――そんな奇妙な感覚が全身に染みわたる。
先に目を逸らしたのはカインだった。
つられて私も俯けば、視線の先にカインの右手があった。先刻、木に叩きつけたときのままの、握られた状態だった。
一緒に生を受けた半身は、いつからか私より背が高くなり、身体もがっしりとしていった
その半身の魂を受け継いだカインは、やはり大きくてしっかりした手をしていた。
しがみついてでも引き止めると、お父様に誓ったばかり。
一歩前へ出る。カインの右手へと両手を伸ばす。
振り払われるかもしれないと思っていたから、指先が届いた途端、性急にその手を握りしめてしまった。
一瞬、カインが低く呻いて、私も小さな声を漏らした。すぐに詫びて、手の力を緩める。
失念していた。カインの右手にはまだ、木を叩いたときの痛みが残っているのかもしれなかった。
カインの拳を両手で包みなおして、わずかに持ちあげる。
木に叩きつけたのは小指側のはずだけど、小さな屑がついているだけで出血の跡はない。
そっと屑を払い落とせば、そこには傷ひとつない綺麗な手があった。ただ綺麗なだけじゃない。血が通っている、温かくて力強い手。
触れさせてもらえたことに深く安堵しながら、顔を上げた。
「あなたの気持ち、ぜんぜんわかっていなかった。あなたが苦しんでいるときに、なにもしてあげられなかったわ。本当にごめんなさい。どうか……許して……」
カインはしばらくのあいだ、黙ったまま俯いていた。静かな表情……思案顔で。
やがてこちらへと視線を戻し、おもむろに口を開く。
「僕には、姉上は……調子が悪いというより、なにかに悩んでいるように見えた」
「え……」
「僕から目を逸らしたり、気がつくといなかったり、一人でここへ来ていたり……僕は、姉上に避けられているのかと思った」
「そんな……違う……」
「まわりからは、僕が僕らしくないと囁く声ばかり聞こえてきて……だから姉上も、今の僕にがっかりしているんだと思った」
「違うわ、私は今のあなたに、がっかりなんてしていない」
「昔通りじゃないのに?」
「昔通りでないところが、あったとしてもよ。今のあなたにがっかりする理由なんてないもの」
「……」
いつのまにか、カインの手から力が抜けていた。
私の手の中で大きな拳が頼りなくほどけて、崩れ落ちそうなそれに私の指が一方的に絡んでいく。
振り解くことも握りかえすこともせず、されるがまま。そんな手が、カインの意気消沈ぶりを物語っている。
どうして悩んだりしたのかしら――己の不甲斐なさに、溜息がこぼれそうになった。
カインに元気でいてほしい――嘘や隠し事の理由なんて、それで十分だったのに。
形さえ失われそうなほど頼りない右手を、両手でしっかりと握りなおした。
「カイン……、私は、生まれてからずっと一緒にいた姉として、今のあなたをとても誇りに思ってる。自慢の弟だわ。事故から一年、どんなに大変でも、ずっと頑張ってきた……あなたは、たとえ以前と少し変わったことがあったとしても、それでも……そのことも含めて、今の自分にもっと自信を持っていいのよ」
口にしながら、さらに己の不甲斐なさを噛みしめた。
カインはずっと頑張ってきたし、成果も出ている。昔と比べられたところで、恥じることなどなにもない。
その事実に比べたら、カインの素性に関わる嘘も隠し事も、些細なことだった。隠し事が増えていく罪悪感に引きずられたのか、私はそんなことさえ見失っていた。
「ねえ、カイン。あなた、言ってたわよね、事故の時、あなたはお父様達を守ろうとしなかったんじゃないかって。……私はそんなふうには思えない。やっぱりあなたはお父様達を守ろうとしたに違いないと思うのよ」
「僕だけが助かってしまったのに?」
「……悲しい言い方をしないで。あなたまで逝ってしまったら、私はひとりぼっちだったわ」
本当は誰も助からなかった。
近衛兵達の尽力むなしく、崖から落ちた命はひとつ残らず潰えた――封印されるべき真相。
「エシューテで……あなたは私を守ってくれたわ。きっとあんな風に……あなたはお父様達のことも守ろうとしたに違いないって思うのよ」
私の身代わりになって、石畳に倒れたカイン。こめかみから流れ落ち、石畳の溝を埋めていった真っ赤な血。ふせられたきり、ぴくりとも動かなかった目蓋。
深い衝撃とともに脳裏に焼きついた、死の気配さえ感じさせる光景。
むやみやたらに思い出すべきではないと、いつのまにか覆いをかけて記憶の底に仕舞いこんでいた。
「……あのときは……今度こそ本当にあなたを失うのではないかと……、とても怖かった……」
足下の芝に目を落とせば、見たことのない光景が脳裏にひらめいた。
崖から転がり落ちていく馬車の中。お父様とお母様を、必死で支えようとするカイン。――そんな光景が、目を覆いたくなるほど生々しく、振り払えないほど力強く、脳裏に描きだされる。
「変わったことばかりじゃない……変わってないことも、ある……あなたはやっぱり、カインだわ。お父様もお母様も、きっと同じことを……」
喉の奥に違和感を覚えて、とっさに言葉を切った。
両の目に涙が盛り上がって、今にも零れ落ちそうになっていた。何度も瞬いてどうにか押しこめた。
気づけば全身が小刻みに震えていた。急いで静めたけれど、繋いだ手から、もうカインに伝わってしまったかもしれない。
お父様たちのことを、今は考えてはいけない――乱れた呼吸を整えながら、心を虚ろにしようと努める。
「……姉上は、父上と母上のことを思い出すとき、悲しくなる?」
「……、……そうね、なるわね」
喉の力がうまく抜けなくて、そのまま声を出せば嗚咽になりそうで。だから囁くしかなかった。
今はカインの傷心を受けとめるのが先。自分の心の傷口を開いている場合ではない。
たとえ手遅れでも、微笑んでみせようと思った。
左右の頬に力を入れる。
唇を噛みしめたまま口角を上げる。
だめ、まだ目が笑っていない、もっと笑いなさい――自分に強く言い聞かせて、精一杯の笑顔をつくる。
「あなたがいてくれて良かった。あなたがいてくれなかったら、きっと私はまだ落ちこんでいたわ」
嘘偽りのない言葉を口にすると、すっと気持ちが穏やかになった。
つくりものの笑みが顔になじんで、自然にカインを見上げることができた。
けれど。
「姉上はいつもそうやって笑っている」
目があった途端、きっぱりとカインに言い切られ、凍りついた。
気に障ることをしてしまったのかと狼狽し、カインの顔色を窺うけれど、カインは眉間にしわを寄せ、目を逸らす。
「僕はこの場所で姉上が泣くのを見たことがない」
「……」
「僕と違って、姉上には記憶がある。ここへ来て悲しくなるのは、考えてみれば当たり前のことなのに」
「それは……」
「姉上、ごめん。僕は、自分のことばかり考えていた」
「待って、そん……」
「許してほしいのは僕の方だ。不安に捕らわれて、姉上の気持ちを考えることができなかった。自分の不安を撒き散らして、姉上を傷つけるようなことを、たくさん言ってしまった。……本当に、ごめん」
視線を戻し、真っ直ぐに見つめてくるカインから、今度は私が目を逸らしそうになる。
「謝らないで……あなたはなにも悪くない。私が不甲斐なかっただけなのよ」
しばらくの間、お互い無言で見つめあっていた。
やがてどちらからともなく目を落とす。
その先には、繋がれたままの手。
いつしかカインの右手が力強く、私の手を握りかえしていた。