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壁も天井もコンクリートが剥き出しになった薄暗い廊下に、うっすらと長い影が伸びる。

音もなく移動していくそれは、人の形を為していた。

影を見ただけでも、相当な長身なのが分かる。

荒削りで直線的な輪郭は、その影を作り出している人物が紛れもない男であることを物語っていた。

体格が良いだけに体重もそれなりのはずだが、足音は聞こえない。

横柄な足取りでありながら、まるでそこに存在していないかのように、空気すら揺らさずに歩く。これならば、気配に敏感な野生の獣でさえも、接近に気がつかないであろう。

こんな深夜に、物音の絶えた暗い廊下を、人影が進んでいくという構図はかなり気味が悪い。それだけでも恐怖を十分に煽るのだが、その影を作り出す人物が誰なのかを知れば、無限城にたむろするチンピラどもは、脱兎の如く逃げ出すだろう。

顔にかかるほど長く伸びた髪から覗く隻眼は、破壊と暴力を好む狂人の目だ。

入り組んだ通路を迷いもせずに進んでいた不動は、僅かな明かりが漏れているのに気がついて足を止めた。

光の源は、通路から脇へ逸れて、下とへ伸びる階段の向こうだ。

下っていく階段は、左右の幅が極端に狭く、しかし距離は異常に長い。

行き着く所に何があるのか知らぬ者なら、階段を下りてみようとは思わないだろう。

階下に、この無限城ロウアー・タウンを牛耳るVOLTSSの中枢があることは、ごく身近な者しか知らない。

そもそも、この辺り一帯が既に、幹部以外は近寄れない場所だ。

下っ端には表向きのルートを使わせているし、悪意があって入り込んだ者は、別のルートにそれとなく誘い込まれる仕組みになっている。

仮に敵がこの階段に気付いたとしても、人一人がやっと通れるくらいの広さだ。身動きが取れない上に、階段から出た瞬間を狙い撃ちされれば、手も足も出ないだろう。最短ルートだと分かっても尚、使用を避けてしまうような道なのだ。

故に、この階段はあまり使われることがない。

ちらりと階下に視線をやって、不動はすぐに通り過ぎようとした。

今のところMAKUBEXに用はない。

VOLTSSの幹部に名を連ねているとはいっても、それは契約上でのことだ。

不動の左腕をもぎ取った、あの憎らしい青い目の蛇が関わってくるまで、何もする気はないし、何を求められてもいない。

今はただ、時折情報を交換する以外、VOLTSSの世界からは切り離された生活を送っている。

有事の際は協力することになるのだろうが、ガキどもと普段から行動を共にするのは御免だ。ストレスを感じつつ付き合うぐらいなら、一人で酒でも呷っていた方が、ずっと有意義だと思っている。





故にその時、踏み出しかけた足が止まったのは、単なる気紛れだったのだろう。





朔羅は眠気を感じて作業の手を休めた。

今日はこれ以上の仕事はなしだ。無理をするとミスに繋がる可能性がある。

相手が融通のきかない電子機器である以上、人間側のミスは命取りになってしまうのだ。

僅かに上向いて、軽く息を吐き出す。目を閉じて、集中し続けた神経をゆっくりと解きほぐした。

機器の発する機械音が、静かに部屋の空気に溶け込んでいく。

それを耳障りだと感じたのは僅かな期間だけで、今はすっかり耳に馴染んでしまっている。

古式ゆかしい旧家で育った身としては、これらの耳慣れない音は煩いとさえ感じられたものだ。

だが、疲れを知らないこれらの機械一つ一つは、まるで自らの意思を持つかのように、たった一人の人間のために稼動し続けている。

主たる少年のために。

そしてその少年が自分たちを導いてくれるのだ。

そう思えば、パソコンの騒音も不思議と気にならない。

ふと傍らに視線をやると、MAKUBEXはすっかり眠り込んでしまっていた。

マザーコンピュータの元へも戻らず、作業をし続けたその場で丸くなって眠っている。

余程疲れていたのだろう。

幸い、予定していた分の処理は全て完了しているようだ。

起こしてしまうよりは、このまま休ませてあげた方がいいかもしれない。

朔羅は努めて物音を立てないようにMAKUBEXに近寄った。

自分の身を守る盾でも武器でもある布を、寒くないよう、そっとMAKUBEXの上にかける。

そして見守るように、側に座り込んだ。

あどけない寝顔は、無限城ロウアー・タウンを牛耳る少年王を、年よりもずっと幼く見せている。育ちきっていない体は、まだまだ肩も細く、頼りない印象を禁じえない。

こんな少年に、VOLTSSの命運が圧し掛かっているのだ。

朔羅はそっと目を伏せた。

今の朔羅には、MAKUBEXの眠りを妨げぬよう見守ることしかできない。

静かな時が流れた。

その余りの静けさと疲労が、朔羅の感覚を狂わせたのだろうか。

朔羅の背後で、少し離れた壁際に、ゆらりと長身の影が揺れた。

普段なら敏感に気配を感じ取れたはずだが、MAKUBEXに意識を集中していた朔羅が、それに気付くはずもない。

不穏に光る隻眼が、2人を凝視していた。

背を向ける形になる朔羅は、その存在に気付かない。

姿を隠そうともせず、不動は腕を組んで壁に凭れ掛けた。

変な女だ、と思う。

実の弟がいるだろうに、そちらは放ったらかしでMAKUBEXにばかり愛情を傾けているような、そんなふうに見えた。

確かに、すっかり成長して可愛げのなくなった実弟よりは、年齢的にも容姿的にもMAKUBEXの方が保護欲をそそるのだろう。だが、それにしても赤の他人のためにあそこまで尽くせるものだろうか。

ふと、数時間前のMAKUBEXの言葉が思い出された。

『まるでお母さんのやることみたいだ―――』。

母親か。

MAKUBEXが朔羅に無意識で母親の影を求め、朔羅もまたそんなMAKUBEXに母性を刺激される、そんなところなのだろうか。

女の母性本能とやらは、男にとって未知のものだ。特に不動のような男にとっては、全く理解できない。

どちらかと言えば薄気味が悪いくらいだ。

母親のことは一応覚えているが、朔羅とはイメージが重ならない。

自分が経てきたケースが、一般的なものから極端に掛け離れていたことも、印象を遠くする原因かもしれない。

顔も体も悪くない女だった。

思い出せるのはそれだけだ。

親からただの女に成り下がった、母親。

息子から一人の男に成り上がった、自分。

立場が一気に逆転した時から、母親という存在は失せたも同然だ。

後に残るのは、薄っぺらい母親という皮を剥ぎ取られて、本能のまま肉欲に溺れていく女だけだった。この子にしてこの親ありといったところだろうが、雌犬と化した女の豹変ぶりは笑えるほどに凄まじい。一皮剥けば女など皆同じだということを、まざまざと教えてくれる。

不動にとって女は、性欲処理のための生き物か、それにも値しない生き物かの、二つに一つでしかない。

禁忌を犯すという興奮が冷めれば、もうその女にも用がなかった。

『産まなければ良かった』。

そんなことを叫んでいたような気もするが、もう記憶も定かでない。

そういえば誕生日だったか、と思い出す。

日付は既に変わっているから、正確には昨日ということになる。

誕生日だからといって、不動には祝いの言葉なんぞよりも、呪いの声の方が多かろう。

この一つの命のせいで、一体どれだけの命が無駄に消えたのか。

あの女は『産まなければ良かった』と言ったが、同じように不動の存在を憎み否定する者は、数え切れないほど多いに違いない。逆に、もし不動が死ねば、歓喜の声が上がるだろう。

楽しい人生だ。

これほど楽しい人生もない。

低い笑い声が漏れた。

その声に、弾かれたように朔羅が振り返った。

視線が真正面からぶつかる。

驚きに見開かれていた目は、相手を不動と認めた途端、平常に戻った。

不動から見れば小娘の域でしかないが、どんな経験をしてきたのか、水商売の女並に本心を隠すのが巧妙だ。不快感と不信感とを、薄絹のような穏やかさで包み隠し、無表情を貼り付けてしまう。

しかし、その身から滲み出る敵意はやはり覆いきれない。

見透かすような目で、不動が笑った。

気に障ったのだろう、朔羅が僅かに眉を顰める。

「…何か?」

小声で問い掛けてきた。すぐ側で眠っているMAKUBEXを起こさないようにとの配慮だろう。

「別に用はない」

朔羅の意思を汲んだわけではないが、不動も声を荒げはしない。

朔羅は不動の真意を探ろうと、感覚を研ぎ澄ませているようだ。間に距離があることが、まだ平常心を保っていられる理由だろう。欲の塊と噂され、それを否定しようともしない男と対して、女なら不安を感じないはずはない。

不動はちらりとMAKUBEXに視線を流し、朔羅に戻すと揶揄するように言った。

「母親気取りか」

「MAKUBEXは私たちの唯一の導き手よ。大切にするのは当たり前だわ」

抑揚のない声でそう言い放つ。

「それだけかよ?」

「…何が言いたいの?」

不動はゆっくりと壁から背を離した。

朔羅は動かない。気丈にも真っ直ぐ不動に視線をぶつけている。

気の強い女は嫌いではない。むしろ好みだ。

今にも噛み付きそうな、きつい瞳を向けてくる女を見るとぞくぞくする。

その喉元を押さえつけて、欲望のままに食い散らかしてやりたい。

狩りの衝動と同じなのだろう。

口元を笑いの形に歪めたまま、不動は朔羅に向かって足を踏み出した。

膝に置かれた朔羅の手が、硬く握られたのが分かる。

どれだけ気が強かろうが、腕に覚えがあろうが、恐怖を感じれば体は自然に反応するものだ。

相手の怯えを煽るように、殊更ゆっくりと足を進める。

逃げ出さないのは大したものだ。

或いは、逃げたら終わりだと感覚で悟っているのかもしれない。

この張り詰めた空気を壊したら、確実に不動の手に落ちる、と。

朔羅のすぐ目の前で足を止める。

きっちりと正座した朔羅を、居丈高に見下ろした。

視線を合わせてくるのを無視して、舐めるように朔羅の体を眺め回す。

女であることを如実に物語る箇所に視線が触れる度、握られた朔羅の手が小刻みに震えた。欲望の対象として眺められることを、女は敏感に感じ取るという。

嫋やかな容貌は、美女など見慣れている不動から見ても、上位に位置付けられるだろう。

だからと言って、欲を感じるわけではない。

外見の端麗さは、必ずしも欲望と結びつくとは限らないのだ。

しかし、欲を感じるわけではないが―――。

僅かに不動が身を屈めた。

右手が伸びる。そう朔羅が認識した瞬間、物凄い勢いで体が引きずり上げられた。

「…っ」

胸倉を掴み上げた不動の手は、朔羅の予想以上に逞しい。

朔羅の足の爪先は、もう床に触れるか触れないかだ。不動は、片手一本で易々と朔羅の体を持ち上げる。それでも手加減しているのだろう。

朔羅が両手に力を込めても、不動の右手はびくともしない。

却って、無駄な抵抗をする獲物を嘲るように、口の端に笑みを刻む。

「非力なもんだな」

左腕が朔羅の腰に回って、無理矢理自分の方へ引き寄せた。

密着した部分から、互いの体温が伝わる。

少しでも距離を離そうと、突っぱねる朔羅の腕は、小刻みに震えて力が入らない。

せめて布衣術を使えたなら、抵抗のしようもあっただろう。

「男を咥えてみりゃ、少しは色気も出てくるだろうぜ」

高圧的に笑う不動に、あからさまな嫌悪の表情を向けてくる。

「離しなさい…っ」

「大声でも出したらどうだ?」

初めから犯すつもりなどない。少しばかり嗜虐心が刺激されただけだ。

不動の目には、朔羅もMAKUBEXも、ままごとのような家族ごっこで慰めあっているだけのように見える。

酷く滑稽だ。

余りに可笑しくて、その綺麗で儚いその絆を壊してみたくなる。

「どうした。助けを呼ばねぇと、このまま犯すぜ?」

腰を抱く腕に力を込める。

朔羅は苦しげに顔を顰めたが、次の瞬間、毅然と不動の目を睨み返した。

凛とした声が、静かに告げる。

「大声を出したら、MAKUBEXが起きてしまうわ」

こんな時でも、MAKUBEXが優先か。

半ば呆れながら、朔羅に顔を寄せる。

至近距離に迫っても、朔羅の瞳は揺るがない。震えながら、よくこんな目ができるものだ。

「自分の心配をしたらどうだ」

「今の私にとって、自分の身よりもMAKUBEXの眠りを守ることの方が大事なのよ」

「下らねぇことを…」

「貴方は自分以外に大切なものなんてないから…だから分からないんだわ」

不動の隻眼に、不穏な色が浮かんだ。

朔羅の言っていることは、いちいち不動の価値観とすれ違う。

試しに考えてみても、自分以上に大切なものなど思いつかない。いや、そもそも大切だと思えるものすら想像もつかなかった。

欲しいものは奪い取ればいい。そして、失って困るものなど何もない。

「分からねぇな」

「分かろうともしていない…でしょう?」

朔羅の声音は、不動を責めても憐れんでもいない。

声に滲んでいるのは、互いに互いを理解しえない寂寥感だろうか。

奪うことで己を満たす不動と、与えることで満たされる朔羅とでは、どこまで行っても平行線だ。

「私はMAKUBEXに未来を見たのよ。MAKUBEXの夢は私の夢、MAKUBEXを大切にすることは自分を大切にすることに繋がるの…。分かってもらおうとは、思わないけれど」

静かにそう語る朔羅に、不動は密かに溜息をついた。

語る相手を間違っている。

どんな綺麗な言葉を綴ろうと、不動には響かない。

不動自身は欲望のみで行動することに、何の疑問も抱かない人間だ。そして、欲の前に脆くも崩れ去る理性という図を、何度も見てきている。

強い意思を持つように見える朔羅だが、どこまで堅固だろうか。

ふと、意地の悪いことを思いつく。

胸倉を掴み上げていた手を離した。

「不動…?」

解放されると思ったのだろう、朔羅が僅かに体の力を抜いた。

そこを見計らって、抱きすくめる。

力任せではなく、まるで恋人を抱くように包み込んだ。

腕の中の細い肢体は、はっきりと分かるほどにうろたえている。

逃れようともがき始めるのを、柔らかく閉じ込め、耳元に唇を寄せた。

女をその気にさせる時の、低い声で囁きかける。

「朔羅…」

「え…っ?」

それとなく朔羅の頭に手をやって、自分の胸に押し付ける。

目を合わせれば、嘘がばれるだろう。

乱暴するのは簡単だが、朔羅が自分から落ちてきた方が効果的だ。

ただの弱い女なのだと、その事実を突きつけてやれる。

「ふ…不動…?」

困惑したような声が漏れる。

敢えて応えない。

適当な間を空けてやった方が、女は自分で勝手に解釈するものだ

焦らすように、ただ包み込んでやる。

暫くすると、抵抗が止んだ。

朔羅は不動の行為をどう解釈しだだろうか。

もう一度、甘い声を作って囁きかける。

「朔羅」

「……」

言葉での返答はないが、微かに揺れた体が応えていた。

悪い反応ではない。

僅かに呼吸が乱れている。

表情が読めない状況だけに、断定できないが、簡単に落ちるかもしれない。

意外とつまらないものだ。

そう思った時だった。

「さ…くら…」

ともすると、聞き落としそうな声がした。

「MAKUBEX…」

するりと朔羅が腕からすり抜ける。

緩く抱き締めていたのが仇になったようだ。

朔羅は、慌てて眠り続けるMAKUBEXに寄り添い、その顔を覗き込んでいる。

「…ったくこの女は」

不動は低く舌打ちした。

ただの寝言に掻っ攫われたということか。

もう少し時間があれば、落ちたかもしれない。

いや、或いは時間があっても、やはり落ちなかっただろうか。

今となっては、何となく後者のような気がしなくもない。

ここまでくると、呆れるのを通り越して、感心すら覚える。思わず正直な感想が漏れた。

「…お前。ある意味、『女』じゃねぇ」

女という過程をすっ飛ばして、すっかり『母』という生き物になっている。

「何ですってっ」

棘を含んだ声で、朔羅が振り返った。

不動の演技にも気が付いているのだろう、理知的な瞳にはこれまで以上の嶮がある。

微かに喉を震わせて、不動が笑った。

どうせ思いつきの行動だ。悪戯の延長上のことでしかなく、特に執着することではない。

それきり、興味を失ったとでも言いたげに、不動はあっさりと朔羅に背を向けた。






それ以降、不動は全く朔羅に干渉せず、朔羅もまたそれに倣った。

互いに互いを空気のような存在と見なし、視界に入っても認識しないようにしている。

元から仲が良いとは言えなかった二人だ。

気にする者は誰もいなかった。


ついでにおまけ

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