■□■ 悪夢 □■□
「僕と寝たいの」
独特の語尾の上がらない問いかけで雲雀は言った。
「え?」
常人に比べてはるかに反射神経も警戒心も理解能力も高いはずの山本は、呆けたような返答しかできなかった。古いジャズナンバーが流れる、閑散としたバーでのこと。他に誤解しようのない言葉であるのに、山本には隣に立った雲雀の台詞が理解できなかった。
確かに山本は雲雀に惚れている。もう長いあいだ、ずっと彼に好意を寄せていた。雲雀に似た容貌の女を選んで寝たこともある。彼が自分を好いてくれたら、と願ったことは事実だ。
だがそれはあまりに現実味に乏しく、山本はそれをあくまで願望の一種としてしか捉えていなかった。
「君は、僕と寝たいの」
珍しく辛抱強い様子で、雲雀が繰り返した。バーに入ってくるなり、カウンターに立ってバーボンを楽しんでいた山本に突如問いかけた雲雀の真意はわからない。けれど、これ以上彼の質問に答えないでいたら、苛立ちを通り越して雲雀は山本を軽蔑するだろう。
「ああ」
山本は答えた。否というのは簡単であったが、真実ではない。アルコール度数の高いバーボンが心地よく回り、いささか気も強くなっていた。あるいは、判断力が低下していた。何より、闇の深遠を覗いたような雲雀の目は、嘘など簡単に見透かすであろうから。
微笑さえ浮かべた山本の返答に、雲雀はかすかに口角を引き上げた。
「そう」
優越的な、誰より似会う勝利者の微笑を浮かべた雲雀は、山本の手首を掴んだ。
「おいで」
手首を掴んで引寄せられたことよりも、囁くような蠱惑的な言葉に導かれて、山本はバーを出た。行き先は山本のアパート。車での短いドライブのあいだも、雲雀は一切口をきかない。目的も、理由も、何一つとして。
無言で車外に視線を投げかける雲雀の横顔は美しく、その静寂を乱すことを怖れて山本は口を閉ざした。物憂げな様子に拍車がかかり、どこか気だるい焦燥を抱いた雲雀にはえも言われぬ色香があった。車という密室のなか、それを知るのは山本のみ。他の誰も知らぬ、あるいは雲雀さえも知らぬであろう隠微な表情を、自分が独占していることが山本には嬉しかった。喜びは腹底からある種の期待となって背筋を湧き上がる。先ほどから眉一つ動かさぬ雲雀も、そのことに気付いているだろう。
今、自分がある一定の方向にむかって進み始めたことを山本は悟った。
広く、それなりに整えられ、それなりに散らかった居心地のいいアパートに着くと、雲雀は山本の袖を引いた。彼らは寝室に入り、ベッドを共有した。
初めて抱く雲雀の身体は熱く艶かしく、想像だにしなかった快楽を山本にもたらした。男との情交を知らない山本に強烈なまでの官能を教え込み、雲雀は楽しげに笑った。山本を押し倒し、恥じらいも無くその腰に跨って誘惑の言葉を囁く。手馴れた雲雀の技巧に篭絡された山本が堪え切れずに吐精すると、
「ふふ、だらしない……」
揶揄するような言葉は楽しげな微笑に消えた。いくら雲雀が男との交合に慣れていようが、さすがにその台詞は面白くなかった。にわかに自尊心をくすぐられた山本は、雲雀の腕を掴んで勢いよくベッドに引き倒すと、身体の上下を入れ替えた。
あっと雲雀は声を上げたが、予想の範疇を出ていなかったのか、口元に浮かんだ微笑はいっそ深まっている。それが尚更山本の負けん気を刺激し、雲雀の柳腰を掴むと、乱暴なまでの勢いでその細身を突き上げた。
「ひっ、あ…………!」
突き上げられるたびに雲雀は小さな悲鳴を放ったが、それは自分を高ぶらせるためのものであったに違いない。わかってはいても、山本も悪い気はせず、くちづけに濡れたくちびるが零す艶やかな悲鳴が聞きたくて、一層に深く雲雀の痩躯を穿った。
その行為が加虐的なまでに発展する前に、二人は果てた。初めて目の当たりにする快楽の絶頂にある雲雀の表情は、一瞬にして山本の脳を焼いた。未だ男も女も知らぬ初心な身であれば、その表情だけで達してしまうに違いない。麻薬的なまでの魅力を湛えた雲雀の表情は妖しく、もとより彼を希求していた山本は、雲雀の腕に捕らわれたことを否定することはできなかった。
朝食の席で、山本は雲雀に自分の好意を告白した。今更という感は否めないが、ただの気まぐれや遊びにしろ、知っていてほしかったのだ。
押し付けがましくもなく、本当にただ好意を告げただけの山本を、雲雀は昨夜と同じ、底の知れない瞳で見つめた。虚無のような、真理のような、ただ黒い瞳で。
「君は僕が好きなの」
抑揚の薄い口調はいつものことなので、山本は気にしなかった。気にしないよう努力していた。
「まあな」
照れたように笑い、身体のサイズに合わないナイトガウンを纏った雲雀に、バターをたっぷりぬったトーストを差し出す。雲雀はそれには目もくれず、ゆっくりとした隙の無い動作で立ち上がると、テーブルを迂回して山本の元へやってきた。
「僕を愛してるの」
目の前に立った雲雀の台詞には感情がまるで読み取れなかった。機械的に紡がれた愛という言葉はその意味合いからはかけ離れているように聞こえ、山本は困ったように微笑して雲雀に向き直った。
今朝方、山本が結んでやったガウンの帯が目の前にある。藍色のガウンの表皮を滑るように見上げると、雲雀は尚もじっと山本を見つめていた。
「そんなとこだな」
気恥ずかしそうに笑う山本だが、雲雀は逃げるのを許さなかった。
「違うの」
肯定的な返答をしていても、それを無視して確信的な言葉を望む雲雀は、傲慢である。自分の欲しい言葉だけを引きずり出し、曖昧な返答は容赦なく切り捨てる。どこまでも不遜で高慢な男。けれどそれが誰よりも似会う男。
山本は苦笑し、腕を伸ばして雲雀の腰を抱き寄せた。
「愛してる」
腹部の辺りに顎を乗せるようにして見上げ、今度こそはっきりと答えた山本の髪を、雲雀の手が撫でた。求める答えを引きずり出し、満足げに微笑した雲雀はそれならと呟き、
「僕の願いを叶えてよ」
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