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 アパートを出て行ったまま、雲雀は戻らなかった。
 どこでどうしているのか山本は知らない。だが、彼がまた難しい仕事を完遂したという噂を耳にしたので、仕事は続けているようである。さすがといえばさすがだが、山本との諍いが何ら影響することがないという点で、憎らしくもある。
 それでもその話を聞いた日、仕事を終えると山本は急いで自宅に戻った。もしかしたら機嫌を直し、あるいはどうでもよくなって、雲雀が戻って来ているのではと思ったのだ。
 息せき切って自宅に戻った山本が見たものは、いつもと変わらぬ空虚な我が家だった。誰かが訪れた形跡はない。山本の期待は外れた。
 落胆した山本は、都合の良すぎる願望に自分で呆れ、次いで腹が立った。何故自分がこんな風にやきもきせねばならないのだろうか。元はと言えば、たった一度おねだりを拒否しただけで、気分を害してアパートを飛び出した雲雀が悪いのだ。これまで山本はどんなささいなことでも雲雀の願いを叶えてやって来た。それなのに雲雀は、ささやかな山本の提案を拒否した。顔に手袋を投げつけられたも同然である。山本が雲雀の許容を期待する必要などどこにあるだろうか。
 どこまでもおおらかで気前のいい山本でも、今回ばかりは腹が立った。いつまでも甘い顔ばかりしているわけにもいかない。故に山本は、雲雀に謝罪するという方法を却下した。この場合、雲雀が悪く、自分が正しい。それは客観的にも正当性のある論理であったが、問題点があるとすればただ一つ。雲雀に常識などというものは通用しないという事実であった。そしてそんな彼だからこそ、惚れ込んでしまったという事実もまた。






 自分の正しさを信じる山本は、雲雀が折れるのを待った。アパートを出て行って四日経ち、五日経ち、六日が経った。雲雀はまるで戻ってくる気配がない。それどころか、ここのところ、雲雀が各所で目撃されている。それも群れ嫌いなはずの彼が、親しげに男と一緒にいる場面を。
 その話を聞いたとき、山本の冷静な部分は雲雀の罠であると警戒心を強めた。だが、より多くを占める激情的な部分が、雲雀のあてつけに怒りを煽られた。昔の彼ならば、冷静さと鷹揚さのほうがより多くを占めていたが、雲雀との快楽と愛欲に満ちた日々のなかで感化され、いつの間にか激情がその地位をとって占めていた。ましてやあの一夜いらい押し込めていた苛立ちと怒り、本当に雲雀が自分を見限ったのではないかという不安や懊悩が根拠を得て噴出した。
 七日目の夜、山本は雲雀を探し出すことを決意した。彼は夜の街を駆け回り、雲雀を血眼になって探した。しかしそんな山本の決意を嘲笑うかのように、雲雀は見つからない。それどころか、山本へのあてつけのように、数多の男と夜の街に消えたという証言ばかりが耳に入ってくる。最早山本の怒りは狂乱にまで達しかけた。
 冷静に、しかし未だかつてないほどの怒りを膨れ上がらせて、山本は雲雀を探し彷徨った。そして十日目の夜、ついに雲雀の居場所を突き止めた。






 夜の街のうらぶれたバーに、雲雀の姿はあった。清潔感はあるものの、どこか寂れた雰囲気の薄暗いバーの、更に闇が濃いスタンドテーブルに雲雀はもたれるように立っていた。別れた日の、侮蔑を含んだ冷徹な表情からは思いもよらぬ、楽しげな表情を浮かべて。
 隣には身なりのいい若い男。雲雀より拳一つ分ほど背の高い、がっちりとした体格の男だ。年齢は定かではない。暗がりのせいと、人種の違いから、その年齢が山本には判断がつかなかった。
 二人の姿を見つけたとき、山本ははらわたが煮えくり返るのを感じた。雲雀の求める暴力的なセックスをいかにも楽しげにこなしてくれそうな男である。自分よりもあんな脂下がっただらしない顔の男の方がいいのかと、被害妄想がそれを煽り立てた。

「ヒバリ」

 糾弾するように鋭く投げかけられた言葉に、雲雀は無反応だった。このバーへ山本が姿を現したときから気付いていないはずはないのに、どこまでも莫迦にしている。尚更怒りを煽られて、山本は大股で雲雀の元へと歩み寄った。

「ヒバリ、来い」

 言うより早く、山本は雲雀の腕を掴んでいた。力の加減はできない。指が筋肉にめり込む感触があった。
 雲雀がようやく山本を見た。

「……君、だれ」

 くちびるをついて出たのは侮辱の言葉。忘却を装って相手を貶め、怒らせようという言葉に、山本は激怒した。
 右手が翻り、手の甲で雲雀の頬を殴りつけていた。掌でなかったのは、そのほうがより相手を侮辱できるととっさに判断したからか。
 殴りつけられた雲雀は俯いたまま、切れたくちびるを指先で辿った。
 山本の怒りと、いきなりの行動に呆気に取られていた雲雀の連れが、何やら喚きたてた。頭に血の上った山本には、言葉の内容は一切理解できなかった。

「アンタは黙ってろ!」

 指を突きつけるように怒鳴ると、気圧された男は沈黙した。あるいは、山本の顔に見覚えがあったのか。
 東洋人特有のいつまでも幼い顔の造作のためか、それとも生まれ持っての気質のせいか、山本は他人に警戒心を与えないという特徴を持っていた。すぐに誰とでも打ち解け、相手の懐に入り込む。とても裏の世界に生きる人間とは見えないだろう。しかし彼は紛れもなくその街を支配下に置く犯罪組織の幹部なのである。顔を知られていても不思議は無かった。
 大人しくなった男を視界から切り捨てると、山本は雲雀の腕を掴んで店の逆側の奥へと引っ張っていった。初めて見る山本の怒りの形相に戸惑っているのか、それとも頑ななだけなのか、雲雀は何も言わない。切れて血の滲んだくちびるを引き結び、射殺すような鋭い視線を向けている。山本も余計な口は聞かず、店の奥にあるレストルームへと雲雀を引きずり込んだ。
 ただのレストルームにしては頑丈な扉を閉め、鍵をかけると、山本は再び雲雀の頬をしたたかに殴りつけた。溜め込んでいた怒りが雲雀を前に噴出し、激情に拍車がかかった結果だ。何より、今を持って雲雀が、軽蔑をあらわにした視線を山本に向けているから。
 体格で差のある山本に殴りつけられ、雲雀はよろめいた。そこを逃さず、雲雀の片腕を捉えて背後にねじり上げると、レストルームの壁に勢いよく叩き付けた。

「……っ…………!」

 胸を強打し、雲雀は苦しげに呻いた。それでも声を上げなかったのはさすがと言えよう。しかしそんな矜持の強さが、山本の怒りを刺激する。
 山本は無言のまま雲雀の腰に手を伸ばし、ベルトに手をかけた。

「あっ、何を……!?」

 いくら雲雀とはいえ、山本の行動が予想できなかったのか、驚いたように声を上げた。山本は紳士である。怒らず、声を荒らげることも無く、暴力よりも話し合いを好み、愛嬌があって人好きのする、誰からも頼りにされるような好青年。しかしそれらは過去のこととなった。この日の山本は、それら全てをかなぐり捨て、ただ怒りのままに行動する男だった。
 乱暴な手つきでベルトをくつろげると、山本は勢いよく雲雀の下肢から衣服を剥ぎ取った。足首に服をまとわりつかせただけの姿は無様で、自然と山本は笑っていた。他人を傷付けることを目的とした、冷ややかな嘲笑だった。

「い、やだ……やめっ」

 外気にさらされた下半身に羞恥心を覚えたのか、雲雀は彼に似合わぬ懇願の言葉を口にした。しかしそれが終わる前に、山本は雲雀の髪を掴むと、壁に向かって頭部を叩きつけていた。
 ガッと鈍い音がして雲雀は口をつぐんだ。喋りようがなかった。髪を掴んだ手に抜けた髪の毛が付いたが、それを手を振って払い落とすと、山本は自分の衣服をくつろげ、先ほどから興奮に高ぶり続けている自身を、無理矢理雲雀の中へと突き込んだ。
 雲雀がひっと咽喉を鳴らした。後ろ手にねじり上げられたまま、痩躯が不自然に硬直する。いい気味だった。山本は口元を歪める。これまで散々犯すように抱いてと懇願したくせに、いざ本当にその場面になると、何と無様なことだろうか。いつもの傲慢さはどこへいったのか。いつもの気位の高さはどこへいったのか。山本は実際に雲雀を嘲笑った。壁に押し付けられたまま背後から犯され、突き上げるたびの爪先立つように伸び上がるしかない雲雀。咽喉から出てくるのは本物の悲鳴で、息を呑むような怯え方が、山本の溜飲を下げた。
 暴力的な衝動は解放と共に突然治まった。引き攣れる雲雀の秘所に怒りの奔流をぶちまけると、仰け反った背中に向かって山本は嘆息した。押し入ったときと同じようにいきなり自身を引き抜くと、山本は身体を離した。
 無情にも山本が身体を離し、衣服を整える目の前で、支えを失った雲雀の身体が壁なりにずり下がった。山本は踵を返し、洗面台に歩み寄る。荒い息をついて水道の蛇口を捻り、迸った冷水で顔を洗った。
 冷たい水を頭から浴びるように顔を洗うと、興奮もまた一気に洗い流されていった。後に残ったのは苛立たしいまでの虚しさだけ。鏡に映る濡れた顔にあるのは、後悔と自己嫌悪だ。
 洗面台に両手をついたまま、山本は鏡越しに雲雀を見た。冷たいタイル張りの床の上に座り込んだ雲雀は、肩を落として俯いている。傷付けられた自尊心と肉体が、山本を今更ながらに怯ませた。
 初めて見る雲雀の魂の抜けたような様子に、山本は正視に堪えなかった。ましてやそれは彼自身が作り出した光景である。目を逸らしても、山本の心の痛みは増すばかりだった。
 いや増した後悔に、今や山本は押しつぶされんばかりだった。激情に任せ、何てことをしてしまったのだろう。あれほど暴力を否定しておいて、何と無様な。
 山本は吐き気を覚えて口元を片手で覆った。
 大変なことをしてしまった。山本は自分の大切な、愛するものを自らぶち壊してしまったのだ。獣じみた欲求に負け、暴力を振るい、それ以上の罪業を犯してしまった。これは許されることではない。
 今すぐ雲雀に謝罪すべきだ。頭の隅で冷静な部分が山本に訴えかけている。手を付いて雲雀に謝り、傷ついた彼をどうにか慰めねばならない。いや、それは他人の手に委ねるほうがいいだろう。それより先に、雲雀の怪我の具合を確かめなければ。そう頭ではわかっているのに、雲雀に目を向けることさえできない山本は、洗面台に両手をついて俯いたまま、動くことが出来なかった。
 重苦しい、吐き気を催すような沈黙を振り払ったのは、かすかな笑い声だった。初めそれは金属の擦れるような、耳障りな音だった。頭痛を覚えていた山本には何の音かわからず、水の流れる音が反響しているのかと思った。
 しかし蛇口を閉めても音は消え去らず、かえって大きくなった。それが笑声だということ気付いたのは、音がはっきりと人の声として耳に届いてからのことだ。
 レストルームにいるのは山本と雲雀だけ。山本は笑っていない。ならばあとは雲雀しかいない。
 おそるおそる肩越しに振り返った山本は、床の上に座り、天井を仰ぐようにして笑う雲雀を目の当たりにした。笑いの波動と同調して髪が揺れ、肩も同じように震えている。それを見た瞬間、山本の体内を冷水が流れ落ちていった。雲雀の気がふれたのだと思ったのだ。
 反射的に山本は振り返り、洗面台に後ろ手をついた。しかしそれ以上動くこともできない。床の上に座り込んだ雲雀は、段々と笑声を収束させていく。山本でなくとも彼の気が狂ったと思っただろう。男に犯され、抜け殻のように座り込んだ雲雀には凄みに似た色香があった。
 謝ることも、駆け寄って抱きしめることも出来ないでいる山本を、笑声を収めた雲雀がゆっくりと振り返った。予想に反して彼の眼に狂気は無かった。そこにあるのは無限に広がる虚無と優越感。赤く腫れた口元にひらめくのは艶やかなまでの微笑。
 事態が理解できず、混乱する山本に雲雀は言った。

「楽しかった」

 それは素直な感想のようでもあり、山本への問いかけのようでもあった。
 山本はようやく、雲雀の計略に嵌ったことを知った。








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