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 思えば当然のことだった。雲雀は山本ごときが敵う相手ではない。腕力でも、知略でも。
 バーに入った瞬間から、すでに勝負は決まっていたのだろう。いや、それどころか、山本が雲雀を探し始めた瞬間から、勝利は雲雀の手の中にあった。あとはいかにして自分好みの筋書きをたどらせるか、だ。
 そして愚かな山本は、文字通り雲雀の掌の中で踊らされた。長いことかけて雲雀によって染められた嗜好は、彼の望むままの行動を山本に取らせた。雲雀を殴り、犯すこと。
 山本と雲雀の戦闘能力の差は歴然だ。いくら油断していたとしても、雲雀がそうやすやすと殴られたりするはずがない。ましてや利き腕を取られ、背後から犯されるなど、あるはずがないのだ。ならばそれはすべて雲雀の許しの上にある。
 怒りに気を取られていた山本は、そんな簡単なこともわからなくなっていた。目先の雲雀の挑発に我を忘れ、警戒心を抱く暇もなかった。山本は雲雀の手に落ちた。
 以来、雲雀は山本の元へ戻ってきた。バーでの一件は、雲雀のお気に召したらしい。彼はそれを喜び、山本を褒めたたえた。

「君の怒気が身体に流れ込むみたいで、すごく興奮した」

 だからもう一度、と雲雀は笑う。それにどれだけ山本が苦しんでいるかを見透かしながら、彼は嬲るように山本にねだるのだ。
 理性を失い、本能に負けたことを山本は恥じた。後悔し、自己の脆弱さを悔やみ、苛立ちに耐えた。それを雲雀は嘲笑う。本能に従うことの何がいけないのかと。僕を愛しているのならもっともっと、本能をさらけ出せ、と。
 あの一件以来、山本は雲雀に従うことを余儀なくされた。いかに雲雀がそれを楽しんでいたとしても、暴力を振るった事実に変わりはなく、自己嫌悪する限り、山本は雲雀の前に跪くしかない。山本の身勝手な行為で雲雀の身体は傷つき、回復には少なからぬ時間を要したのだから。
 山本を掌中にした雲雀の性癖は、ますますエスカレートしていった。山本が拒否できないのをいいことに、彼は気の向くままに山本を求めた。
 しかしそれは山本にとっても救いであった。山本にとって自分が強要した行為は万死に値するほどの罪業であった。いくら雲雀が口で楽しかったと言ったところで、にわかには信じがたい。雲雀の身体が負ったダメージを目の当たりにした山本は、更なる衝撃を受けた。腫れた頬、切れたくちびる、痣の浮いた額。腕にはきつく握られたせいでくっきりと手の痕がつき、肩の関節も腫れて熱を持った。無理に挿入された秘所は引きつれ、裂傷を負って血が滲んでいた。どれもすべて山本の暴力による結果だ。加害者である山本は打ちひしがれた。
 だが、雲雀は怒らなかった。

「それだけ君が僕を愛しているということだから」

 嬉しい、と告げる雲雀は慈悲深く微笑んだが、山本には信じがたい。
 しかし実際に求められ、くちづけを交わし、身体を重ねることを許されれば、雲雀の言葉が真実であることを理解できた。
 雲雀は山本を断罪しない。許し、更なる愛情を求めている。それは恐ろしい反面、抗いがたい誘惑で、山本は雲雀の愛情を今更捨てることはできなかった。
 何か思うところがあるのか、雲雀の要求は当初、山本に拒否反応を起こさせるほどではなかった。あるいは自己嫌悪を刺激しすぎて、藪を突いて蛇を出さないようにという狡猾な計算なのかもしれない。ともかく、雲雀の『願い』は未だその到達点が不明のまま、再度山本との生活が始まった。






 再開された生活における一番の変化は、絶対的な主導権を雲雀が握っているということだろう。それ以外に変わった点は何一つない。それだけ二人の生活が、雲雀の気まぐれの上に成り立っていたのだという証明に他ならない。
 初めのうちは困惑が先に立っていた山本も、いつしか二人の生活に慣れてしまった。雲雀の『願い』は確かにエスカレートしているものの、その進みは緩やかで、ときおり山本に対する配慮のようなものが窺えた。それが山本には嬉しかった。
 普段の雲雀は、例の一件などまるで無かったかのように、今までどおりに振舞った。何事も無かったかのように山本に甘え、ねだり、身体を重ね合わせる。慎重に山本の様子を窺い、彼を自分の嗜好に染め上げていく。その進行速度が緩やかであるため、山本には拒否できない。その程度ならと、雲雀の願いを許してしまう。山本の甘さを引き出すことに、誰よりも雲雀は長けていた。
 ある晩雲雀は言った。

「ねぇ、人を呼ぼうか」

 動物のように激しく抱き合った直後のことである。雲雀の愛情が確かに自分にあることを確認でき、満足する山本に悪戯っぽく笑いかけながら。
 あまりにも珍しい提案に、山本は目を瞬いた。群れ嫌いの雲雀がそんなことを言い出すとは、彼でなくとも想像できるわけがない。

「アンタにしては珍しいこと言うのな」

 率直に感想を述べた山本に、雲雀はわざとらしくくちびるを尖らせて見せた。彼は気分を害した振りをし、そのくせ山本の肩に顎を乗せて囁いた。

「人を呼んで、僕らのセックスを見せつけよう」

 内心でぎょっとしたものの、山本は表情を変えずに雲雀を見つめた。雲雀はどこか遠いところを見つめるような熱っぽい眼差しで言葉を紡ぐ。

「大勢に視姦されて、セックスするんだ。恥ずかしくて恥ずかしくて、たくさん達ってしまうだろうね」

 そのときの場面を思い浮かべているのか、雲雀の表情は陶然としている。彼は辱められると欲情するのだ。

「それとも、他の人間に道具で犯される僕を、君が眺めるのもいいね。君の言うままに僕を犯させて、楽しむんだ」

 どっちがいい、と雲雀は楽しげに山本に問いかけた。無邪気に笑いかけながら。
 正直どちらも山本はごめんだった。セックスを観賞されるのも、雲雀を誰かに触れさせるのも。そんなことは雲雀も百も承知だろう。辱められることが好きな雲雀は、辱めることも好きなのだ。マゾヒズムはその性癖が深ければ深いほど、同じだけのサディズムを内包している。二つはベクトルが違うだけの同じ劣情だ。
 問いかけられた山本は慌てることなく、雲雀を抱き寄せて時間を稼いだ。他意のない問いかけである。本気ではない。けれど、いつ本当になるかわからぬ問いかけでもある。故に山本は慎重に返答せねばならない。
 大人しく腕の中に収まった雲雀の耳元で、山本は囁くように言った。

「オレは独占欲が強いから、他人にアンタを見せるのも、触られるのもごめんだな」

 今のままがいい、と。模範的な返答に、雲雀は眉をひょいと上げた。山本からは見えないが、満更でもない様子である。

「そうだね」

 雲雀は忍び笑いを漏らした。

「秘密は、二人だけのほうが楽しいね」

 くすくすと笑う雲雀の声に、山本は自分の返答が失敗ではなかったことを悟り、胸を撫で下ろした。






 雲雀の性癖は完全にマゾヒズムへと移行していた。否、それは正確ではない。もともとあった性癖を、それまで巧妙に隠していたに過ぎない。最早その必要もないというだけのことだ。
 サディズムを求められる山本の苦労は大きなものだった。もともと彼は優しい気質の持ち主で、恋人にはできるだけ優しくしたいと願う人種だ。恋人には愛情と同じだけの尊敬を抱き、共に幸福であることを望む。
 しかしそれも相手が雲雀では望むべくもない。雲雀の願いは山本のそれとはかけ離れている。彼の『願い』の到達点は未だ不明だが、間違いなく雲雀は山本に辱められることを望んでいるのだから。
 それでも愛情深い山本は、雲雀が求めるならば自分にできる範囲で彼の望みをかなえてやりたいと思った。それが雲雀の罠だとしても、雲雀を思う気持ちに嘘はない。こうして山本は雲雀のわがままを許容する。暴力だけは今を持ってどうしても受け入れがたいが、それ以外ならばどうにかして雲雀を喜ばせてやりたいと思うのだ。
 ある休日、雲雀は山本におねだりをした。犬になりたい、と。

「…………いぬ?」

 前々から思考の飛躍した傾向の強い雲雀であったが、今回ほど意味不明な言動は初めてで、山本は鸚鵡返しに問いかけた。
 たまたま山本と休日が合ったのか、それとも無理矢理合わせたのか、三日間のオフを二人きりで過ごしたいと提案した雲雀は、困惑した様子の山本に嫣然と微笑みかけた。

「いぬ、だよ」

 どうやら文字通り『犬』という意味であるようだ。キッチンに立って二人分のコーヒーを作っていた山本は、まじまじと雲雀を見つめた。ソファにもたれた雲雀は、本気であるらしい。

「……アンタはどっちかってぇと、猫だと思うけど」

 ささやかな山本の反抗は、一笑に付された。

「それじゃあつまらないから、犬なんだよ」

 雲雀の提案した『犬』とは、彼にとって楽しい遊びの一種であるらしい。幼児がおままごとをするのと同じことだと雲雀は説明したが、それだけで済むはずがない。
 しかし山本は首を縦に振るしかなかった。彼に選択権はない。せめて少しでもまともな方向になるよう、修正を加えるだけ。
 こうして山本は雲雀の遊びに付き合うことになった。雲雀は犬として休日を過ごし、床に両手と膝をついて犬らしく振舞った。初めは本気で食事も床に置いた皿から、と考えていたようだが、掃除が大変だし熱い料理が作れないという山本の最もな主張がこのときは受け入れられた。更には全裸で過ごそうと画策していたらしい雲雀に、風邪を引かれてはたまったものではないと、シャツを一枚着させることにどうにか成功した。
 家の中を、シャツを一枚纏っただけの雲雀が、這いつくばって過ごすのはあまりにも倒錯した光景だった。人の言葉を喋るのさえやめた雲雀は、本気で犬を演じる気なのか、獣のようにして山本に甘えた。滑稽なようだが、山本にとってはまだマシな遊びである。
 血を見るまで噛み付いて欲しいと懇願されたわけでも、気絶するまで殴れと命じられたわけでもない。犬のまねをする雲雀を可愛がるように撫でてやるくらい、大した苦労ではなかった。
 だが何しろ相手は雲雀である。それだけで満足するわけがない。
 二日目、食後に眠くなった雲雀がソファの足元で丸くなって昼寝を始めると、いくら絨毯が敷いてあるとはいえ床で寝るのは辛かろうと、山本はクッションを頭に宛がってやった。そのときに気付いたのだが、長い時間床に這いつくばっていたせいで、雲雀の膝は赤くなり、擦り剥けていた。
 もともと他人の気配に敏感な雲雀は目を覚まし、山本は手当て用の消毒液を探して席を立った。
 薬箱を手に居間に戻った山本は、その場に立ち尽くした。唖然とする彼の前で、雲雀がクッションの上に跨って、腰を擦り付けていたのだ。
 獣じみた呼吸を繰り返しながら、雲雀は夢中で腰をクッションに擦り付けている。今、彼は犬であるために、自分の手を使うわけにはいかない。それは自慰だった。
 目眩を起こしそうな倒錯的な光景に、山本はフラフラとソファに腰を下ろした。彼はとても疲れていた。昨日一日大人しくしていたと思ったらこれだ。雲雀は山本の思惑など歯牙にもかけず、自慰を続けている。
 貧血に似た思考停止状態に陥って、山本はソファに背を預けた。もう考えるのが億劫だった。それに、雲雀は犬なのだ。犬が何をしようが、どうでもいいではないか。
 亡羊とした山本の視線が注がれるなかで、雲雀は荒い息をついて腰を使うのをやめた。クッションが柔らかすぎて、思うように快楽を得られないようだ。
 焦れた雲雀はクッションを乱暴に蹴り飛ばした。彼は不愉快そうに顔を顰めていたが、ふと自分を見つめる山本を見上げた。雲雀の黒い目に呆けたような山本の姿が映りこんでいる。今度は何だろう。クッションが役に立たなかったのなら、山本にねだるのだろうか。
 山本の予想は半分当たり、半分外れた。雲雀は含みのある微笑を浮かべると、這って山本の足元へやってきた。彼は膝立ちになって山本の片脚にすがり、その脛に腰を擦りつけ始めたのだ。

「………………!?」

 山本が制止する間も無く、雲雀は彼の脚に下腹部を擦りつけ、再び自慰を始めた。山本の硬い脛に、熱い雲雀の欲塊が擦り付けられる。はっはっはっとそれこそ犬のように荒い息をつきながら、雲雀は腰を使うのをやめなかった。
 段々と紅潮してゆく雲雀の顔を眺め、山本は最早そのはしたない行動を止めようとはしなかった。もうどうでもよかった。好きにすればいいのだ。
 脱力する山本の脚を使って自慰に耽っていた雲雀は、いつしか背をビクビクと震わせて絶頂に達した。

「は、ぁ…………」

 眉根を寄せ、射精の快楽に打ち震える雲雀は美しかった。その瞬間、彼の美貌はより引き立つのだと山本は思っている。誰よりも意志の強い瞳が快楽に蕩け、甘く柔らかなくちびるが吐息を零す。男を咥え込むことを喜びとする身体は敏感で、絶頂の快楽を余すところなく味わうのだ。
 快楽の果てに身体の力を奪われて、雲雀は山本の膝に縋るようにして上体をうつ伏せた。肩で息をする雲雀の髪を、無意識に山本は撫でてやる。その優しい手つきに、雲雀は陶然とした瞳を山本に向けた。

「……良かったか?」

 是非を問うことをやめた山本は、空虚だが優しく雲雀に問いかけた。雲雀は微笑を浮かべ、くぅんと咽喉を鳴らした。いささかわざとらしいその声が、彼の答えだった。






 結局、山本は犬の雲雀とセックスをした。
 山本の脚を使って自慰をした雲雀は、身体が落ち着きを取り戻すと、山本の下腹部に顔を寄せて、おしゃぶりを求めたのだ。今更拒絶する理由も無く、山本は雲雀の好きにさせてやった。
 雲雀は大喜びで山本のものを舐めしゃぶり、彼の精を飲み下した。雲雀は自分を犯してくれるそれが大好きなのだ。
 だがそのころには一度達した雲雀の欲塊が再び頭をもたげていた。
 媚びるような雲雀の視線に気付いた山本は、汚された足で雲雀の下腹部を探った。身を乗り出している雲雀の脚のあいだを探るなど簡単なことだ。ましてや本人がそれを求めているならば。
 無造作に足で刺激されて、雲雀は仔犬のような声を上げた。それから身体を離し、絨毯の上に這いつくばる。だから山本は彼の求めるままに、犬のように犯してやった。言葉も無く、いたわりも無く、ただ突き上げて、引きずり出す。雲雀はよがり声を上げ、興奮して獣の声を上げた。その声に山本も欲情した。
 雲雀は悦び、吐精した。疲労した身体を横たえ、呼吸に胸を波打たせる雲雀はきれいだった。薄く汗を帯びた肌は艶かしく、いつか山本がつけたくちびるの痕が雲雀の感じる部分を示すように浮かび上がっている。舌触りの滑らかな胸の飾りはぷっくりと立ち上がり、悪戯されるのを待ち望んでいるようだ。白い肌の腹部は雲雀が吐き出した精に濡れ、テラテラと光って淫らである。
 絨毯の上に横になり、雲雀は山本を見た。夢見るような、崇拝を含んだ視線は山本の欲情を煽った。
 疲れ切っても尚、艶笑を浮かべる雲雀は山本に手を伸ばした。山本もそれを拒絶せず、雲雀を抱きすくめる。くちづけを交わすと、雲雀はわんと鳴いて悪戯っぽく笑った。山本も笑い、再び顔を寄せてくちびるを合わせた。
 それから一日中、二人は抱き合った。莫迦みたいにただただ身体をつなげて、言葉も交わさずに。雲雀は喜び、山本を求めた。つなぎ合わせられる箇所を全てつなげて。
 溶け合うような快楽のあと、雲雀は言った。

「犬より人のほうがいいね」

 揶揄するような口調に山本は肩を竦めただけだった。








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