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 このまま終わるのかと思われた雲雀と山本の関係だったが、奇妙なことに、雲雀は山本との同居を解消しようとはしなかった。
 一体何を考えて雲雀がそうしているのかはわからないが、彼は山本のアパートに帰ってくる。初めはいつもの気まぐれであろうと思っていた山本は、ある程度気力を回復すると、雲雀との喧嘩を続行することに決めた。アパートに戻ってくるということは、少しは山本に対して未練があるということだろう。それならば話し合いの余地はある。
 態度を決めた山本は、雲雀を無視することにした。意思を無視されることの苦痛を教えてやりたかったからでもあるが、何より雲雀が山本を無視しているからだ。子供っぽい意地の張り合いのようだが、負けるわけにはいかなかった。
 しかしそれは返せば、山本が雲雀に対して未練があるということでもある。彼は雲雀を拒絶はしても、諦めることはできなかった。山本は雲雀を愛している。だからこその苦悩であり、拒絶だった。雲雀が少しでも山本の心情を理解してくれれば、それでいいとさえ思っていた。それを糸口に、歩み寄ることは不可能ではないから。
 甘い考えと他人は言うかもしれないが、それでも山本は構わなかった。雲雀を失うことは山本にとってあまりにも大きすぎる損失だ。彼を切り捨てることは出来ない。それでももし雲雀が山本を切り捨てるなら、それは仕方の無いことだ。
 一種の諦観を持って山本はこの喧嘩の継続を決めたのである。中途半端な決意ではない。もし雲雀が完全に愛想をつかし、アパートを出て行くのなら、山本は彼を諦める。雲雀は一度軽蔑した相手を再び受け入れるような人間ではない。それがどれほど自分に打撃を与える結果となっても、山本は雲雀の決断を受け入れる。あるいはこの喧嘩の末、決裂するしかなかったとしても、大人しく結果を受け入れようと自分に言い聞かせていた。これは初めから山本にとって分の悪い喧嘩なのである。あるいは、雲雀を諦めるための儀式だった。
 自分への誓約を決めた山本は、雲雀を無視し続けた。そのくせ、雲雀がアパートに戻ってくると、胸を撫で下ろすのだ。今日も帰ってきた、と。
 分の悪い一方的な喧嘩に身を投じる山本の心境を知ってか知らずか、雲雀は彼を無視し続けた。その徹底振りはいっそ見上げたもので、彼の視線が山本に止まることは一切無かった。まるで山本を壁紙か家具の一つとでも思っているかのような無関心ぶりだった。彼の視線が自分の上を通り過ぎるとき、山本の自尊心は傷ついた。けれどそれ以上に山本を傷付ける事態が、すぐにも発覚した。
 ときおり雲雀は帰ってこなかった。ついに出て行ったのかと不安な夜を過ごした山本のもとへ雲雀が戻ってきたとき、彼は他の男のにおいを纏っていた。
 そのことに気付いたとき、初め山本は自分の勘違いだと思った。他人のにおいがすぐにわかるほど自分は敏感だったろうかと自問し、無用な勘繰りをやめた。だがそれはすぐに確信に変わる。
 雲雀は度々他人の匂いをつけて帰宅した。山本を完全に無視している雲雀は、その存在を無かったことにしている。故に、山本がバスルームを使っていようが、平気でシャワーを浴びに入ってくるのだ。
 他人のために自分の行動を曲げるような男ではない。知ってはいたものの、山本は面食らった。幸い彼はバスタブに浸かっており、雲雀はガラスの飾り戸で仕切られたシャワーブースにだけ用があった。
 久々に見る雲雀の裸体に、山本は目を見張った。彼の身体は傷ついていた。擦過傷、打撲傷、鬱血、そしてくちびるの痕。どれも山本がつけたものではない。怪我はどれも手加減を欠いた酷いもので、手足に残る擦過傷と痣は、縛られもがいたために出来たものだろう。首には手のあとがくっきりとついている。けれど雲雀はそれを喜んで受け入れ、楽しんだのだろう。山本が拒否したことを、雲雀は躊躇い無く他人に求めた。この夜の大胆な行動は、それを山本に見せ付けるためか。
 知らず知らずのうちに拳を硬く握り締めていた山本は、我に返ると急いでバスルームをあとにした。湧き起こる怒りや絶望が身体の内側を黒く塗りつぶすようだった。
 しかし山本は激情を押し込めると、大量の酒を煽ってベッドに潜り込んでしまった。雲雀の思い通りになるわけにはいかなかった。彼は決めたのだ。話し合い以外で結論が出るとしたら、雲雀が山本を見限るときだけだと。その決意が固いことを、雲雀は思い知るべきだった。






 無言の戦いは長く続いた。雲雀は浮気を繰り返し、山本はそれを無視し続けた。もしかしたらもう、雲雀の行動は浮気とは言い難いかもしれない。彼の心が山本にあるとは思えない。二人はすでに恋人とは呼べない関係に陥っている。
 それでも雲雀が山本の元へ帰ってき、山本の心が雲雀にある以上、浮気と呼ぶべきだろう。ましてや彼の行動は、山本の自尊心を傷つけることを目的としているようであり、ひいては山本の気を引きたいがためと思えるからだ。だからこそ山本は耐える。
 雲雀はいくら浮気を繰り返したところで、山本の気を引くことはできないと思い知ったことだろう。計算高い彼が、そんなことに気付かぬはずはないのだから。
 事実雲雀は理解していた。故に彼は更なる手を打った。山本を絶望させ、虚無の淵へ叩き落す手段を。
 久々に外で美味い酒を楽しんだ山本は、遅くなって帰宅した。このころには山本は、長く家にいることがなくなっていた。一人でいるアパートは閑散として寂しく、雲雀が二度と戻らぬのではと心の隅で怯えるのは負担だった。かといって、他の男の匂いをつけた雲雀が傍にいても、苛立ち、怒りが増すばかり。どちらにせよ、精神衛生上よいはずがない。
 芳醇な酒で心の鬱屈を幾ばくか晴らした山本は、自宅に帰りつくとそっと玄関へと滑り込んだ。雲雀が帰宅しているならば、すでに眠っているだろうから。
 どこまでも愛情深い山本は、その誠実さが裏切られるとも知らずに部屋へと踏み込んだ。
 ジャケットを脱いでソファに無造作に放り、山本は咽喉の渇きを覚えてキッチンで水を飲む。酒に焼かれた胸が冷やされて心地よかった。
 山本は寝室へと向かった。アルコールの回った頭は浮ついていて、すぐにでもベッドへ倒れこんで眠ってしまいたかった。
 寝室の扉へ手を伸ばしたとき、嫌な予感が山本の脳裏を過ぎった。何が彼にそんな負の感情を抱かせたのか、検証している暇は無かった。耳元で鳴り響く心臓が視界をも脈動させる。頭の隅で誰かが扉を開けるなと警告しているが、身体は山本の意思を離れてノブに手をかけていた。
 寝室のなかには雲雀がいた。そして見知らぬ男も。二人はベッドの上で絡み合い、雲雀は楽しげに嬌声を上げていた。脚を開いて男を咥え込む雲雀の姿は滑稽で、動物のようだと山本は思った。
 そのあとのことはよく覚えていない。






 気がついたとき、山本は床の上に座り込んでいた。頭にうるさく鳴り響くのが嗚咽で、腫れ上がった拳に落ちるのが涙だと気付くのに随分と時間がかかった。
 山本は顔を上げた。目の前には雲雀がいる。同じように床に座り込み、ベッドに背をもたれている。彼の顔は腫れ上がり、くちびるは切れ、鼻からも出血していた。
 大丈夫か、と問いかけようとして山本は嗚咽の塊を吐き出した。声が出ない。山本の鳴き声の響く部屋に、彼と雲雀以外に気配は無い。雲雀を抱いていた男はどうしたのだろうか。出て行ったのだろうか。
 急激に現実が重くのしかかってきて、山本はあふれ出る涙を拭った。脳裏に閃くのは断片的な記憶だ。
 ベッドで交じり合う雲雀と見知らぬ男。二人を引き剥がす手。同じ手が男を殴りつけ、雲雀をもその手にかける。皮膚が切れて甲に血の滲んだ手は、雲雀の咽喉を締め上げる。細い首の弾力が残るのは、山本の手。あれほど拒否した暴力を振るい、明確な殺意を持って雲雀の首を締め上げたのは、山本の手だった。
 どうして、と呟かれた言葉は、雲雀に対してなのか、それとも自分に向けられたものなのか、山本にもわからなかった。
 山本はただ、許せなかったのだ。どうしても許せなかった。
 雲雀の浮気が、ではない。そんなもの怒る気ならば当の昔に怒っている。怒りや苛立ちが無かったわけではないが、彼を突き動かしたのはそれではない。
 山本が許せなかったのは、この寝室に男を連れ込んだということだ。あれほど愛し合ったベッドで、雲雀は見知らぬ男と交わっていた。それは山本への痛烈な批判であり、誠実な山本の愛情への冒涜だった。何より、雲雀の愛情など本当はどこにも存在しないのだと思い知らされるようで、山本は許せなかった。
 項垂れたまま、山本は流れる涙を拭おうともしなかった。もう沢山だった。これ以上、傷付けられるのも侮辱されるのも、沢山だった。雲雀に山本は必要ない。山本にも、雲雀など必要ない。今こそそう教えてやるべきだ。卑劣な手段で山本を侮辱するような雲雀は、切り捨ててやる。
 体内に言葉が渦巻きながらも、山本は流れ落ちる涙に口を開くことが出来なかった。それほど彼の悲哀は深く、苦悩は大きかった。
 それまで魂が抜けたかのように茫洋とした表情で座り込んでいた雲雀が、ふいに身を起こした。軋む身体を動かして彼は膝で歩を進めると、山本の傍へやって来た。
 長い腕を伸ばし、雲雀は山本の頭部をそっと胸に抱きこんだ。血の飛び散った胸に抱き込まれ、山本は身を硬くする。
 あやすように山本の髪を梳いてやりながら、陶然とした様子で雲雀は問いかけた。

「……僕を愛しているの」

 舌足らずな問いかけは、傲慢にも程がある内容だった。
 自惚れるのもいい加減にしろ。
 もう沢山だ。
 出て行け。
 今すぐ、目の前から消えろ。
 山本はそう叫んでいた。心の中で。叫んでいた。
 けれど言葉は口をついて出ず、実際には山本は腕を伸ばし、雲雀の身体を抱きしめていた。
 胸に縋って泣く山本に、雲雀は夢見るような微笑を向けた。山本の髪に頬を埋め、雲雀はそっと囁いた。

「うれしい」

 その瞬間、山本は雲雀の前に屈服した。








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