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サッカーとアモーレの国イタリアで、いくら旧知とは言えさして仲が良かったわけでもない人物に、
「一緒に夕食でも食べないか?」
などとナンパする日がこようとは、善良と自分を信じて疑わない山本は、ゾウリムシの繊毛の先ほども考えたことは無かった。しかもそのナンパの相手が男だったり、あまつさえわずかな沈黙のあとあっさり承諾されてしまったものだから彼の後悔は激しかった。
そんなわけでうっかり夕食のお誘いに成功してしまった山本が現在いる場所は、高級住宅街にある雲雀の自宅の広いキッチンだった。
一体何が悲しくて、仲が良かったどころかむしろ敵か味方かさえ判じ難いような男の家で、手料理を作らねばならないのだろうか。全ては自業自得だが、思わず漏れる山本の溜息は重い。
言わずもがなだが、今まで山本がその日本食専門の食料品店を避けていたのは、オーナーが雲雀であることを知っていたからだ。一体どうしてなのかわからないが、山本がツナたちと渡欧したころには、すでに雲雀はこの地に店を構えていた。いつの間にか貿易商になっていたらしい。彼は山本よりも年上であるから、決して不自然ではないが、不思議であることには変わりはなかった。
一体雲雀がどうしてイタリアにいるのか。それについて以前ツナたちと話したことがある。
「オレ、てっきり留学してるのかと思ってた」
「あいつがですか?」
「そっか、大学生なのか」
「でもさ、こないだハルが『イタリアに留学するには短大か四大を卒業してからじゃないといけません。だからハルもがんばってます!』とか言っててさ」
「語学留学なんじゃねーの? ほら、外国人学校とか、短期のやつ」
「バカ、その割には学校行ってる節なんかねえじゃねーか」
「それがどうも貿易商やってるみたいだよ。こないだ商談のアポ取ってきた」
「げっ、あんな野郎、叩き出しちまいましょうよ十代目!」
「いやぁ、でもオレたちが来る前から取引があったみたいだからさ」
「へー、あのヒバリがねぇ……」
などと額を付き合わせたのはもう二年も前の話。日本で高校生をしていた時代から、どうやらその筋の方々と懇意にしているらしいとか暗黒面の噂の耐えない男だったが、いつの間にかイタリアに渡っていたらしい。いや、正確には世界中を股にかけているらしいが。
その雲雀は現在書斎でお仕事中だ。料理が出来たら呼ぶことになっている。何様のつもりだとは思うものの、だからと言って横でずっと見守られるのも嫌だと思う。
茶碗蒸しの用意を真っ先に済ませると、つぎは雲雀のリクエストである雑煮に山本は取り掛かった。何故そんなことになったかと言うと、突然ナンパされた雲雀は何故か山本を上から下までじっくり眺め、腕を組んで顎に手をやると、夕食のメニューを質問した。まさか茶碗蒸しをメインに据えるわけにはいかない。そこで山本はとっさに雲雀にリクエストを訊いたのである。その返答が雑煮だった。
そうしてうっかりナンパが成功してしまったあと、山本に自宅の地図を描いてやりながら、雲雀は店から好きな材料を持って行けと指示を出した。おかげでもちにももち焼き網にも困らないが、山本の困惑は深かった。
山本が雲雀をナンパしたのは、とっさの思い付きだった。雲雀と眼が合った瞬間、その奇怪な状況を脱するために何か口を開かねばと思い、思わず口をついて出たのが夕食のお誘いだったのだ。本来ならば無言でやり過ごす相手だが、山本の脳髄を侵していたホームシックがこれまた奇矯な行動を彼に取らせてしまった。
山本の内部では一瞬にして天秤が『畏怖と警戒と即時退却』よりも『日本人と日本語と日本食』に傾き、とっさにナンパへと走らせた。まさか雲雀が承諾するとも思わなかったという理由も無くはない。予想通りに雲雀が鼻で嘲笑ってでもくれれば、山本は頭でもかきながらじゃーねー、ばいばーいとその場をやり過ごすことが出来たはずなのに。
しかしまぁ、これも一つの転機と考えれば悪くはない。雲雀は日本人で中学の先輩で、共通の話題には事欠かない上にマフィアの事情にも精通している。精通しているどころか、深い関わりを持っている。それにここ最近では彼の影響力は政界にも及び、ヨーロッパの裏社会でもかなり名を馳せているらしい。ボンゴレファミリーとも一応は協力関係にあり、雲雀と友好を深めておくことは決してマイナスにはならないだろう。
のんきな山本はにんじんに飾り包丁を入れながらながら、いつの間にか取り戻した楽天さで気にしないことに決めた。雲雀とは数々の因縁もあるが、それは遠い日本での昔話だ。イタリアへ来て最後に雲雀に会ったのは、ツナが十代目と正式に認められた日で、それも顔を見た、という程度の話である。
一年ぶりくらいか。包丁を扱う手を止めぬまま山本は記憶を探るように目を眇めた。雲雀は定期的にボンゴレを相手に商売をしているらしいが、山本が直接顔を会わせたことは今まで無かった。それどころか、まともに口をきくのも何年ぶりだろう。
にんじんを切り終えた山本は居間の向こうの書斎を振り返って大声を出した。
「ヒバリー、もち何個食う?」
ややあって扉が開き、
「みっつ」
声だけ響いて元通り扉は閉まった。が、何しろ日本語に飢えていた山本は大変感動してしまった。もちなんこくうーみっつー、と頭の中でリフレインしながら菜箸を握り締める山本の姿をもし雲雀が見ていたら、帰れと即刻追い出されたかもしれない。もちなんこくうーみっつー。嗚呼、素晴らしき日本語の世界!
雲雀に遭遇できたことを山本が神に感謝したのは、おそらくあとにも先にもこの日だけであったろう。
ダイニングテーブルに並べられたのは、関東風の雑煮とだし巻き、キンピラゴボウ、そして冷酒だった。茶碗蒸しはもう少し蒸すのに時間がかかる。これで栗きんとんでも揃えば気分は正月そのものだが、残念ながらここはイタリアで季節は秋の終わりだった。
「……美味いか?」
「…………まあね」
黙々と雑煮を食べる雲雀に問いかけると、もちを飲み込む間をおいてまともな返答が返ってきた。別に、と答えられなくて本当に良かった。そう胸を撫で下ろした山本は、自分も雑煮を美味そうにすすった。何だ、思ってたよりずっとまともなやつじゃないか。覚悟していたほどの感情の齟齬はみられず、ごく普通の会話が成立したことに山本はいらぬ緊張を解いた。しかし、残念ながら順調なのはここまでだった。
日本にいたときからその片鱗はあったのだが、雲雀が誰かとまともな会話を成立させている場面を山本は知らない。ローマの暴君、皇帝ネロだってもう少しまともな物言いをするだろうというほど雲雀は大上段で、相対する人間を無条件で畏怖させる雰囲気の持ち主だった。
そしてこの日もご他聞には漏れず、雲雀は食事以外にほとんど口を開こうとはしなかった。こうなってくると気まずいのは山本だ。雲雀の家のダイニングで、当の雲雀と黙って飯を食っている。幼いころから実家の寿司屋の手伝いをしていた山本は、客の中には沈黙を愛する部類の人間がいることを知っていた。どうやら雲雀もそうであるらしい。普段も饒舌なのかそうでないのかよくわからないやつであるから、無理して口をきくよりも、大人しく食事に専念した方がよさそうだ。
実のところ日本語の会話を期待していた山本は少なからず落胆したが、仕方が無いと諦めた。かつては群れることを侮蔑する姿勢を隠そうともしなかった雲雀だが、仕事をする上ではそれはマイナスになると判断したのか、これでも少しは丸くなったらしい。おかげで一人の夕食をせずに済み、尚且つ美味い日本酒にありつけるのだから感謝しなくては。
そう自分に言い聞かせた山本の順応は早かった。茶碗蒸しどころか、デザートのゆず蜜ゼリーまで平らげて、彼はすっかり寛いだ。食後には一杯の緑茶と相場は決まっている。残念ながら湯飲みが無かったのでティーカップにお茶を注いで戻ると、今まで全く表情を変えずにいた雲雀がようやく山本を見据えた。
「で、何で僕なわけ?」
年季を経た飴色の椅子の背もたれに寄りかかり、腕を組んで真っ直ぐ山本を見上げる雲雀。切れ長の大きな目は、視線を逸らすことを許さない。
「えーと、日本食が食べたかったのと、日本語が聞きたかったのと……」
雲雀の前にティーカップを置きながら、どこか落ち着かない様子で山本は答えた。それこそ雲雀の嫌いな『群れる』行為だろう。場合によっては即刻逃げ出さねばならないかもしれない。椅子を引いてさりげなく逃げ道を確保する山本に、しかし雲雀はふーんとだけ呟くと、緑茶の入ったティーカップに手を伸ばした。
どうやら攻撃は免れたらしい。食材は雲雀持ちでも、一応夕食の礼はわきまえているのだろうか。おっかなびっくり緑茶をすする山本は、白い湯気越しに雲雀を観察する。世界中を渡り歩き、独自の貿易ルートを開発した青年実業家。それがこの男の肩書きだが、こうして眺める限りでは昔と何一つ変わらないように見える。例えば彼が裏で扱っている商品が、黒光りする素敵な水鉄砲とか、ホットケーキに最適な白い粉であったとしても。
山本が想像するに、雲雀が貿易商として成功したのには、彼の才幹だの手腕だのの他に、この容姿も一役買っているのではないだろうか。山本も他人のことを言えたくちではないが、アジア人特有のいつまでたっても幼いとさえ思える若さ。にっこり微笑んでいればとても悪事を働く人間には見えず、いかにも善良そうで与し易いと思わせる容貌。事実雲雀は、イタリア人などから見れば、まだまだ可愛い少年に見えることだろう。彼よりずっと背も高く身体つきも逞しい山本でさえがバンビーノ お子様とからかわれてしまうのだから。
オレがお子様ならこいつは何だ。雲雀なだけに小鳥だろうか。微妙に納得のいかない自分の想像に山本が内心で小首をかしげたとき、ティーカップをソーサーに戻した雲雀がふいに立ち上がった。思わず身構える山本を他所に、彼は広いダイニングを横切って居間へと向かう。後姿から察するに何かを探しているようだ。
どうしたのだろうと一足遅れて山本が居間へ向かうと、テレビの掛かった壁にはめ込まれている棚から、雲雀は何かのケースを引っ張り出した。
「君にあげよう」
偉そうに言って雲雀が差し出したのは一枚のDVDだった。胸元に突きつけられて思わず受け取ってしまった山本は、慌ててケースを見つめた。
「えっと、こ、ここんてい……志ん朝?」
それは日本の名落語家、古今亭志ん朝のDVDだった。いくら山本が現代っ子で落語を聞いたことが無かったとしても、日本が誇る名人の名前くらいは知っている。一体何故こんなものを雲雀が持っているのか激しく疑問ではあったが、そんなことよりも今の彼にとっては、手軽に楽しめる日本語の、それも名人芸がつまったDVDは、薔薇色に光り輝いて見えたのだった。
「おおっ、すげー! 悪いな、もらっちゃって」
思いがけないことに大喜びの山本を見て、何を思ったのか雲雀は小首をかしげた。彼の眼は山本の様子を上から下までじっくり観察していたが、その雲雀が急に背後を振り返った。
どこかで電子音が鳴っている。電話か、と山本が気付いたときには、雲雀は踵を返していた。書斎に向かうところを見ると、携帯電話か。さては仕事だろうか。
雲雀が書斎に消えるのを見送ると、山本はいそいそとDVDを自分のバッグに仕舞いこんだ。まさかここで雲雀と仲良く並んで鑑賞というわけにはいくまい。ならば早いところ洗い物を終えて、自宅でゆっくり堪能と決め込むべし。
さっそくキッチンに立った山本は、後片付けを始めた。食器は軽く流し、備え付けの食器洗浄機に突っ込むだけ。その便利さに感動し、日本にいる父親に是非店にも導入するように進めたのはもう大分前の話だ。
持参した蒸し器やだし巻き用の四角いフライパンを洗い、水気をふき取っておく。問題は残りの食材と、食料品店から持ち出した調理器具だった。ようするにもち焼き網なのだが、これは置いていったほうがいいのだろうか。雲雀が自らもちを焼くとは思えないが、勝手に持って帰るのも憚られる。まずいらないと言うだろが、一応確認を取っておくべきか。
片付けを半分終えた段階で山本は書斎に向かったが、ノックして扉を開けると、雲雀はまだ電話中だった。一瞬こちらに視線を寄越した雲雀に、悪い、と片手を顔の前に立てる。仕事を邪魔してはまずいのですぐに扉を閉めると、山本は腕を組んだ。まぁ、そのうち終わるだろうから、少し待つか。
少しくらい時間がたったところで、DVDの鮮度が落ちるわけでなし。そう結論付けた山本はキッチンにとって返した。だが、彼の行動を阻むものがこの家にはあまりにも多かった。ふと思い立って居間を見回すと、そこにはあるわあるわ、日本を思い起こさせる物品の数々が。
日本語で題名の書かれたCD、DVD。日本語の雑誌に日本語の本。アンティークというほどではないが、品があって落ち着きを持った家具の合間合間には、日本の電化製品の数々が。思わず山本がうわぁと感嘆の声を上げてしまったのも無理はない。
吸い寄せられるように本棚に近付くと、山本は目の前にあった雑誌を引っ張り出した。ナショナルジオグラフィックの日本語版。恐らく雲雀は英語もできるだろうに、何でわざわざ日本語版がここにあるのかわからないが、久々に見る日本語の羅列に山本は感動した。それ以上に彼が喜んだのは、スポーツ雑誌があったことだろう。大半がサッカーに関することであったが、後半部分には野球の記事もちゃんとあった。それを山本が貪り読んでしまったことを、誰が責められるだろうか。
毎日のようにネットで日本のペナントレースを追ってはいたが、こうして本で見るとまた感慨が違う。もう二ヶ月も前の雑誌だが、山本はついソファに腰を落ち着けてじっくりと雑誌を読み始めたのだった。
日本にいたころの山本の基本飲料は水と牛乳だった。それ以外ではスポーツ飲料。実家が寿司屋であるだけに酒は何種類も常備されていたが、野球小僧の山本は身体の発育を停滞させる恐れのあるアルコールを摂取することを絶対にしなかった。
そんなわけでアルコールに耐性の無かった山本は、イタリアに住み始めた当初、全く酒が飲めなかった。しかもイタリアは水と同じような感覚でワインを消費する国だ。北部の大都市ヴェネツィアに至っては、車を運転することが無いために昼間から大っぴらにワインを飲むのが当たり前だったりするほどに。
負けん気の強い山本は、努力してある程度飲めるようになった。それに二年もイタリアで生活していれば、嫌でもアルコールに強くなるだろう。最近では酒を美味いと思えるようになったし、酔っ払って眠りこけてしまい、獄寺にたたき起こされることも無くなった。だから彼は失念していたのである。例えば彼が普段飲んでいるワインがさしてアルコール度数が高くないことや、雲雀の店で扱っている飲みくちの爽やかな日本酒が、存外強い酒であることを。
「ん…………」
誰かが肩を掴んで身体を仰向かせた拍子に、山本はわずかに覚醒した。ああ、獄寺が怒っている。寝るなら床じゃなくてベッドへ行け、と怒鳴るのだろう。それでも半分以上夢の中であった山本は、鼻を鳴らしただけで動こうとはしなかった。ああ、シャツのボタンを外してくれるのか。ベルトもくつろげてくれた。おかげで大分楽になった……。
夢見心地でそんなことを考えていた山本だったが、いつまでも怒鳴らない誰かが、前をくつろげたズボンの中に手を突っ込んできたので、流石に驚いて目を覚ました。
「うわっ!?」
慌てて飛び起きると、思いがけず間近に顔を寄せていた雲雀と眼が合った。思わず言葉を失って身体を竦める山本。蛇に睨まれた蛙とでも言うのか、身じろぐことさえ恐ろしい。が、意外にも雲雀のほうから視線を外してきた。興味が無いとでも言うように、彼は自分の手元を見下ろす。よかった、ああ驚いた。
一瞬胸を撫で下ろした山本であったが、乾いた手が下着の中に入り込んできたので、安堵の息は簡単に吹っ飛んだ。
「ち、ちょ、ちょっと待てっ!」
言うなり雲雀の腕を掴むが、時すでに遅し。一体何を考えているのかさっぱりわからないが、雲雀はすでに山本自身を掌中に納めていたのだ。これではどうすることも出来ない。相手はあの雲雀だ、無理矢理腕を引き剥がそうものなら、山本は一生結婚できない身体にされてしまうだろう。何て恐ろしい!
最早どうしたらいいか、何を言ったらいいかさえわからず、ただ口を開閉させる山本に、いかにも面倒くさそうに雲雀が口を開いた。
「黙ってないと、咬み殺すよ」
どこからですかっ!?
恐るべき発言にパニックに陥ってしまった山本は言い返すこともままならず、それどころか、雲雀が空いている方の手で肩を突くと、あっさりとソファに倒れこんでしまった。ほとんど金縛り状態である。
それをいいことに雲雀は山本の身ぐるみを半分剥いでしまった。彼の手つきは無造作で躊躇が無く、動物の世話をしているようだと現実逃避に陥った山本は思った。
ふと、指が蠢いた。
心の中でひいっと悲鳴を上げる山本。今まで彼の急所を握りこんでいた手から力が抜け、かわりにゆるゆるとなで上げる。緩急をつけた手の動きは驚くほどに気持ちがいい。乾いた指先は冷たく、山本の熱を奪う。先ほどとは打って変わった優しい愛撫。そう、これは愛撫だ。
こうなってくると山本は混乱した。てっきり何か気に触ることをしてしまい、半殺しにでもされるのだと思っていたのに。雲雀の考えることはさっぱり理解できず、しかし男の悲しい性で身体の反応は著しい。雲雀の指は器用でよく動き、そして躊躇いが無い。多分、慣れているのだ。
段々熱くなってきた自分の身体に激しく動揺しつつも、制止の声を上げていいのかさえわからない。困惑の度を過ぎた山本は段々自分が情けなくなってきた。こんな状況でも勃ってしまう自分が恨めしい。それもこれも、全てはやたらに上手い雲雀が悪いのだ!
涙目になりつつある山本の下肢で、カーペットの上にぺたりと座り込んでいた雲雀の手が止まった。
「…………へえ」
何事かと思えば、突然呟かれる言葉。雲雀はすっかり硬くなった山本自身を見てそう呟いたのだ。それが感心の声なのか、それとも落胆の声なのか。確かめる勇気は山本には無かった。身体を起こして表情を確かめることもできない。もし後者だったとしたら、ささやかな山本のプライドは粉砕されてしまう。
が、結局すぐに飛び起きることとなった。突然、何かねっとりとした温かいものが自身に絡みついたからだ。
「うわわっ!?」
今度こそ悲鳴を上げて飛び起きれば、山本は自分の下肢に顔を埋めた雲雀を見つけた。彼は山本の動揺などさして気にした様子も無く、当たり前のように目の前の熱塊を舐め上げる。下生えを掻き分けるように手を添えて。
まさかそこまでされるとは夢にも思っていなかった山本は一人で大騒ぎだ。よもや食いちぎられるのではと慄けば、熱い舌先でいやらしく舐め上げられる。しかも何が一番困ったかといえば、これがまた上手いのである。それはもう、素晴らしく。
あんたの舌はヴェルベットででも出来てんのかっ!?
山本の内心の絶叫は、彼の心理状態を如実に表していた。
日本にいたときから山本は決してもてないわけではなかった。人望が厚く、運動神経がよく、気さくでしかも整った顔立ちをしているから、放っておいても女のほうから寄ってきた。ましてや野球の名門高校でエースで四番だった男である。他校の女生徒たちもが彼に熱い視線を送ってやまなかった。
イタリアでは童顔とは言われまくったものの、やはり女に不自由したことは無い。プロのお姉さんに遊んでもらったことだってある。だからそれなりに情事には経験も自信もあった。しかし、そのどれよりも誰よりも、雲雀のほうが確実に上手い。それはもう、比べるべくも無いほど本当に。
「ん……ふぅ……」
雲雀が甘い声を漏らす。彼がくちびるを離すと、唾液と体液の入り混じったものが糸を引いた。瞬きも忘れて思わず見入る山本。淫らなものをいやらしい仕草で舐め取る舌が赤く、精に濡れたくちびるから目が離せない。雲雀のくちびるは下のくちびるのほうがふっくらしている。ツンと上向いていて、キスをしたら美味そうだと山本は思った。
「…………ねぇ」
思わず見蕩れていた山本は我に返った。床に座った雲雀がいつの間にかこちらを見ていた。くちびるにばかり気を取られていて気付かなかったのだ。
どう返事をしたものかわからない山本の前で雲雀が立ち上がる。手の甲で無造作に口元を拭い、山本を見下ろす。雲雀が首をかしげるので、つられて山本も同じように首をかしげた。かなり間抜けな絵面である。
このときも先に視線を逸らしたのは雲雀だった。それなのに気後れを感じるのは山本なのだから不思議なものである。途中で放り出されて恨めしいなどと、少しでも思ってしまったせいだろうか。もしかしたらほとんど強姦魔同然の雲雀が、呆れるほど堂々としているせいかもしれない。
目を逸らした雲雀はまたもや山本を驚かせる行動に出た。彼はベルトを解くと、きっぷよくズボンを脱ぎ始めたのだ。山本がギョッとしていることなど歯牙にもかけない。下着までさっさと脱ぐと、ダークグレーのシャツからは眩しいほどに白い脚が伸びていた。
脚線美とは言いがたいが、すらりと伸びたその脚は充分に魅力的で、ついつい視線が固定されてしまう。そう言えばこんな美味しそうなあんよに最後に触ったのは、もう一ヶ月も前のことだ。思わず生唾を飲み込んだ山本は、かなり情けない事情に自分で納得してしまった。なるほどそれでは雲雀の脚にだって惑わされる。
後ろを向いた雲雀が屈み、上がったシャツの裾をついつい興奮して眺めた山本だが、一瞬あとには激しい自己嫌悪に駆られていた。あれは男の脚なのに、シャツが捲れたって見られるものなんか自分と同じなのにっ!
そこでふと山本は、今更ある疑問にぶち当たった。はて、何故に雲雀は中途半端に服を脱ぐのだろうか。山本は前を肌蹴られ下着をズリ下げられた状態で、雲雀は気前よくズボンを脱ぎ去っている。これはもしかしたら……?
頭の中である種の情報を目まぐるしく検索する山本を、何やら拾い上げた雲雀が振り返った。眼が合うと、彼は顎で山本にあっちを向いていろと命じる。雲雀が手にしているのはローションか。それはつまり、寝起きの彼女の顔をまじまじ眺めてはならないのと同レベルのエチケットだ。
素直に顔を背けた山本だが、この時点で完全に雲雀にいいように扱われている自分に、疑問を感じる余裕は無かった。むしろこのあと雲雀がするであろう行為に、期待と好奇心を抱いてすらいたのだから、所詮はただの男である。
そして待つこと一分。ソファが軋んで山本は顔を前に向けた。素肌の眩しい脚が広いソファに上がり、雲雀が膝をつく。寝転んだ山本の腰をまたぐようにした彼に、いい加減諦めの境地に達していた山本は手を貸した。ここまで来たら最後まで付き合うしかない。むしろ、このまま放り出されてなるものか。
山本の固い腹部に手をついた雲雀が腰を落とす。強い圧迫感に襲われ、山本は息を詰めて呟いた。
「お、わっ……」
できるだけ静かに深呼吸して耐える。凄い。何がって、とにかく凄い。
思わず山本は雲雀の腰を掴んでいた。女のように細く柔らかくはない。むしろ薄くて硬い感じだ。筋の張った太腿を撫でてみたいが、今はそれどころではなかった。
ゆっくりと、最後まで山本を飲み込んだ雲雀だが、相変わらず表情に変化は無かった。仮面でもつけているのかと思うほど、彼は眉一つ動かさない。馴染むのを待っているのか微動だにしないが、彼の胸が先ほどより大きく上下しているのに山本は気がついた。
呼吸を整えているのか、それとも感じているのか。……できれば後者であって欲しいと山本は願った。
雲雀が呼吸を繰り返すたびに締め付けがややきつくなり、山本は呻いた。初めての経験に彼はすでに一杯一杯なのだ。はっきり言って、ものすごく、いい。まだ動いてもいない段階でこれでは、先が思いやられる。
いっそ雲雀を押し倒して、裸に剥いてしまいたい衝動に山本は駆られた。それであれやこれやして、腹の立つほど変化の無い無表情を覆させてやる。だがしかし、裸に剥いたところで雲雀に胸は無い。どころか、余計なものがついている。現時点ではシャツに隠れて見えないが、それを目の当たりにして萎える可能性は無いだろうか。そんなことをしたら、それこそ撲殺された上にミンチにされて、地中海の魚の餌にされてしまうのではないか。あまつさえ、『不能』の烙印を押され、山本武の名は永遠に笑いものにされてしまう。それだけは絶対に嫌だ。
いらぬ妄想で無駄な決意を山本が固めたところで、雲雀には何の影響も無い。傍若無人を絵に描いたような男は、山本の腰に跨ったままゆっくりと動き始めた。絡みつくような圧迫は無い。だが、強く締め付ける部分が上下し、搾り出すように快楽を刻み込む。背筋が粟立つほどの快感に、山本はソファに爪を立てた。指が折れるのではないかと思えるほどの力だが、当の本人は必死すぎて気付かなかった。
二人分の体重に不平を鳴らすようにソファが軋む。雲雀が腰を押し付け、踊るように伸び上がる。腰を揺すり、思い出したように山本の胸にくちづけた。その髪を指で梳いてやる……ような余裕は山本には無かった。
最早視界の隅で火花が明滅し、可笑しくもないのに口元が笑顔に歪む。一生懸命気を逸らそうとするが、それを許してくれないほど雲雀の身体は素晴らしかった。そう、余裕があれば『素晴らしい』と形容して心から賞賛してやりたいほどのものであったが、今の山本にとっては『危険物』と言ったほうが正しい。
初めて経験する種類の快感に呑まれて、絶叫したいような心境だ。それを最後に残ったプライドで耐えているのに、雲雀がまた煽る様に首筋を舐めたり、耳朶を噛んだりするのだからたまらない。実際煽っているのだから仕方ないが、最早山本は何も考えられなかったし、何も見てはいなかった。目の前にある雲雀の表情も、彼越しに見えるはずの天井でさえも。
「ちょっ、ヒバリ、まっ……!」
うわあっ、と情けない声を上げて、山本の背中がしなった。動きかける雲雀の身体を思わずぎゅうと抱きしめる。雲雀は動くのをやめて身を任せ、山本は抱きこんだ彼の中に衝動を注ぎ込んだ。
軽い痙攣のあとに襲い来る、強烈な脱力感。だがそれは甘い痺れを伴っている。我知らず大きなため息をついて、山本は身体の緊張を解いた。
……ピンク色の幸福感に包まれて、目を閉じたまま山本は一人でにやけた。凄かった。そりゃあもう凄かった。久々のせいもあるだろうが、それにも増して凄くよかった。
睫毛の先まで満ちる甘い満足感。けれど山本がそれに陶酔している暇は無かった。うっとり目を閉じた山本の上で、無造作に雲雀が身を起こしたのだ。
「あ……」
体重が掛かっているのにもかかわらず、相手をつい失念していた山本が慌てて両手を放す。身を起こした雲雀はやはり何も言わず、山本の感傷など無視して薄情なほどあっさりと身体を引き離した。
雲雀の表情は相変わらず変化を見せなかったが、ソファを降りた彼が床に散らかった自分の服を掴むとさっさとバスルームに消えてしまったことを考えれば、機嫌を損ねたのかもしれない。
この日何度目かわからないが呆気に取られて雲雀の背中を見送った山本は、彼が消えた部屋から微かな水音が聞こえると、突如として凄まじい虚脱感に襲われた。何と言うか、酷く虚しい。恋人とベタベタするのが好きでも嫌いでもない山本だが、ここまでそっけないと流石に面白くない。別に雲雀といちゃいちゃしたいわけではないが、何だか本当にただ取って食われたようで虚しいのだ。そりゃあ、確かに今日の山本はちょっと早かったかもしれない。百歩譲って、結構早かったと認めてもいい。実のところ自分でもちょっと情けなかった。だからって、使い終わったからポイみたいな態度はあんまりではないだろうか。
それなりに矜持を傷つけられた山本だが、いつまでもソファの上に半裸で寝転がっているわけにもいかない。自分の失態を雲雀の無体な態度に責任転嫁して、山本は再びキッチンに立った。
気分を落ち着かせるには、日常的で更に機械的な行動を取るのがいい。歯を磨くとか、洗い物をするとか、掃除機をかけるとか。ようするに激情が去ったら、押し込んでいた困惑と動揺に襲われて、頭がこんがらがってしまったのである。そもそもそれ以外にすることもないし、このまま立ち去るのは何となく気が引けた。とにかく、落ち着くのが先決だ。
……山本がマニュアルどおりの行動で落ち着きを取り戻したころ、バスルームから身体を清め終えた雲雀が出てきた。彼はふと、キッチンに立った背中を見つける。ビールでも飲んでいるのか、見え隠れする山本の右腕。頭は少しかしいで天井の辺りを見ているようだ。その長身の背中を見つめながら、雲雀はキッチンに足を向けた。
気配を隠そうともしないで近付いた雲雀を、勢いよく山本は振り返った。振り返ったはいいが、改めて顔を合わせると何を言ったらいいのか皆目見当がつかない。濡れて光る黒い髪。切れ長の目は大きく、雲雀が端正な顔立ちをしていることに山本はようやく思い至った。
何を言うでもなく突っ立った山本を、雲雀は上から下まで侮蔑するような視線で一撫でする。腕を組んで傍にあったテーブルに寄りかかりながら、
「用が済んだら帰れば?」
冷ややかな声音。雲雀のくちびるから発せられた声は見えない刃物となって絶句した山本を切り刻み、何かが壊れる音を彼は確かに聞いた。それは最後に残った山本の矜持が、粉々に砕け散る音だった。
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