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『用が済んだら帰れば?』
雲雀の容赦ない侮蔑の言葉が頭の中でリフレインし、全身が汗だくになるような悪夢を見て山本は眼を覚ました。一体どうやって帰ってきたものか記憶は定かではないが、そこは山本の部屋だった。服も着替えず、カーテンも開いたまま、そして何故か手にはフライ返しを握り締めていた。
のそのそとベッドから起き上がった山本は、額の汗を拭ってため息をついた。
昨夜一体何があったのか。思い出そうと試みても、あの恐るべき雲雀の台詞が頭の中で反響しまくり、頭痛となって記憶の解析を拒んでいた。このままでは日常生活でさえ脅かされそうだ。何たる傲慢、何たる我儘!
おかげでその日はまる一日、山本は人間として全く使い物にならなかった。ナノ単位まで完全に粉砕されたプライドや矜持が、彼を廃人にしてしまったようである。
だが山本は負けなかった。幼いころから野球で鍛えた心身は強く、彼は一流プレイヤーの資質として最も重要な強靭な精神力を有していたのである。だからこそ彼は立ち直った。一度の敗北で尻尾を巻いて逃げ出す山本ではない。負けん気の強さならば誰にも負けないし、勝利のための努力を惜しいと思ったことは無い。彼はそうやって、幾度も幾度も、巨大な試練を乗り越えてきたのだから!
かくして山本はわずか一日で立ち直った。そして彼は誓ったのである。このツケは必ず倍にして返してやる、と。例え雲雀が鼻で笑おうが、トンファーで殴りかかって抵抗しようが、今度はオレが食ってやる。そして必ず、雲雀をあんあん言わせてやるのだっ!!
山本の決心は固く、その日のうちにリベンジへ向けての特訓を開始した。何しろ体育会系な男であるから、こうと決めたら行動は早い。復讐に燃えた山本は夜の街に繰り出すと、プロのお姉さんがたにご指導願ったのだ。
そしてやると決めたら徹底的にやるのが体育会系だ。ほとんど日をおかずに毎晩のように女のところへ通う山本は、一つだけ雲雀が残した良い結果に気付かなかった。雲雀ショックが大きすぎたのか、いつの間にか彼のホームシックは、跡形も無く消え去っていたのである。
何だかよくわからないが、突如として色ボケに走った山本を同居人の獄寺は呆れた目で見つめていた。
一体何があったのか頑なに山本が口を閉ざすので理由は知らないが、夜中に突然包丁を研ぎ始めるようなあの面倒くさいホームシックが治まったのは、彼にとってはいいことだ。仕事に影響が出ない限りは、勝手にすればいいと獄寺は思っている。
ただ、毎日のように安物の香水と化粧品の匂いをつけて帰ってくることだけは閉口した。それから、ここのところずっと続く日本食の試食の係りも、いい加減代役を考えて欲しかった。
あの日以来、山本は雲雀と会っていなかった。もともと仲が良かったわけではないから、彼の自宅を知ったのもあの日が初めてのことだ。ろくすっぽ口さえきいたことも無いような相手にいきなり取って食われてしまったわけだが、文句を言おうにも雲雀はもうイタリアにいなかった。
山本が復讐を誓ったその翌日、雲雀は仕事のために南米へ旅立った。行き先はコロンビアだと聞いた山本は、その場にいたツナと獄寺と密かに視線を交わしあった。コロンビアでする仕事など決まりきっている。妖精さんたちが一生懸命こしらえた、魔法のお粉を買い付けに行ったのだ。
コロンビアで商談を纏めたあとは、その足でロシアへ入国する予定らしい。すっかり世俗の埃にまみれてしまったお金を綺麗に洗濯し、そのまま一旦日本へ帰国する。イタリアへ戻るのはそのあとなので、二ヶ月以上先の話だ。
何故そんな予定をボンゴレファミリーが知っているかと言うと、雲雀が日本から客人を連れてくることになっているからだ。客人とはジャパニーズヤクザの代表メンバーたちで、雲雀を仲介役にヨーロッパ最大の勢力を誇るボンゴレファミリーに会談を持ちかけてきたのだ。だから雲雀はいつでも連絡が取り合えるように仕事の予定をボンゴレに打診していたのである。
しかし山本たちは知っている。恐らくその代表メンバーたちは、ヤクザの本当のトップではないであろうことを。あくまで推測に過ぎないが、その背後で日本のヤクザを操っているのは、雲雀そのひとだろう。今はまだ公表されていないが、そう遠くない未来に、ジャパニーズヤクザの歴史は塗り替えられることになるだろう。野心だけでなく、雲雀は充分な手腕と才覚を有しているのだから。
つくづく恐ろしい男に復讐を誓ったものだ。そう思わないではないが、それとこれとは話が違うと山本は割り切った。あくまでビジネスの話と、プライベートの話は切り離すべきだ。そして『雲雀をあんあん言わせてやるぞ大作戦』は、プライベートでのことなのだから。
かくして、山本の対雲雀猛特訓は二ヶ月に渡って続けられ、ついに本番を迎えたのである。それは年も改まった、冬の最中のことだった。
日本からの客人を連れ帰った雲雀は、予定通りボンゴレファミリーとの会談を行った。出席するメンバーはボンゴレの幹部連と、ヤクザの代表たち。その仲介役兼通訳として雲雀が同席した。
ツナたちの予想は的中し、ヤクザの面々は雲雀の指図のもとに動いているようだった。通訳と称する雲雀だが、ヤクザの言動をさりげなく誘導し、自分のいいように翻訳する。もちろん彼はツナやリボーンなどの一部の人間がそのことに気付くであろうことなど承知のうえだ。そのうえで、彼は言外に自分がヤクザたちより立場が上であり、今後の東西協力において不可欠であることを知らしめたのだ。いつか彼が日本の、ひいてはアジアの裏社会でトップに立つ日が来るであろうことを、この日多くの人間が予感せずにはおれなかった。
日本からの『来客』という名の手駒を無事にイタリアから出国させた雲雀に、奇妙な伝言があったのは、会談から一週間後のことだった。表向きは貿易会社となっている彼のオフィスで、秘書が一枚のメモを差し出したのだ。
厚手の紙を二つに折ったそのメモは、ボンゴレファミリーの一員である若いアジア人から渡されたと秘書は告げた。地位はまださほど高くはないが、十代目の無二の親友とされるその男の顔は秘書も見知っていたため、取次ぎを引き受けたのだ。
秘書を下がらせた雲雀はデスクの上にメモを置くと、座り心地のよさそうな革張りの椅子に背中を預けた。彼の脳裏に浮かぶのは、能天気そうに笑う寿司屋のせがれの姿である。果たして一体何が目的なのか知らないが、直接オフィスまで来るとはいい度胸だ。
厚手のメモを手に取って開くと、そこには力強い日本語で走り書きがしてあった。
『一緒に夕食でも食べないか?』
その下には携帯電話の番号。どうやら、思っていたよりも莫迦らしい。
雲雀は無言で携帯電話を取り出すと、メモに走り書きされた番号をプッシュした。
「チャオ」
短いコール音のあと、脳みそに皺の無さそうな明るい声がした。思わず眉を顰めつつ、雲雀は口を開いた。
「……夕食のメニューは?」
「鍋。熱燗付き」
挨拶などなくとも相手が誰か間髪要れずに察したのは、連絡を待っていたからか。雲雀はふとこたつの上に乗った土鍋を連想した。
「……今夜21時にうちで」
それだけ言って返事も待たずに通話を切る。例えば電話の向こう側の男が往来のど真ん中でガッツポーズを取ったことなど、雲雀には知る由もない。
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