■□■ 2 □■□
雲雀にとってこの世は何の興味も無い場所だった。彼は裕福な家庭に生まれ、文字通り何の不自由もなく育てられた。お屋敷サイズの自宅、求めればどんなものでも買い与えられる環境、しかも両親は仲がいい。彼らはとても息子を愛していたし、雲雀も彼らが嫌いではなかった。なかったが、嫌いではないだけで、特別な執着もなかったのである。
雲雀にとって両親は『仲のいい他人』である。会話もするし、頼まれれば手ぐらいは貸してやる。一緒に旅行へ行くこともあれば、誕生日にケーキを食べたりもする。だが、やはり雲雀にとってはどうでもいいことだった。
彼にとって家族とは『仲の良い家政婦』程度の存在でしかなかった。もし今日から両親を誰かにチェンジしたとしても、役割をちゃんとこなしてくれさえすれば、一向にかまわなかった。
大事なのは雲雀が不自由なく生活でき、余計な干渉をされないことであって、親近感や愛情ではない。特にその愛情というものが雲雀にはどうしても理解できなかった。別に両親を嫌っているわけではないから、それなりに愛しているのだろうとも思うが、では好きなのかと訊かれれば彼は平然と『別に』と答えることだろう。どうでもいいことなのだ。
雲雀にとっては家族だけではなく、生きているというそのことさえもどうでもよかった。どうでもいいから生きている。飽きたら死ぬかもしれない。けれどそれさえもどうでもいいかもしれない。
この世の中で雲雀が興味を抱くのはごくわずかな事柄だけ。数学にのめりこんだ時期もあったし、バイクやパソコンに興味を持ったこともある。だが、それも一時期だけで、すぐに飽きてしまった。彼は頭が良かったので、興味を持ったことはすぐに身につけてしまったのだ。学ぶことの困難さを知らない雲雀は、すぐに興味を失って退屈を憶えた。そんな彼が未だに血が昂ぶることを覚えるのは、闘うことに関してのみ。自らの力だけで相手をねじ伏せ、強者として君臨することは、雲雀を興奮させた。
ところが地元でも有名な『並盛中の風紀委員』も彼の前にあっさりと膝を屈してしまったではないか。こうなると雲雀はちっとも面白くなかった。面白くはなかったが、誰かを殴り倒しても咎められることのない特権というのは悪くない。しかも風紀委員長であれば、その座を狙って多くの不良たちが押しかけてくるのである。学ランを着て腕章をつけているだけで強い奴らと闘えるのは面白いかもしれない。そう思ったので、彼は大人しく風紀委員長の座に甘んじたのである。
並盛中に入って雲雀の興味を引いたのは、風紀委員長の座ともう一つ。それが同じクラスの笹川了平だった。
浮世場慣れしたほど快活で声のでかいボクシング莫迦は、誰もが恐れる雲雀を本気でクラスメイト程度にしか思っていないようだった。だから平気で朝の挨拶をしてくるし、上級生や教師でさえ敬称をつける雲雀を呼び捨てにする。のみならず、二学期の中間テストが近くなると雲雀に勉強を教えてくれと言いはじめたのだ。
それまでの雲雀の了平に対するイメージは、『ひよこ頭』とか『垂れ目』程度の認識であった。彼は他人に興味が無いので、名前など覚えない。そのため、夏休みが終わったころになっても、クラスメイトの誰一人として名前を知らなかった。
「実はな、このままだと冬休みに補習を受けねばならないのだ!」
勉強を教えてくれと言われ、視線さえ上げずに完全無視した雲雀をよそに、了平は一人で勝手に説明を始めた。彼はボクシング一筋に生きてきた男であるが、学生はやはり勉強が本分であり、このままだと大会が近いにも関わらず冬休みは補習で一杯になってしまうのだそうだ。そうなると部活動は当然ままならず、了平は大会に参加することさえ難しくなる。塾だの家庭教師だのというものは彼には向かず、ゆえにこうして頭を下げて頼んでいるのだ。
と、立ったまま了平は力説した。もちろん頭など下げてはいない。そして雲雀は無視したまま。
この異常な状況にクラスメイトは巻き込まれまいと出来るだけ遠巻きに二人を見守っていた。了平はどうやらほとんど授業に出ていないにもかかわらず、学年トップをぶっちぎる雲雀に感銘を受けたらしい。が、雲雀にとっては迷惑千万な話であるため、彼は了平の頼みとやらを無視したのだった。
ところがそれだけではすまなかった。
了平は『まだ返事を聞いていない』と言っては雲雀に付きまとい、実力行使で排除しても、
「すばらしい腕前だ! ヒバリ、お前、我がボクシング部に入らないか!?」
などと寝ぼけた勧誘をするばかり。入部も勉強を教えるのも面倒だし嫌だ、断る、噛み殺す、といくら言っても、了平は諦めなかった。
いっそ生涯流動食しか食べられない身体にしてやろうかとも思ったが、何故か雲雀は突然気が変わった。理由など無い。ただの気まぐれだ。別にどうでもいいと思ったのだ。そのため、雲雀は了平に勉強を教えてやることにしたのである。
雲雀の突然の変心を了平は喜んだ。訝ったり、不審に思ったりせず、ひたすら喜ぶのだから莫迦である。あまりにも裏表のなさ過ぎる男が、雲雀は何故か不快ではなかった。
勉強は学校でだけ教えてやることになった。何しろ了平は朝も放課後も部活で忙しい身であるから、時間は昼休みだけに限られた。完全に自分の都合ばかりを押し付ける行為に流石の了平も傲慢さを感じたのか、彼は雲雀に一生懸命礼を言った。礼を言うだけなのが非常に了平らしい。
その了平が苦手な科目は、国語と古典だった。不思議なことに数学と英語は良く出来る。理由を訊くと、
「うむ、数学はだな、数字が全てをオレに知らしめている!」
意味不明である。ようするに、直感で何となく答えがわかるらしい。そして英語に関しては、
「オレは将来プロのボクサーになるつもりだ。プロとなれば当然いつかは海外の選手とも闘わねばならない。タイトルを狙うならば、異国の言葉を覚えるのは当然のことだ!」
再び意味不明である。つまるところ、世界チャンピオンという大それた野望を抱く了平は、より多くの強い選手と闘うために、英語くらいはマスターしておくべきだと考えたらしい。なるほど、ボクシングは日本国内よりもやはり海外の方がメジャーであるからか。
それまでの短い会話でも難解な日本語使いと意味不明な思考回路の持ち主であることを暴露しまくりな了平であったから、国語と古典が壊滅的に苦手な理由が雲雀には非常に納得いったのであった。
答えを間違うとトンファーが飛んでくるというスパルタだか虐待だか判然としない雲雀の勉強方法は、了平に大変よく合っていたようだった。
「この緊張感、実に見事!」
勉強とボクシングの両方の鍛錬になる、と了平は大喜びで、雲雀は呆れるのを通り越してやや感心してしまったほどだ。莫迦もここまでくると興味深い。
そんな勉強方法のおかげで、了平の成績はじわじわと上がっていった。少なくとも補習を受けずに済む程度になり、更なる向上を目指す前に彼らの一年間は終わりを告げた。
二年生になったとき、雲雀と了平のクラスは別々になった。それに関して雲雀は特にどうとも思わなかった。あったとすれば、これでつまらない個人授業から解放される、という程度のことだ。
二年になると雲雀はますます授業に出なくなった。興味が無いからだ。どうせなら毎日テストであればいいのにと、とかく競うことの大好きな雲雀は中学生らしくない感想を抱いていた。
もちろんクラスが変わっても彼を畏怖する眼差しは消えはしない。どころか、時間を経るごとにその偉業というべきか悪行というべきか、とにかくとんでもない噂と事実の増えていく雲雀は、更なる恐怖の対象となっていった。最早彼にまともに声をかけるのは風紀委員の人間のみ。しかも群れることの嫌いな雲雀は、彼らでさえも遠ざけて一人でいることを好んでいた。
しかし彼の静寂は長くは続かなかった。二年生になって四度目の月曜日。風紀委員が占領している第二音楽室で昼食を食べていた雲雀の元へ、弁当持参で現れたのは例のひよこ頭だった。
「おお、ここにいたのかヒバリ!」
観音開きの扉を力一杯開け放った了平は、流石に驚いて目を丸くする雲雀の傍へやってくると、勝手に隣へ腰を下ろした。
ここ第二音楽室は風紀委員が昨年の委員会代表会議で分捕った部屋である。何故なら、学校の最上階にある音楽室は冷暖房完備で、隣の準備室兼教員控え室には給湯設備もあり、しかも防音機能が完璧なため、制裁活動にぴったりなのである。おかげで一枚の壁を隔てた隣にある第一音楽室では、壁に何かが叩きつけられる音がたまに聞こえてきて、生徒達を震え上がらせていた。そのため声は小さいが苦情もあるわけで、何より最上階まで上がるのが面倒なため、雲雀は次の代表会議では別の部屋を要求するつもりでいた。
そんな第二音楽室には委員会の特権の証か、委員長専用の執務机と応接セットが置いてある。誰が何処で手に入れてきたのか誰も知らない。そこで優雅に昼食を取っていた雲雀の隣に、当たり前のように了平は陣取ったのである。
「……外に委員の者がいなかった?」
珍しく雲雀から話しかけられて、早速のり弁をかっこんでいた了平が動きを止めた。
「ふむ、えらほーなのがひゅーひふをほはんははら、叩きのめした」
前半部分はのり弁のおかげで日本語が崩壊しているが、解読するにどうやら見張りが偉そうに入室を拒んだので実力行使に及んだらしい。役に立たない奴だな、と雲雀は叩きのめされた委員のほうに苛立ちを覚えた。
「で、何しに来たの?」
「何とは何だ。昼飯を食いに来たに決まっているだろうが」
憤然と胸を張る了平だが、どうやら半年以上毎日雲雀と昼食を食べていたため、それがすっかり習慣化してしまっていたらしい。クラスが変わって以来どうにも落ち着かず、このあいだからずっと雲雀を探していたのだそうだ。ところが雲雀は教室にいない。クラスメイトは誰一人として雲雀の所在を知らず、それどころか口をきいたことのある者さえいなかった。仕方が無いので毎日自力で探し回り、本日ようやく雲雀発見に至った。
勝手にお茶まですすり始めた了平を箸を止めて雲雀はじっと見つめていた。あいかわらずのひよこ頭は、彼の視線を気に留めたりしない。切れ長の目の雲雀の視線はカミソリ並みとも言われたが、どうやらこの男には通用しないようだった。
「……君は僕が怖くないの?」
「何故だ?」
聞き返されて雲雀は黙った。了平は本気で不思議そうな表情である。彼は雲雀を恐れない。恐れる理由さえ持たない。それはとても興味深い。
黙ったままの雲雀に、続けて了平は言った。
「オレはお前が好きだぞ、ヒバリ」
了平の言うことは雲雀には理解不能だったが、とにかく二人は再び一緒に昼食を食べるようになった。と言っても、ただ黙って並んで弁当を食べるだけである。たまには以前のように勉強を教えることもあったが、食後は大抵二人で黙って茶をすすっているだけだった。
笹川了平という奇矯な人格が雲雀の刹那的で無気力な人格に奇妙な影響を与えたことを、雲雀本人は否定できない。再び了平が彼の生活に介入してからというもの、雲雀はほとんど初めて他人に飽きることの無い興味を覚えた。
やたらに声の大きなボクシング莫迦を、雲雀は不快とは思わなかった。これは驚嘆すべき事態である。いまだかつて彼を苛立たせたにもかかわらず、許容された人物はいない。両親でさえ、彼は邪魔と感じれば排除することを厭わないだろう。にもかかわらず雲雀は、了平の常人のやや斜め上を行く奇矯な考え方や行動を、厭わしく感じなくなっていた。これは一体どういうことだろうか。
ボクシングは孤独なスポーツだ。ゆえに了平もまた群れることをしない。クラスメイトと仲が悪いわけでも無いし、部活へ行けば仲間がいる。が、了平は雲雀の知る限り群れるという行為をしなかった。放課後の部活のロードワークでも、彼は常に一人で練習に打ち込んでいる。彼の才能が抜きん出ており、またそれに見合うだけの努力をしているため、他の部員がついてこられないだけかもしれない。また、気さくで鷹揚だが、何しろ変人であるために、友人は少ないのかもしれなかった。
理由がどうあれ、了平の誰とも群れない性質は嫌いではなかった。一緒に弁当を食っていて不愉快になったことは無いし、勉強を教えていても彼の発する根源的な質問は雲雀の興味を引いた。
「何故だ。何故それを活用せねばならんのだ?」
変格活用とは一体何か、何故そう呼ばれるのか、どうしてそんな活用をされるようになったのか。そんなことに疑問を持つ学生は少ない。了平の疑問は根源的で、故に古典のテストで点を取れない。面白いことに、了平は読解力には問題が無いのだ。そのため、例文を読むこともできるし内容も一応は理解している。だが、『作者の意図を記せ』だの『活用形を答えよ』だのになると全く点が取れなかった。
了平の疑問は教師を困らせ果ては怒らせたが、雲雀には面白かった。雲雀でさえも感じたことのない疑問。了平は雲雀の知ることのできない世界を見ている。
人間とは常に孤独であり、どれほど他人を理解しようとしたところで、それは不可能である。人間は自我という独自世界から抜け出ることは叶わず、他者と世界を共有することはできない。故に人間は孤独であり、脳内に構成された自分の世界でしか生きることはできない。それが雲雀の持論である。
もしかしたら自分は了平の持つ世界に羨望を抱いているのではないだろうか。雲雀はそう自己分析をしたこともあった。彼の世界は白と黒の荒涼としたモノクロームで、そこにある自分でさえが無価値な存在だ。雲雀は荒野の孤独な支配者なのである。だが了平の世界は常に刺激と驚喜に満ち溢れ、瑞々しい極彩色の世界であるように思える。その世界がどんなものであるか、雲雀が垣間見ることはできないだろう。世界の共有は叶わず、彼らは孤独なまま。だからこそ了平に興味を抱くのか。
長いあいだ考えてみたものの、答えは出なかった。おそらく雲雀は人生で初めて他人に好意を持った。親近感とか、友情とか、色々な名前で呼ばれるものであるが、雲雀にはよくわからない。家族に対するのともまた違う感情を、雲雀は模索した。その結果、彼は極端な方法でそれを確かめようと考え付いたのである。断られる可能性は大きいが、だとしたらその程度の感情である。ならばそれでいい。
ある平日の昼休み、いつものように一緒に昼食を取って一緒に茶をすすり、ついでのように勉強を始めた了平に雲雀は唐突に言った。
「……笹川、僕とセックスしてみないか」
流石に面食らったのか、顔を上げた了平の目は大きく見開かれていた。妹とは似ていない兄妹だと評判だが、了平の目が案外大きいことに雲雀は気がついた。
「む、何故だ?」
心底不思議そうな問いかけ。雲雀はソファに掛け直し、
「確かめたいことがあるから」
流石に自分の言っていることの極端さに内心では呆れていた雲雀に、腕を組んだ了平は思いがけない返事をしたのだった。
「なるほど、ならば仕方が無い」
1 3
Back