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 それは春にしては雪の多い、寒い日のことだった。
 今夜は満月であり、夜半を過ぎるのを待ってシリウスはいつも通り庭の隅にあるワイン倉に向かった。今日は雲が厚いので、リーマスもそんなに苦しくないだろう。この頃にはもう人狼化は満月の出方によってもかなり左右されることがわかっていたので、シリウスは少し安心したのだ。
 これならば明日はいつもより元気でいられるかもれない。コックに何かリーマスの好きなケーキでも作らせようか。そんなことを考えながらシリウスは地下へ向かう。鉄製の頑丈な扉を開き、暗い階段に一歩踏み出す。そこで一瞬シリウスは何か違和感を感じて立ち止まった。だが辺りを見回してみても、特に変わった様子は無い。外の雪はもうほとんど止んでいて、辺りは静寂に満ちていた。
 ……気のせいだろうか。そう首を傾げてから、シリウスは階段を下りていった。ランプの明りで照らし出された室内は、やはりいつもと変わらない。檻の中の、鉄格子のすぐ側に、狼が寝そべっている。今ではすっかりシリウスに慣れて、鼻を鳴らすまでになった愛しい狼。その姿を認めて思わず口許をほころばせかけたシリウスだったが、視界の隅に何か動くものを認めて、驚いて振り返った。
 それは檻の中にいた。隅の方の暗がりの中、夜目にも目立つ白い山羊。シリウスは慎重にランプで隅の方を照らしながら檻に近付いた。
 ランプの黄色い光に照らされて、山羊は怯えたように隅っこに逃げ込んだ。見たところ外傷は一つもない。どうしたことだろうか、いつもならとっくに食い殺されているのに。どうやら初めに感じた違和感はこれであったようだ。いつもならこの部屋に充満しているであろう血の匂い。それが無かったのである。
 これは一体、と訝るシリウスの耳に、弱々しい鳴き声が聞こえたのはそのときだ。驚いて駆け寄ると、狼は床に寝そべったまま、浅い息を繰り返していた。

「な、何だ、どうした!?」

 慌てたシリウスは狼の身体を撫でる。よくはわからないが、いつもより体温が高いような気がする。
 狼は頭だけを上げてシリウスを見つめる。はっはっはっと喘鳴に似た息を繰り返し、翳りを見せる黄金色の眸でシリウスに何かを訴えようとしていた。

「ど、どうしたらいいんだ、これは……」

 混乱するシリウスの手を力無く狼が舐める。くいんくいんと仔犬のような鳴き声を時々漏らすのは、苦しいからか。初めての事態におろおろとするシリウスの目の前で、とうとう狼は頭を垂れてしまった。この場合は医者に見せるべきなのだろうか。だが、人間の医者に? それとも獣医に?
 そんな風にシリウスが迷っている間に、狼はピクリとも動かなくなった。これはいよいよまずい。慌ててシリウスは顔を覗き込んだが、そのとき突然、狼が痙攣を始めた。

「うわっ!」

 ガクガクと震える四肢。狼は見る見るうちに泡らしきものを吹き始めた。それで完全に動転してしまったシリウスは、壁際の扉に向かうとあわてて自分のポケットを探り始めた。こんなときに限ってペンだの懐中時計だのが邪魔をする。それに舌打ちしながらシリウスはどうにか鍵を探し当てると、震える手で錠を外しに掛かった。

「リーマス、大丈夫か!?」

 慌てて側に駆けつけたとき、狼の痙攣はほとんど治まっていた。だが名残のように時々ピクピクと四肢が動き、舌はだらしなく垂れ下がっている。最早リーマスと混同された狼は、明らかに死に瀕していた。一体何故そうなったのか皆目見当もつかないが、シリウスは慌てて自分の上着に狼をくるむと、医者に見せるため抱きかかえようとした。だが力の入らない身体はぐにゃぐにゃとして上手く持ち上げられず、医者を呼んで来る方が早そうだと仕方なく床に置きなおす。大変なことになった、どうしてこんなになるまで気付かなかったのか。
 後悔の念に打ちひしがれながらシリウスは立ち上がった。ここを出たら家人を叩き起こし、誰かに医者を呼びにやらせる。その間に毛布などの防寒具を運び込ませ、気付け用のブランデーを持って来よう。この雪では医者は時間が掛かるかもしれないから、先に看護婦の経験のあるメイドを呼んで……。
 そんな風に混乱しながらもこの事態の対処法を考えながら走り出そうとしたシリウスの背後で、何か低く唸るような声がして彼の歩みを止めた。それは地の底を這うような悪意と殺意に満ちた声で、のしかかるような殺気がシリウスの背中を襲う。
 完全に雰囲気に飲まれたシリウスは声を出すことも出来ずにただゆっくりと振り返った。
 本当はシリウスは振り返りたくなど無かったのである。だが子供が部屋の隅の闇を恐れながらも、目を離すことができないように、このときシリウスの頭のどこかでそれを確かめたいという欲求があったことは否めない。そうして振り返ってしまったシリウスの視線の先に、彼のコートに半分包まった、銀色の獣が牙を向いていた。

「え…………」

 シリウスが最後に発したのはその声だった。狼は野生の動作で彼に踊りかかり、その姿をスローモーションのように知覚しながら、シリウスはかつてのリーマスの言葉を瞬間的に思い出していた。人狼は恐ろしく狡猾で残忍な化物。その魔力で食糧を魅惑し、捕食する。それから、頼むから近付かないでくれという魂の叫びにも似た願い。狼はやはり、リーマスではなかった。

 シリウスが約束を破ってしまったことをリーマスに謝罪する機会は、永遠に無くなったのである。








 強くも無い日差しにリーマスは目を覚ました。丁度顔のあたりに弱々しい春の日光が射して、眩しかったのだろう。焦点の合わない目で見回せば、どうやらここは檻の中であるらしい。ここで目覚めるのは珍しいな、と彼は自嘲した。
 リーマスは痛む身体をどうにか起こし、目を擦る。右隅の方に以前は山羊だったのであろう肉の残骸が散らばっていた。その量が多いことに彼は首を傾げた。はて、あれでは単に食いちぎっただけのように思えるが。
 不審に思ったリーマスは更に辺りを見回して、あることに気が付いた。鉄格子の壁際には、鋼鉄製のドアがある。それが初めて開かれていたのだ。
 驚いて立ち上がろうとしたリーマスの足先に何かが触れた。柔らかくて薄い何か。恐る恐る振り返ると、それはコートであるらしかった。
 何故こんな物がここに。嫌な音を立てて跳ね回る心臓を押さえようと、リーマスは胸に手を当てた。
 コートはぐっしょりと濡れている。震える手で引っ張ると、赤黒い染みを床に残した。
 まさか、とリーマスは口の中で呟いた。寒さのためではなく身体中が震えて、思うように動かない。コートがあった場所よりもっと向こうに、何か黒いものが沢山落ちている。それは山羊のパーツとしては多すぎるし、大きすぎるような気もする。
 ほとんど無意識に引き寄せていたコートの中から、何か硬いものが音を立てて転がり落ちた。思わず短い悲鳴を上げてしまったリーマスは、恐る恐るそれを取り上げた。
 血で赤黒く塗装されていたそれは、懐中時計だった。まさか、と最早本人の知覚しない涙がリーマスの頬を流れ落ちていった。
 強張って上手く動いてくれない指にどうにか命じて、リーマスは懐中時計の蓋を開く。精巧なその時計は残酷にも未だ時を刻んでいた。そして涙に曇る眸が内蓋に見つけたのは、愛しい人の名前……。








 雪深い春の朝、広大な屋敷の片隅にある暗い檻の中で、獣めいた絶叫が響き渡った。








〔了〕






9


[あとがき]







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