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 人狼というものの美しさについて、シリウスは語り尽くすことは出来ない。もともと弁舌が得意な方ではないし、誰かに伝えて理解して欲しいとも思わないことだ。彼はただ、この美しい獣を自分一人のものにしているという事実だけで充分だったのである。
 狼は相変わらずシリウスに興味があるようである。まさか尻尾を振ったりはしないが、以前とは違う眼差しをシリウスに向けていた。
 この視線を無視するのは容易なことではなかった。何しろシリウスはもう二度と狼に触れたりしないとリーマスと約束してしまったのである。今やリーマスは狼以上にシリウスにとって大事な存在である。彼のいない生活など考えられない。時折リーマスに昔話を聞いては、今まで彼を辱めてきた連中を本気で探し出して闇討ちにでもあわせてやろうかと考えたほどだ。
 そのリーマスに頼まれて、狼には二度と近寄らないと約束したのだが、残念ながらそれは2ヶ月しか持たなかった。だがそれは決してシリウスが意志薄弱だからではない。単に狼の魔力がシリウスの意志の力を超えていただけの話だ。
 ほとんど魅せられるようにして狼に触れてしまった翌日、シリウスは酷く悩み落ち込んだ。きっとリーマスは激怒することだろう。だがどうやら狼のときリーマスの意識は無いというのは本当であるらしく、彼は何も知らない様子だった。おかげで謝罪するチャンスを逃してしまったシリウスは、そのまま口を噤むことにしたのである。
 本来のシリウスは不正を許さず、嘘など大嫌いで、愚かなほど正直な男であった。だがこのときは人狼の魔力が勝り、またリーマスに対して引け目を感じていたことが徒となってしまった。シリウスはリーマスをとても愛していたのだけれど、彼を金銭で取引したことを未だに後悔していたのである。
 そのおかげでこうしてお互い幸せでいられるのだと自分に言い聞かせてもみたが、後ろ暗さは薄くなっても消えはしなかった。その上約束まで破ったと知れたら、リーマスの心はシリウスから離れてしまうかもしれない。シリウスはリーマスに対して揺ぎ無い愛情を持っていたが、リーマスがシリウスに対して同じように思っているかは定かではない。直接訊いてみればいいようなものだが、そんなことができる性格ではなかった。
 とにかくそうしてシリウスはリーマスに対して秘密を抱えることとなったのである。幸い目撃者はいない。
 また、考えてみれば狼だってリーマスではないか、とシリウスは思うようになっていた。かつては常にシリウスの隙を窺っていたあの黄金の眸も、今では穏やかに閉じられて、シリウスに背中を見せている。それだけシリウスに対して信頼を寄せているということだろう。しかもその変化は二人の仲が修復された頃から始まった。やはり普段のリーマスの意識が、本人は気付かなくともどこかで働いているに違いない。
 シリウスは冷たい床の上に陣取って、ぼんやりと狼を見つめている。狼は腹部をなでてももう気にしなくなっていた。試しに尻尾を触ってみたが、振り払うように軽く尻尾を振っただけで、頭を上げさえもしなかった。今はこちらを向いて前足を枕に眸を瞑っている。あの頭部を撫でてみたいとシリウスが思ったのは、当然のことであったろう。それでも万一のことを考えれば、シリウスも手を出すことは躊躇われた。だが狼があのように寝そべってから、もう大分立つ。眠っている間なら、少しくらい触れても大丈夫だろう。
 長い逡巡の果てに、シリウスは音を立てないように細心の注意を払って鉄格子に近寄った。
 格子を掴んで狼をじっと観察する。ピクリともしない。暫く眠っていることを確認してから、シリウスはそっと腕を伸ばした。ゆっくりと焦らないように手を伸ばす。大丈夫、気付いていない。
 掌が汗ばみシリウスは細く息を吐いた。狼は相変わらず目を閉じたままだ。シリウスは音を立てないように唾を嚥下すると、そっと狼の頭部に指先を触れた。瞬時ににそれは背中の毛よりずっと柔らかく感じられた。そのまま掌を当てようとしたその瞬間、狼の目が開いた。
 しまった、とシリウスが後悔したときにはもう遅く、鋭い動作で狼が頭を上げた。もう駄目だと、思わずぎゅっと目を瞑ったシリウスの掌に、何か冷たい濡れたものが押し付けられた。それは何度も位置を変えて押し付けられ、いつまでたっても痛みは感じられない。一体何が起こったのかと恐る恐るシリウスが目を開くと、幸い腕の先にはまだちゃんと手がついていた。そしてその手を狼がふんふんと鼻先で嗅ぎまわっていたのである。
 これは予想もしなかった事態である。シリウスは今度は狼を刺激しないようにという理由で動けなくなった。その間も狼は掌や腕を嗅ぎまわる。これからどうなるのかとシリウスが身体中に冷たい汗をかいた頃、何を思ったのか狼は、大きな舌で彼の手を舐めたのだった。
 ギョッとしたのはシリウスである。思わず腕を引っ込めてしまったが、狼は驚いた様子も無く格子の外を見つめている。それから興味を無くしたのか、再び先ほどと同じように床の上に寝そべった。

「……………………」

 九死に一生を得たというより、一人相撲を取っていたらしいシリウスは、脱力して床の上に座り込んだ。今までの人生でこれほど緊張したことは無い。
 シリウスは呼吸が落ち着くと先ほど狼に舐められた自分の掌を見る。何の変哲も無い、ただの手だ。だがこれで一つはっきりしたことがある。少なくとも満腹の人狼は、シリウスに対してあまり敵意を持っていないということだ。これはひょっとしたらひょっとするかもしれない。
 こうしてシリウスは更なる秘密を抱えることとなったのである。








 二度目の春が来る頃には、狼はすっかりシリウスに慣れた。鼻先に触っても、頭に触れても特に気にした様子は無い。むしろシリウスに顎の下や尻尾の付け根を掻いてもらうのがお気に入りのようである。やはり狼もリーマスと同じだ、とシリウスは確信した。
 そうなるとシリウスは益々リーマスが愛しくなった。リーマスも何だかよくわからないがシリウスと一緒にいられるのは嬉しいようで、満更でも無さそうである。いつか彼に狼のことを告げて驚かすのが、シリウスは楽しみでならなかった。いつか必ずそういう日が来ると、彼は信じて疑わなかったのである。








 リーマスは夢を見ていた。
 夢だと自分でもわかっている夢で、そこは以前に住んでいた屋敷だった。いや、飼われていたと言ってもいいだろう。その屋敷の自分にあてがわれた、ただ広いだけの部屋の窓辺で、リーマスは自嘲する。与えられた物は全て高価な物だったが、何一つ心は篭っていなかった。
 そんな部屋の中、リーマスは窓辺に置いた椅子に座って外を見下ろしていた。彼の部屋は屋根裏部屋を改造したもので、屋敷の最も高い位置にある。今日は満月だというのに、どういうわけか大人しく寝台に入っている気になれなかったのである。
 それはかつての再現だった。だからリーマスはこれが夢だとわかっていたのである。
 その夢の中で、リーマスは賑やかな庭をうつらうつらしながら眺めていた。茶会だろうか、多くの人間が楽しそうに歓談しているのが今のリーマスにはよく見える。彼らは一体何を話しているのだろうか。
 そんなことを考えながら夢見半分でぼんやりと眺めていたリーマスは、庭の隅に気になる人物を見つけて硝子に額を押し付けた。丁度リーマスに正面を向いた形で、あのひとが立っていた。何度も目を凝らしたのだから間違いない、あのひとだ。
 彼は以前からよくリーマスの目に止まっていた。主人の親友であり、その存在自体が良く目立つ青年だ。多分歳の頃はリーマスと同じくらい。背が高く、黙っていると少し近寄りがたいような厳しい表情の男だ。
 リーマスが初めてその存在に気が付いたのは、もう随分前の夜会の日。今日と同じように窓の外を眺めていたら、玄関のところでこの屋敷の馬丁と話し込む長身の人物を見つけたのだ。
 初めは馬の状態でも確認しているのかと思った。何しろ貴族の子弟というのは気位が高く、馬丁などと気安く口を利いたりしないものだ。だがその男は違った。彼はふいに馬丁の肩を親しげに叩くと、楽しそうに笑ったのである。
 リーマスはそれを見て驚いた。階級が下の人間と、あんなに自然に笑い合う貴族が居るなど、考えてもみなかった。だが実際にリーマスが驚いたのはその所為だけではなく、多分その男の笑顔が、とても魅力的だったから。それ以来リーマスにとって、その男は特別な存在となった。
 あのひとだ、と思うとリーマスはいてもたってもいられず、無意識に立ち上がっていた。まだ日が高く、今日が満月で具合が悪いことなどすっかり失念したまま、彼は部屋を出て行った。
 今ならあのひとに会うことができる。これだけ人数が多いのだ、自分一人くらいが混ざっていても誰も不審には思うまい。そうすればあのひとと口を利くことが出来るだろう。もうずっと前から恋い慕っていたあの青年。彼にキスをされたらどんなだろうか、彼はどんな風に愛してくれるのだろうかと。
 これが夢だとわかっていても、リーマスは急いで庭へ向かう。その証拠に長いはずの廊下は都合良くすぐに切れた。目の前には大きく開かれた庭への扉。
 テラスへ一歩踏み出すと、リーマスは青年の姿を求めて辺りを見回す。
 ……いた。正面の建物の壁に寄りかかって立っている。彼は退屈そうに歪めていた顔をこちらに向けると、壁から背を離してりーマスに向き直った。
 リーマスは彼に向かって歩き出す。彼もリーマスに向かって歩き出す。
 二人は庭の中央で立ち止まると、互いに顔をほころばせた。彼は思い描いたとおりの優しい笑みで、リーマスの名をくちびるに乗せた。だからリーマスも喜んでその人の名を呼んだ。

『シリウス……』








 何か柔らかなものの感触にリーマスの意識は急速に覚醒した。目を瞑っていても、それがくちびるだとすぐにわかる。そのまま寝た振りを続けるリーマスのくちびるに、彼の名を囁きながらそれは訪れた。
 夢の続きのような幸福感に、リーマスは微笑んだ。その頬を指の背で撫でながら、

「どうした、何か嬉しそうだな」

 低く柔らかな声音に、リーマスは瞼を開く。寝台の傍らに腰を下ろしたシリウスが、夢と同じように微笑している。それがおかしくてリーマスはくすくすと笑った。

「いい夢を見てたんだ」

 明日に満月を控えているというのに珍しく調子の良さそうなリーマスに、シリウスは優しくどんな夢かと問いかけた。彼は何故か再びおかしそうに笑うと、

「……海に行く夢。君が大きな魚を釣って、ぼくに自慢してた」

「へぇ。それじゃあ、また夏になったら、今度は海へ行こうか」

 異国の、紺碧の海を見せてやりたいとシリウスは思った。きっとリーマスはあまり外へは出ていられないだろうけど、それでも一度は見せてやりたい。そのシリウスの気持ちを察したのか、リーマスも嬉しそうに頷いた。約束したからな、と呟く彼はどこか幸せそうである。

「ああ、約束だ」

 シリウスもつられて微笑むと再び身を屈め、目を閉じると優しくリーマスのくちびるを吸ったのだった。









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