8
満月が明けたその日、例に違わずリーマスは疲労の余り自室で日中を眠って過ごしていた。人狼化しているときの彼には意識は無く、この日も気付いたらベッドの中にいた。狼としての残虐さを目の当たりにすることになる、餌の食い散らかされた檻の中で目覚めるのは、リーマスにとって屈辱でもある。変身の疲労のためそんなことはほとんど無いのだが、こうして寝台で目覚められるのは実に有り難いことだ。
多分、いつもの下男が運んでくれたのだろう。彼は陽気な男で、リーマスが食い散らかした動物の残骸も、文句を言わず黙々と片付けてくれる。それどころか、人狼の恐ろしい面を最も目の当たりにしているだろうに、リーマスを嫌うことが無い不思議な男だった。シリウスは多分彼はリーマスと人狼を上手く結びつけて考えられないのだろうと言っていた。まぁ、考えてみれば人間が狼になるだなんて、現実のこととは考えられない。ましてや彼は信心深いため、むしろリーマスが可哀相なのだろう。しかし今まで出会った信心深いという連中はこぞってリーマスを化物呼ばわりしたもので、これはごく珍しい例だった。
リーマスは寝台に横になりつつ、夕焼けに燃える窓の方を窺った。今日は珍しく天気が良かったようだ。シリウスは家にいるだろうか。彼は満月の日は相変わらず狼を観賞しているようなので、次の日は大抵家にいる。静まりかえった部屋の中で再び睡魔の誘いに捕われながら、リーマスはシリウスの顔が見たいと思った。
シリウスがやって来たのは、夕食どきだった。あまり食欲は無いのだが、これくらいは食べなさいと執事が持ってきたシチューとプディングとミルクに長期戦を挑んでいた最中である。覚えてはいないが昨晩さんざん仔牛を食べたのに、一体この疲労感は何だろう。胃袋に何かが入っている気もしない。喰い散らかしたであろうある程度の肉は、一体何処へ消えたのやら。そんなことを考えながら憮然とスプーンを動かしているリーマスのもとヘ、シリウスは顔を出したのである。
「具合はどうだ?」
一人で夕食を済ませたのだろう彼は妙に上機嫌で、寝台の隣に椅子を引き寄せて座った。いつも通りだよ、と応えたリーマスに苦笑を返し、シリウスは長い脚を組んだ。
さして食べたくも無い夕食と格闘するよりは、とリーマスは盆をナイトテーブルに押しやってしまった。後で執事が眉を顰めるかもしれないが、シリウスが来た所為で冷めてしまったのだとか何か適当に言っておけばいいだろう。そんなことより今はシリウスと話している方がずっと気が楽なのである。何か良いことがあったのかシリウスも妙に機嫌がいいし、何気無くリーマスはその理由を尋ねたのだった。
「それが凄いんだ! 実は……」
興奮した様子でシリウスが話し始めた事実は、むしろリーマスを愕然とさせた。彼は子供のように身振り手振りを交え、こんなことを言ったのである。
「狼が身体を触らせてくれるようになったんだ!」
シリウスはさも嬉しそうに話すが、リーマスはそれどころではない。今、何と言った? この男は、狼の身体に触ったと言わなかったか?
余りのことに頭の中が真っ白になり、動くことすらもできないでいるリーマスに、尚もシリウスは楽しそうに話し掛ける。
「この間から鼻先に触れたりはできるようになってたんだが、まさか身体に触らせてくれるとは思わなかった。毛並みが結構硬くて、やっぱり生き物だな。温かかったよ」
そのときのことを思い出したのか、興奮した様子でシリウスは自分の掌を見つめた。あのときの感動は生涯忘れられないだろう。人を襲い、決して相容れないと言われてきた人狼に、触れることができたのだ。実は先月の満月のときも、人狼はひどくシリウスに興味を示し、鼻先を鉄格子から突き出して彼のことを窺っていたのである。そして少し触れるくらいなら、とシリウスが鼻先にサッと触れても、狼は気にしていないようだった。
それが昨晩は、鉄格子に背を預けるように寝そべって、目を閉じてしまったのである。軽く触ってもすぐに手を引っ込めれば、噛み付かれる心配も無いだろうと、好奇心に負けたシリウスは狼の背に触れた。すぐに手を引いたが、狼は耳を一瞬立てただけで、振り返りもしなかった。そしてそのうちシリウスが背中をなでても、全く気にしなくなったのである。
それはシリウスにとってはこの上ない幸福だったのだが、喜ぶ彼とは裏腹に、真っ青になったリーマスは我知らずやめてくれと叫んでいた。
「だ、駄目だシリウス。頼むからそんな莫迦なまねはやめてくれ!」
リーマスは寝台から身を乗り出してシリウスに訴えかける。その余りに必死の形相に、今度はシリウスの方が驚いた。
「莫迦なって、大丈夫だよ。もう1年近くの付き合いになるんだ、向こうだっていい加減、俺だって認識してるさ」
むしろここへ来て以来、狼が出会ったであろう人間はシリウスのみである。無視することは出来ても、忘れるはずは無い。だがそんなシリウスの楽観的な様子にリーマスは危惧を抱いたようである。彼は激しく首を左右に振ると、
「駄目だシリウス。いいかい、狼はぼくではないんだ。あれは本当に獣なんだよ。それも、ただの獣じゃない。奴等は魔力を持っている。その証拠に、君はあいつに異常なほど魅惑されてるじゃないか!」
そうやって奴等は犠牲者を惹き付け、捕食する。ただの狼なんかじゃなくて、あれは化物なのだ。それも、恐ろしく狡猾で、残忍な。
果たして幼い頃の自分の悲劇を思い出したのか、リーマスは指が白くなるほど毛布を強く掴んで苦しげに奥歯を噛み締めた。あれにはリーマスの意識は欠片も無く、相手がどんなに善良で、古くからの親友でも躊躇わない。感情や思い出は当然、良心などというものを持ち合わせていない生き物だ。そのくせ思考力だけは人間と同じか、或いはそれ以上。狡猾な狼は、きっとシリウスを狙っている。慣れたような振りをして、あの檻を出る機会を狙っているのだ。
「だから、絶対にもう二度と、あいつに触ろうだなんて思わないでくれ」
頼むから、とリーマスは必死になってシリウスに語りかけた。そのあまりの剣幕に押され、幾らか反論はあったものの、シリウスは大人しく頷くことにしたのである。それが彼の願いなら、できれば聞き届けてやりたい。それに、具合の悪い人間を余り興奮させるものではないし……。
「わかった、もうしない。約束するから、少し落ち着けよ」
シリウスはまだ何か言いたそうなリーマスを宥めすかして寝かしつけると、彼の額にキスをして部屋を出て行った。その姿勢のいい長身が部屋から消えてからも、リーマスは長い間扉の方を見つめていた。もう日は落ちて、すっかり部屋の中は暗い。それでも運命のあの日以来、夜目の利くようになったリーマスにはほとんど問題は無い。
恐ろしいことに、シリウスは狼と馴れ合ったつもりでいるらしい。愚かな、とリーマスは思う。彼は何冊も人狼に関する本を読んだと言うが、ちっともわかっていない。奴等は狡猾で、非常に頭がいい。シリウスを騙して、逃げ出そうとしているのは明白だ。
だがシリウスはもう二度としないと約束してくれた。彼は嘘などつかない人間だ。ましてやリーマスがこれほど嫌がって頼んだのだから、きっと約束は守ってくれるだろう。それに多分、シリウスはリーマスのことを愛しているだろうから、彼の嫌がることはしないはず。
……それがリーマスの希望的観測でなければ。
リーマスはため息をついて寝返りを打った。彼はシリウスの愛情を自分が勝ち取れているかという点に関しては、自信がなかった。友情ならば確実だが、恋愛としての愛情はどうだろうか。リーマスの方はシリウスに対する愛情をもう大分前から自覚している。だがシリウスの方はどうだかわからない。もちろんある程度は愛してくれているだろうが、ことが人狼に及ぶともう駄目だった。
シリウスは人狼とリーマスと、果たしてどちらの方が大事だろうか。まさかそんなことを面と向かって訊くほどリーマスは愚かではないし、本気で悩むほど愉快な性格ではない。それでもふとした瞬間に、彼は自分より狼の方が大事なのではないかと思うことがある。もしリーマスと狼が別個の身体を持ち、独立した存在であったら、シリウスは狼の方を選ぶのではないだろうか。それはリーマスがいかに狼を自分と同列の存在として認識し、脅威に感じているかよくわかる疑問だった。狼は常にリーマスから幸福を奪う。リーマスが狼に対して嫌悪を抱いているのと同じように、狼もリーマスに対して悪意の念を抱いているだろう。ならば今最もリーマスを不幸にする方法など、簡単に気が付くはずだ。
だがこんなことは口が裂けてもシリウスには言えない。恥かしいし、第一とうの本人にしかわからない不安だ。シリウスなどはきっと気にしすぎだと言って笑うだろう。度を過ぎて注意を促すのは、得策ではない。それにリーマスの危惧は、確かに狼を過大評価している面が無いともいえない。何もわからず、ただ毎晩満月が来るのを恐れていた子供の頃とはもう事情が違うのだ。身体だって大きくなったし、対策を立てることだってできる。昔ほど狼は恐ろしくない筈だ。
にもかかわらずリーマスの不安は拭いきれない。彼は寝台に潜って子供のように身体を丸めながら目を閉じた。
この不安の原因がリーマスにはとうに特定できていた。多分それは嫉妬だろう。余りにシリウスが狼に魅了され、余りに愛情を傾けるから。莫迦莫迦しいと思わなくは無い。何しろ狼には魔力がある。食料を獲得するために生み出されたのだろう魅惑の魔法。それにシリウスは惑わされているだけなのだ。だがそうなると、彼がリーマスを愛するのも、同じ理由からではないだろうか。もし彼が人狼でなければ、シリウスは見向きもしないかもしれない。そう思うとリーマスは段々悲しくなってくる。だからせめて身体で繋ぎとめようと思ってしまう。だがそれも狼の前では役に立ちそうにない。もし狼と人を分離できるような方法が発見されたとして、そのときリーマスはそれを望むだろうか。或いは望んだとしても、実行に移すだろうか。
わからない、と呟いて、リーマスは思考を放棄した。
次の日すっかり太陽が南中してしまった頃にリーマスが目を覚ますと、珍しいことにシリウスに客が来ていた。
当然人見知りをするリーマスは朝食兼昼食も自室で取り、大人しく客が帰るのを待っていた。考えてみれば朝からシリウスに来客があるなど、リーマスが来てからは初めてのことかもしれない。事情が事情なので、シリウスは出来るだけ来客を避けていたのである。もちろんリーマスのことを配慮して。
執事が教えてくれたことによると、相手は議員であるらしい。歳はシリウスより上だが、以前より懇意にしており、今日は数年前に嫁いだ妹さんが女の子を出産したため、その初披露会にシリウスを誘いに来たらしい。
そうなると今夜は遅いのだな、とリーマスは面白くも無さそうに考えた。人狼化の疲労で精神的にも回復しきっていない頃なので、いささか面白くなかった。普段の彼なら、そう、と言ったきり気にも止めなかっただろうが、この日のリーマスは余り機嫌が良くなかった。前日のシリウスの楽天的な告白のせいでもあり、ここのところ満月後には必ず一緒にいた所為でもある。赤ん坊なんかいつでも見れるのに、と何故かそう思ってしまったのだ。
夕方近くになってそろそろ出かけることとなり、シリウスは着替えのために席を立った。ついでにリーマスの顔を見ていこう。今日はまだ一度も会っていないので、様子を確かめたかったのもある。
自室への廊下をシリウスが歩いていると、向こうでリーマスが壁に凭れて立っていた。丁度いいと口を開きかけたシリウスの目の前で、リーマスは彼を無視するかのように自分の部屋に消えた。その前室の扉が閉まるのを目の当たりにして、シリウスは戸惑って足を止めた。何だ、リーマスのやつ、どうかしたのか。
気になってシリウスはリーマスの部屋へ向かった。もしかしたら気分が悪いのかもしれないと思ったからだ。友人には何を着ようか迷っていたとでも言えばいい。祝いの席だから念入りに考えたのだと言い訳すれば、文句は言わないだろう。そんなことを考えながら前室の扉を開いたシリウスの身体を、中から誰かが強引に引っ張りこんだ。
「わっ……!」
予想外のことに反応しきれずにたたらを踏んだシリウスのくちびるを何かが覆う。背後で扉が閉まる音がし、シリウスは押し付けられた温かいものを反射的に抱き止めた。もちろんそれはリーマスの身体である。そこまではわかったものの、相変わらず事態が飲み込めず、シリウスは面食らっていた。その間にもリーマスの舌は戸惑うシリウスのくちびるを割って口腔に侵入する。腰を押し付け、身体をなで擦りながらリーマスはキスを続けた。
時折シリウスはよせとかやめろとか囁いたようだが、リーマスは気にしなかった。それはシリウスが観念してリーマスを受け入れるまで続き、暗い前室には二人の吐息だけが聞こえていた。
「……………………」
やっと満足したのかくちびるを離すと、リーマスは目を閉じてシリウスの肩口に頭を預けた。シリウスもため息をついたものの、甘えるように体重を預けるリーマスの身体を抱きとめてやっていた。暫くそうして髪を梳いてやったりしていたが、もともと気の長いシリウスはではない。業を煮やしたのか、
「おい、何だ。一体どうした?」
それでも囁くような声だったのは、リーマスの態度を配慮してのことか。今のでお互い感情が昂ぶっているのはわかっている。だが今は欲望の赴くままに行動してはいられないのである。
もちろんリーマスはそんなことわかっているので、これは単なる嫌がらせに過ぎない。
「……別に。どこか行くのか?」
「ん? ああ、今来てる友人の、妹に子供が生まれたんでな」
夜会に招待されたのでちょっと出かけてくる、と。しかしわざわざ説明してやっても、リーマスはふうんと気の無い返事をしただけだった。どうやら虫の居所が悪いらしい。こうなってはシリウスにはどうしようもない。何を急に怒り始めたのかも、どうしたら解放してくれるかもわからないのだ。取り合えず、
「できるだけ早く帰ってくるから」
そう約束してはみた。もともと赤ん坊など見せられてもさして興味は無いし、友人の子供ならともかく、その妹の子供とあってはほとんど赤の他人だ。単なる付き合いでしかない。するとリーマスは再びシリウスに軽くキスをし、耳元にくちびるを寄せて言った。
「戻ったら、この続きをしよう……」
そう囁くと、シリウスの耳朶を甘噛みし、スルリと身体を離した。そして呆然とするシリウスを他所に、意味ありげな流し目を残して彼は自室に消えた。
……これはどうやら本当に一目見ただけで、引き返してきた方が良さそうだ。できるだけ早く、リーマスの気が変わらないうちに。
シリウスは決然と顔を上げると、慌しく前室を出て行ったのだった。
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