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 いろんな意味で源泉は凄いので、アキラのお肌はツヤツヤだ。わざわざ家族の部屋から一番遠いところを寝室にしたので気にせず声を出していいと源泉が言うので、朝にはすっかり声が枯れている。色々抵抗はしてみたものの、結局は源泉の思い通りになってしまうのだな、とアキラがため息をついたとしても所詮惚気の域を出ない。朝からしゃもじを握ってピンク色の憂いのため息をつくアキラを、何故か充血した眼のリンとケイスケが見つめていた。

「どうした、二人とも。寝不足か?」

 ふふんと勝ち誇った様子の源泉が二人に笑いかける。わかってるくせにこの野郎、とは口に出さず、

「ああ、ちょっと昨日遅くまでパソコン組み立ててたから……」

「俺も、ゲームに嵌っちゃってさ」

 ケイスケとリンが火花を散らす視線を寄越しても源泉は楽しげに笑うばかり。事情を知らないアキラはただ一人いつもと変わらないナノにお代わりをよそってやりながら三人のやり取りを眺めていた。そういえば今朝はシキまでもが物凄い勢いでアキラを睨んできた。昨日は珍しく夕食の後どこにも出かけなかったシキだが、睨まれるような筋合いは無い。すでに出掛けてしまったシキの形相を思い出してアキラは憮然とした表情を浮かべたのだった。
 そして午後。
 洗濯物を干して布団を取り込むと、アキラはナノを連れて買い物に出かけた。ナノは大抵庭にいるかどこかに出かけてしまっているかで、一日を自由に過ごしている。庭は生前エマが好き勝手樹木などを植えまくったせいで、年中何処かで花が咲いていた。その世話をするのがナノの日課であるらしい。ある日など植木用のハサミを持って何をするのかと見ていたら、物凄い速さで植木の剪定を始めた。表情だけは相変わらずのぼーっとした無表情のままで、凄まじいまでの技のキレにアキラがしばし見蕩れたほどだ。
 庭の掃除もまたナノの仕事であるらしく、箒と塵取りを持ってふらふら歩き回るナノの姿は庭のあちこちで見受けられた。この広大な庭を一人で管理するのは大変であろう。だが何しろ地雷が埋まっているような庭なので、手伝いたくてもアキラには無理な話である。そして時々、庭で咲いた花を切り取ってナノは何処かへ出かけていくのだ。

「ああ、母さんの墓参りに行ってるんだよ」

 と教えてくれたのはケイスケだ。言われてみればナノが花を携えて出かけていくのは決まって同じ十三日で、それがエマの祥月命日なのだとケイスケは言った。なるほど、素晴らしい夫婦愛だとアキラは感心したが、ニホン的なあの墓石にピンクのばらはどうかとも思わないではなかった。
 花を携えずにナノが出かけているときは単に散歩であるらしい。一体どこに出かけているのか、何をしているのか誰も知らないが、食事やおやつの時間には必ず戻ってくるので心配の必要は無いだろう。そもそもニホン最強の戦士に、迷子の心配をするのは妙な感じである。おかげでアキラがふらふら徘徊するナノを心配しないようになるのにそう時間はかからなかった。
 アキラがスーパーから出てくると、正面の駐車場の脇で屈みこむナノの後姿が見えた。何をしているのかと思って近付くと、何とナノは野良猫にまみれていた。屈んだナノの肩や脚や背中にまとわりつく猫の群れ。それは最早猫に身体を乗っ取られているようにも見える。

「うわっ!」

 思わず出てしまったアキラの声に、猫たちは慌ててどこかへ走り去っていった。残されたのは猫の毛にまみれたナノだけ。実は動物の好きなアキラは少しだけナノを羨ましく思ったが、服をはたいて立ち上がったナノが呟いた言葉に内心で絶叫しそうになった。

「…………たんぱく質」

 猫の走り去った方向を相変わらず真意のうかがい知れないぼやけた青い瞳で見つめるナノ。そうだった、この男は野戦のプロなのだ。現地で食料を調達するのはお手のものだろう。そういえばナノは食べられそうなものなら何でも口に入れてしまうという習性があるのだと困ったように源泉が言っていたことがある。それでも決してお腹を壊さないので、ほっといても平気だけどな、と。
 この日動物好きのアキラは心に固く誓った。彼の眼の届く範囲で、ナノには決して動物を近づけはしない、と。






 季節が蒸し暑いニホンの夏に変わったころ、アキラは暇をもてあましていた。世間ではいわゆる夏休みの時期であり、リンもシキも休みに入ってから毎日どこかへ出掛けている。本来ならこの夏は山間部にある避暑地に旅行するという計画を立てていたのだが、残念ながら源泉の仕事で中止となってしまったのだ。
 茶の間で風鈴の音を聞きながらアキラはぼんやりと庭を眺めていた。夕暮れのこの時間は、庭にまかれた水のおかげか心地よい風が入ってくる。そろそろ夕食の用意をしなければならない時間なのだが、源泉の帰らぬ生活は張り合いが無くて何だか気が抜けてしまっていた。
 源泉が会社に泊り込むことになったのは、もう一週間ほど前からである。戦後最大級の汚職事件が発覚し、検察がニホン最大手の銀行に監査に入ったのだ。そのうえかねてから一触即発の雰囲気であった中東でついに戦争が勃発し、源泉はとても休暇など取ってはいられない状況に追い込まれた。

「悪い」

 源泉は心底済まなさそうに謝ったが、仕事なのだから仕方ないとアキラは毅然として言った。以来一週間、源泉と顔を合わせたのは二回だけ。着替えに戻って、風呂を使い、仮眠も取らずに仕事に戻る。わずか一時間ほどのことだ。会うたびに痩せたように見える源泉をアキラは心配したが、彼が何か言ったところで迷惑にしかならないだろう。だからアキラは黙って着替えと弁当を差し出した。源泉は笑い、家族の前だというのにアキラにキスをして再び会社に戻っていった。流石は外国生活が長いだけのことはある。
 そうなるとアキラの日常は精彩を欠き、退屈なもののように感じられてしまった。初めのうちはやたらに時間のかかっていた家事も今ではすっかり慣れたもので、すっかり段取り上手になってしまった。もともと家の掃除はほとんどシキがあまりにも完璧にこなしてしまうので、アキラの仕事は少ない。子供たちも全く手がかからないし、高級住宅街のこの地域では近所づきあいなども皆無に等しい。アキラがすることといったら、日がな一日自宅の居間で、元気な徘徊老人と一緒にぼーっと庭を眺めることくらいだ。

「…………働こうかな……」

「え?」

 ぽつりと言ったアキラの言葉に驚いたように声を上げたのは仕事から戻ったばかりのケイスケだ。青いつなぎをジーンズに着替えただけで、アキラと一緒にビールを一杯引っ掛けていたのだ。週末の今日くらい、ゆっくり晩酌でもどうかと焼き鳥を手土産に。
 アキラはもともと酒にも全く興味は無かったが、源泉が飲むので付き合っているうちに飲めるようになった。枝豆のさやを片手にしたままケイスケはアキラを見つめ、大きな目を瞬かせた。

「働くって、何で?」

 暇だから、と言うのは何だか子供っぽい言い分のような気がしてアキラは言ってみただけだと呟いた。もともと、ただ養われるだけというのは性に合わない。ぶっきらぼうなその口調が照れ隠しであることに気付いたのか、ケイスケは眦の下がった眼を細めて微笑を浮かべた。

「アキラは強いな……」

 感慨を滲ませた声音に不審そうにケイスケを見つめる。何が一体どうすると強いという思考に至るのだろうか。確かにアキラは強いが、おそらくケイスケの言っていることは別のことであろう。アキラの怪訝そうな表情に更にはにかんだように微笑んでケイスケは後頭部を掻く。

「いや、何て言うか、アキラは自立してるなって……」

 語尾を濁す独特の口調。物事を断定しない話し方をアキラはあまり好きではないが、笑うと眉毛がハの字になるこの年上の義弟のことは嫌ではなかった。何となく、子犬にでも慕われているような気分になるからか。

「別に。強いっていったら、ケイスケのお袋さんのほうがよっぽどだろ」

 すでに何本目になるのかわからぬビールを開けながらアキラが呟くと、ケイスケも複雑な表情で首を傾げた。

「ああ、まぁ、確かに。でもあれはもう人類を飛び越えちゃった強さだから……」

 どうやら夫婦揃ってとんでもない人間であったようだ。そう考えると源泉もケイスケもかなりまともに育ったものだ。今頃源泉はどうしているだろうか。ちゃんと食べてちゃんと寝ているのだろうか。
 アルコールのおかげか思考が飛びがちなアキラの耳に、玄関のほうから帰宅を告げる声がする。二人が廊下のほうに顔を出すと、いつも元気なリンがどたばたと駆けてくるのが見えた。

「ただいまーって、なになに二人とも、もうすっかり出来上がっちゃってんの?」

 ずるい、と言ってリンはアキラの隣に滑り込む。何故か一瞬ケイスケがムッとしたようだが、酔いの回り始めたアキラは気付かなかった。

「ずるいよー、俺抜きで宴会始めちゃうなんて。あ、夕飯は食べてきたからおかまいなく」

 にこっと笑ったリンは手近にあったビールを開ける。まだ中学生だろうと注意する気はアキラには毛頭無かった。何しろ外国育ちの少年であるため、リンはかなり酒に強い。源泉やケイスケたちに混じってビールを開ける姿は、すでにアキラにとっても当たり前のことになっていた。

「あれ、源泉はまだ仕事? 酷いよねー、こんな美人を放っといて」

 父でさえも呼び捨てにするリンの口調は天真爛漫で罪が無い。駆けつけで一本をすっかり空けたリンは、すぐに次のビールに手を伸ばす。そのくせ隣のアキラに凭れ掛かり、

「俺がもうちょっと大きければ、源泉なんかやめさせて、俺に乗り換えるように口説くのになー」

「子供が莫迦言ってんじゃない」

「えー、俺本気だよ? 俺強いんだから」

 何が、とはリンは言わず、高い声でケラケラと笑った。その向かいではケイスケが憮然とした表情でつまみの焼き鳥を口に運んでいる。子供と言う地位に甘んじて好き勝手するリンが憎らしいような羨ましいような複雑な心境だった。
 そこへ廊下をやってきたのは風呂上りのナノだ。ただ座っていても汗ばむ夜だというのに、相変わらずカーディガンまで着用している。風呂に入ったからか頬がいつもより上気して見えるが、汗をかいているようには見えない。全ては訓練の賜物なのだろうか。

「あ、ナノ。ただいまー」

 ビールを持った手を掲げるリンを無表情に振り返る。ナノは小首を傾げると再び廊下を歩き始めた。どうやら興味が無いようだ。ところが、しばらくすると硝子を触れ合わせるようなガチャガチャという音がどこからか聞こえてきた。すっかり出来上がっていた三人が何かと思って顔を見合わせていると、やけに大きなダンボールを抱えたナノがやってきた。

「うわっ、何だこれ?」

 畳の上にでんと置かれたダンボールを見つめてリンが上ずった声を出す。膝立ちで近寄っていったケイスケが箱を開けると、中には色とりどりの酒瓶が。

「父さん、これどうしたの?」

 バランタインの三十年物を手にとってケイスケが呆れたように尋ねるが、畳の上に腰を下ろしたナノは相変わらずぼーっとするばかりで答えようとはしない。

「……もしかして、お中元か?」

 先月の終わり辺りから山のように届き始めた宅配便を思い浮かべてアキラが言うと、ようやくナノがこくんと頷く。源泉宛のものが最も多かったのだが、未だにナノとエマ宛にお中元を送ってくる人も多い。あれだけのものをどうしているのかと思っていたら、どうやら適当に溜め込んでいたようだ。

「これ、飲んでいいの?」

 すでにヘネシーウィスキーに手をかけながら目を輝かせてリンが問うと、先ほどと同じようにナノはこくんと頷いた。やったーと声を上げたリンが早速キャップを開けにかかる。ケイスケはグラスを出しに茶箪笥を開け、アキラは氷を取りに台所へ向かった。飲食物に興味の無いアキラでも、ナノが持ち出した酒が高級品であることはわかる。源泉がいないのが残念だが、せっかくなので味わっておこう。
 アキラが茶の間へ戻ると、すでにリンとケイスケが美味そうにグラスを傾けていた。夜気に混じって芳醇なウィスキーの香りが漂ってくる。ダンボールの隣では透明な液体の入った壜を傾けて、無表情のままナノがラッパ飲みをしていた。しかし壜に両手を副えたまま、正座して壜を煽る姿は何だか大きな赤ん坊のようで、アキラは自然と笑みがこぼれるのを感じた。
 かくして、愉快な宴は繰り広げられたのだった。






 シキが立っていた。茶の間の入り口の、庭に面した廊下。風鈴が揺れる影になった廊下に、シキが立っていた。相変わらず夜の一部を切り取ったような黒づくめの服装。艶やかな黒い髪をかき上げると、印象的な赤い瞳が煌いて見えた。シキは手にしていた日本刀を壁に立てかけると、茶の間を一瞥して鋭い舌打ちの音を立てる。
 シキがゆっくりとした足取りで近付いてくる。淀み無い括弧とした足取り。辺りを見回していたシキはこちらに視線を定めると、緩やかな動作で身を屈めた。
 シキが腕を伸ばす。黒いシャツから覗く腕は意外なほど白い。けれどどこか苛烈なまでの強さを秘めているようで眩しかった。
 シキが腕を引いて立ち上がる。目線が急に高くなる。間近にあるシキの白い顔。陶器のような整った顔立ちは、祖父に似ていなくも無い。
 シキは再び辺りを一瞥すると。

「…………莫迦どもが」

 初めて聞くシキの声。何だ、耳に染み入るようないい声をしているじゃないか…………。






 突然意識が覚醒して、アキラは文字通り飛び起きた。

「うぁっ…………!」

 が、後頭部を金槌で殴りつけられたような鈍痛に、あっという間に元通り布団に倒れこんだ。耳元で巨大な鐘が鳴っている。苦痛が遠のくのを待って目を開けると、すだれの下りた庭はすでに真昼の明るさだった。
 アキラは枕に頭を乗せたまま霞む思考を奮い立たせて考えた。何だ、どうした、一体何があった?  強い酸味を感じる瞼を指で押し、アキラはじっと考える。確か昨夜、ナノが持ってきた酒を皆で吟味して、眼の据わったケイスケとリンが掴み合いの喧嘩になって、十時に柱時計が鳴ったことまでは覚えているが、そこから先が抜け落ちたように記憶に無い。だがそれよりも何よりも、一番気になったのは先ほどの夢だ。何しろアキラは夢の中で、よりにもよってシキに抱きかかえられて布団に寝かしつけられたのだ。しかも、恐るべきことに姫抱っこで!

「うわぁぁ…………」

 あまりに乙女チックな夢の内容に腕の辺りに鳥肌が立つ。恥ずかしい、何てこっ恥ずかしい!  アキラは布団の中でじたばたと一人で暴れたが、先ほどの夢がおそらく事実であろうことを悟りつつあった。あれだ、何しろシキは潔癖症だから、茶の間で家族が酔いつぶれているのが気に入らなかったのだ。さっさと片してしまいたいから、まずは一番寝室の遠いアキラから運び出したのだ、多分。
 ところがどうにか布団をはいずり出たアキラは、茶の間で未だ気絶したように眠っているケイスケとリンを目の当たりにして再び頭を抱えてしまった。あ、えーと、これはきっとあれだ、アキラが風邪でもひこうものなら源泉が大騒ぎするのが目に見えているから、アキラだけを布団に寝かしつけたのだろう。うん、きっとそうに違いない!
 全く理解できないシキの行動に無理矢理折り合いをつけて、アキラは台所へ向かう。とりあえず咽喉を潤すものが欲しかった。アルコールを過剰摂取したせいか、それとも真夏の暑さで汗をかいたからか、酷く咽喉が渇いていた。
 痛む頭をできるだけ動かさないように壁伝いに台所へ辿り着くと、冷蔵庫に常備してある炭酸水を引っ張り出した。炭酸の気泡を嚥下する心地よさに眼を瞑る。よく冷えた水が咽喉を通り、身体の隅々まで広がるようだ。
 ようやく余裕を取り戻したアキラが何気なく台所を見回すと、流しの調理台の上には何故かコロッケが乗っていた。






「ああ、それは父さんだ」

 二日酔いの後遺症をどうにかやり過ごし、そうめんとスイカの朝食兼昼食兼夕食を終えたケイスケが言った。

「ナノが?」

 麦茶を入れてやりながらアキラが小首を傾げると、目の下にクマを作ったリンが同意の声をあげた。

「そーそー。腹が減ったんじゃない?」

 意外なことに、ナノは料理ができるらしい。アキラは台所に立つナノの姿を上手く思い浮かべることが出来なかったが、考えてみればエマが死亡してから息子一家が帰国するまで、ナノはずっと一人で暮らしていたのだ。その間ケイスケも源泉の家に下宿してアメリカの大学に通っていたそうなので、ナノは自分の面倒をずっと一人でみていたことになる。あの木の皮を齧ろうとするような男が、とアキラは再び首を傾げた。

「父さんは基本的に何でもできるんだ。でも、食事の当番となると何でかコロッケしか作らなくて……」

「ナノのときは毎週コロッケ。誰が何と言おうがコロッケ。絶対にコロッケ。好きなのはわかるけどさ、もう少しバリエーションを増やして欲しいよね」

 男所帯で家事を当番制にしていたころを思い出したのか、リンが舌を突き出して不平を鳴らした。だから彼らは毎日色々なメニューに挑戦するアキラに、大変感謝しているのだそうだ。

「……あのコロッケ、源泉も食うかな?」

「え、何で?」

 思わずリンとケイスケの声がハモる。一瞬何故か嫌そうに眼を見交わした二人だが、何も言わずにアキラを見つめた。

「いや、後で着替えと一緒に弁当持っていってやろうかと思って」

「ああ、いいんじゃない? 喜ぶよ」

「じゃあ、タクシー呼んでおこうか。これから作るなら、二時間後くらいでいい?」

「え、あ、うん」

 別にタクシーではなく電車で行くつもりだったのだが、弁当をこの暑い中をあまり長時間外気に晒すのはよろしくないだろう。何故かはわからないが、どうやらリンもケイスケもすっかりアキラと一緒に差し入れを持っていくつもりであるようだ。
 そうと決まったら、さっさと弁当の用意を始めよう。根が生えたように重い腰を上げてアキラは台所へ向かう。だが料理の前に、流しに放置してあるグラスや酒瓶をどうにかせねば。
 残っていた中身を流しに空けて、次々とアキラは酒瓶を勝手口の傍に並べた。半分以上中身の残っている酒瓶は、食器棚の前に分けておく。記憶にある以上に多く消費された酒瓶。中に見慣れぬ透明な壜を見つけて、アキラは屈みこんだ。
 スピリタスという名前らしいその酒瓶には、ウォッカと書いてあった。確かウォッカは透明な酒のはず。ということは、昨夜ナノが一人で飲み干していたのはこの酒か。
 ウォッカといえばアルコール度数の高くて有名な酒だが、昨夜のナノは水のように飲んでいた。しかも今日もまったくいつもと変わらぬぼんやりした様子のまま、二日酔いのふの字も感じさせずに庭に水を撒いていた。源泉もかなり強いから、きっとナノも強いのだろう。何気なく壜の後ろの成分表示を見たアキラの身体が固まる。彼の眼が二日酔いでどうにかしてしまっていないとしたら、アルコール度数はこう表示してあった。98%、と。






「おー、こっちだこっち!」

 初めて訪れた新聞社の玄関ロビーでは、咥え煙草もなつかしい源泉が、アキラの到着を待っていた。

「悪いな、わざわざ」

 差し出された紙袋を受け取って、源泉は嬉しそうに笑う。二日ぶりに見る新妻(?)の姿に、すっかり相好を崩してしまった。

「着替えと、弁当。歯ブラシとかも入れといた」

「そうか、気を使わせたな」

 源泉は少しやつれていたが、それでも元気そうに見えた。男盛りの年齢である。生きがいとなる仕事に、愛すべき家族。まだまだ衰えを見せるわけがない。
 人目もはばからずアキラの肩を抱き寄せた源泉は、ようやくアキラの背後に立ったその他大勢を省みた。

「何だ何だお前ら、雁首揃えやがって。何だ、ナノもシキもいるのか」

 こりゃ珍しい、と源泉は大口を開けて笑う。弁当を作り終えてさあ出掛けるぞ、というときになって、どこへ行っていたのかシキが丁度戻ってきたのだ。今日の彼は黒のポロシャツに黒のジーンズという、シキにしては割りとまともな服装だ。昨日のあの出来事のおかげでまともにシキを見ることのできないアキラはわざと源泉を見上げていた。

「そうかそうか、皆アキラを心配してんだな。悪かったな、俺の嫁さんで」

 にっと笑った源泉の足をアキラは踏みつけたので、同世代の家族が夫に向かって殺人的な眼光を放ったことに気付かなかった。

「……心配って、何だよ?」

 肩にかかっていた腕を無理矢理外しながら尋ねると、痛む足をかばって立ちながら例の辻斬りってやつだと源泉は言った。アキラクラスのストリートファイターを闇討ちする神出鬼没のレアモンスター。だから揃いも揃ってついてきたのか。ようやく合点のいったアキラは源泉と笑顔のガン垂れ合いを続ける家族を振り返った。相変わらずナノは何を考えているのかわからないが、リンもケイスケも彼を心配してくれていたのか。しかしだとしたらシキは何故…………?
 辻斬りに関して疑念の晴らしきれないシキであったが、身内に犯人がいるというのは非常にめでたくない。そのためアキラは無理矢理シキへの疑いを頭の外に追いやると、

「他に何か必要なものがあったら電話してくれ。すぐ持ってくるから」

「ああ、ありがとな、アキラ」

 新妻(?)の名前を呼ぶ声に特別な感情を滲ませて、微笑む源泉が早く帰ってくればいいのにとアキラはひそかに願ったのだった。






 慣れたくも無い一人寝にアキラがすっかり慣れたころ、ようやく源泉が仕事を通常業務に戻せる目処が付いたと電話をよこしてきた。この分なら今日にも夜は戻れるかもしれないと聞いて、素直にアキラは喜んだ。
 今日は土曜日、明日は日曜日。そのまま一日の休日に入るので、夕飯には晩酌をつけてやろう。夏の蒸し暑い夜はキンキンに冷えたビールと冷酒と、どっちのほうがいいだろうか。しばらく悩んだ結果、結局両方用意することに決めてアキラは買い物に出掛けた。
 普段あまり感情を明確に出さないアキラが珍しくそわそわしているので、この土曜日もアキラが退屈しないように気を使ってか家にいたケイスケは何か言いたげに彼を見つめた。

「買い物出てくる。夕飯少し遅くなるから」

 源泉の好物ばかりを頭に思い描いていたアキラには、呼び止めるケイスケの声は届かなかった。








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