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 刺身と、辛子レンコンと、豚の角煮に冷奴。なめこのおろし合えに豚の腸詰。寿司も取ろうかと思ったが、それならいっそ刺身も一緒に注文してしまった方がいいだろうか。
 とにかく材料を詰め込んだビニール袋を提げて帰宅したアキラは、やけに家中が静まり返っていることに首を傾げた。と言ってもいるのはケイスケとナノくらいなものだから、二人が自分の部屋に入ってしまっていたら音がしないのも当たり前だ。だが普段ならアキラの声に必ず顔を出すケイスケが姿を見せないのが奇妙で、アキラは釈然としないまま廊下を進んだ。
 とりあえず、まずは豚の角煮から取り掛かろう。風呂の水は入れ替えてあるし、ビールは冷蔵庫に常備してある。氷もまだ残りがあったし、そうそう、グラスを冷凍庫に入れておかねば。両手にビニールを提げたまま廊下を進むアキラは料理の段取りに気を取られている。この暑さだし、酢の物系も何か用意しようか。確かところてんが冷蔵庫にまだあったはず、と磨きぬかれた廊下を無意識に見つめながら歩くアキラの視界の隅を、誰かが横切った。

「………………?」

 アキラは立ち止まって廊下の奥を見つめる。人が横切ったのは茶の間の辺りだ。ならばケイスケだろう。ナノがあんなに早く家の中を歩く姿は見たことが無い。
 小首を傾げたアキラはビニールを廊下の脇に置くと、茶の間へ向けて足を進めた。

「ケイスケ?」

 電気もつけていない茶の間は薄暗い。それでも夕焼けのおかげか見通しがきかないというほどでもなく、無造作にアキラは茶の間に踏み込んだ。その途端、

「うわぁっ……!」

 突然視界が反転する。しかしすぐに背中に誰かの腕を感じ、後頭部を打ちつけることは無かった。一瞬何が起こったのかわからないアキラに何者かが覆いかぶさる。茶色い髪、白いシャツ。ケイスケだ。

「ケ、ケイスケ!?」

 驚いたアキラはすぐさま立ち上がろうともがいたが、どういう具合かすっかり押さえ込まれていて上体を起こすことすら出来ない。わけがわからずに見上げたケイスケは、いつかの酒盛りのときと同じように座った眼をしていた。

「…………アキラァ」

 暗い目を細めてケイスケが笑う。顔にかかる吐息がアルコールの匂いを孕み、アキラは顔を背けた。一体どういうわけかわからないが、とにかくケイスケは酔っているようだ。
 顔を背けたアキラの視界の端に、転がった空瓶が映る。レモンハートと言うラベルのラムは、先日から台所に置きっぱなしにしていたものだ。

「ああ、やっぱりいいにおいだ」

「な、何言ってんだお前」

 首筋に顔を近づけられてアキラは思わず身を竦めた。普段の気が弱そうなほど優しいケイスケの口調は影を潜め、どこか嘲弄を含んだ物言いに警戒心が首をもたげる。どうにか身体を起こそうにも普段からはうかがい知れないケイスケの力で押さえつけられ、とても抜け出せそうに無い。

「ひどいよなぁ、俺が何度も呼んだのに無視するなんて」

 咽喉の奥でくつくつ笑ったケイスケは、もがくアキラの手首を押さえつける。確かに出掛けに何か声をかけられたような気がしたが、そのことを言っているのだろうか。忙しく頭を働かせるアキラの首筋に熱い吐息がかかった。まずい、このままでは何をされるかわからない。それでもアキラは拳を振り上げることを躊躇った。ケイスケは義弟で、酔っ払っているだけなのだ。普段一番アキラを気にかけてくれる優しいケイスケを殴り飛ばすのは抵抗がある。

「どうしたんだよ、お前変だぞ?」

「変? そりゃ変にもなるさ。こーんな美人が毎日傍で暮らしてて、変にならないわけがないだろ?」

 醜くゆがんだケイスケの笑顔。アキラの脳裏にいつも何かもの問いたげに自分を見つめる義弟の姿が浮かんだ。彼はもうずっと長いことアキラをこういう目で見ていたのだろうか。

「よ、よせ、いいかげんにしろ!」

 しどろもどろになりながら声を上げるアキラを見下ろしてケイスケは笑う。獲物を前にした猛禽類の笑顔。アキラの背筋を戦慄が駆け上った。そのときだった、はっと表情を変えたケイスケが何故か突然アキラの上から飛びのいたのは。それと同時に何かが畳に突き刺さる。夕日を反射してきらめく細長い金属。

「あーあーあー、ったく、なぁにやってんだか」

慌てて起き上がったアキラがすぐさまケイスケから距離を取るのと、誰かが呆れたような声を出したのは同時だった。

「てめぇ、リン!」

 いつにない俊敏さで戸口を振り返ったケイスケが憎悪に燃える瞳を向ける。その視線の先、庭に面した廊下には、短剣のような武器を手にしたリンが立っていた。

「よくまぁふざけたまねしてくれたね。この代金は高くつくよ?」

 余裕の表情のリンはゆっくりと茶の間へ入ってくると、アキラとケイスケの間に割って入った。彼は優雅に身を屈めると、畳に突き刺さっていた短剣を引き抜く。機動力に重点を置いたその武器は、スティレットと言っただろうか。繊細なまでの両手で武器を構えたリンは真っ直ぐにケイスケを睨み付けた。

「悪いけど、アキラは俺がいただくよ」

「はぁ!?」

 リンまでもがおかしなことを言い出したので、思わずアキラは声を上げていた。助けに入ってくれたかと思ったら、一体何を言い出すのだろうか。だが背後のアキラの困惑などよそに、リンとケイスケの対立は続く。

「誰がお前なんかに渡すかよ、チビガキが」

「言ってくれるねぇ。童貞くん?」

 ビシッと二人の間に亀裂が入ったように部屋の気温が一気に下がる。どこからかスタンガンのようなものを取り出したケイスケの頬が引きつった。どうやら図星らしい。

「うるせぇよ。初恋の君が忘れられなくて、アキラ追いかけてるクソチビにガタガタ言われる筋合いはねぇな」

 低く地を這うようなケイスケの声音。今度はリンが怒りに打ち震える番だった。

「ふんっ、アキバでメイドにご主人様呼ばわりされるしか楽しみの無いヘタレ男が何言っても負け犬の遠吠えだね」

「黙れ、メイドさんの何が悪い!」

「やかましい、世の中ではそういうのを変態って言うんだよ!」

 何だかどんどん次元の低い争いになりつつあるが、諍う二人の間隔はじりじりと狭められている。今にも一触即発の雰囲気を感じ取ってアキラは思わず怒鳴りつけていた。

「やめろお前ら! 何莫迦なことやってんだよ!」

「こればっかりはアキラのお願いでもきいてやれねぇなぁ」

「悪いね、アキラ。この莫迦ぶっ殺したら、あとでたっぷりいいことしたげるからさ」

 リンが言い終わるのと同時に二つの影がぶつかり合う。ケイスケは一体どこから取り出したのかペンチで応戦し、リンは二つの剣で間段なく攻撃を繰り返す。ケイスケの手からスタンガンが跳ね飛ばされ、リンは不敵に笑って挑発した。流石は元ペスカ・コシカのリーダー。その攻撃スタイルはアキラでさえもが目を見張った。
 だが見蕩れているわけにもいかない。二人を止めて、喧嘩をやめて、わたしのために争わないで〜♪

「いいかげんにしろ!」

 叫ぶと同時にアキラは二人の間に飛び込んでいた。思いがけないアキラの行動に慌てて二人が身を引くが、その拍子にケイスケのペンチがスティレットの切っ先に当たり、細身の剣は高い金属音を立ててへし折れた。

「あっ!」

 あぶないっと二人が同時に叫び、へし折れた剣の切っ先が自分に向かって飛んでくるのをアキラは見た。しまったと後悔する間も無く目を瞑ったアキラの身体を誰かが引き寄せた。とたんに響く澄んだ金属音。いつまでたっても痛覚に襲われず、アキラがそろそろと目を開くと、彼の目の前には薄く輝く青白い刃が突き出されていた。

「…………シキ!」

 三人が同時に叫んでいた。
 アキラの目の前に日本刀をかざし、スティレットの破片を跳ね飛ばしたシキは、侮蔑を込めた表情でリンとケイスケを睨んだままアキラを庇うように抱き寄せている。あっけに取られて見上げた秀麗なシキの横顔に、アキラは残酷なまでの微笑を認めた。

「…………こいつの所有者は、この俺だ」

 ああ、莫迦がもう一人増えた。
 思わず項垂れるアキラを他所に、リンとケイスケが再び闘気をみなぎらせる。一体どういうつもりか、タイミングよく現れた最強の敵。いっそこれが悪夢であればと心の中で投げやりに祈るアキラを後ろに押しやり、シキが隙の無い動作で日本刀を構えた。

「あのな、一応言っておくけどいいかげんにしろよ?」

 最早ほとんどやる気の無い口調でアキラは提案したが、案の定三人同時に却下された。

「アンタまでアキラ狙いとはね」

 リンは素早く一本だけになったスティレットを構える。

「誰がお前なんかに渡すかよ」

 ケイスケは右手にペンチを構えたまま、ジーンズの尻のポケットに左手を伸ばした。

「狂犬どもが……」

 睨み合う三人。どうせなら三人共倒れになればいいのにと、一人蚊帳の外のアキラは心底願う。こんな莫迦どもに彼が付き合う必要など無い。さっさと決着をつけて、終わりにして欲しい。
 だが全てはまだ終わりではなかった。

「…………茶番はそこまでだ」

 ぎしっという廊下の軋む音に、全員が振り返った。最初に見えたのは銀色に鈍く光る鉄の筒。カチリと言う激鉄を起こす音でそれが銃だとすぐにわかる。銃を構えるのは褐色の肌の逞しい手。少し皺の寄ったシャツの腕の先には、広く頑健な胸が続く。源泉だ。

「源泉!」

 無意識に叫んだアキラに、口元だけで源泉は笑いかける。

「遅くなって悪かったな。まさかこんなことになってるだなんて思わなくてよ」

 源泉は左手に提げていたジャケットを床に放り出す。

「いい度胸だお前ら。この際だからはっきり言っておく。アキラは身も心も余すところ無く俺のもんだ。俺の嫁さんに手ぇ出すやつは、親子兄弟だろうが全員ぶっ殺してやる!」

 莫迦、更に一名追加。
 もとみぃ〜、と情け無い声を出してアキラは本当に頭を抱えた。気付けば茶の間は地獄絵図だが、お笑い要素が抜けきらないのは何故だろうか。すると今まで黙っていたリンが小莫迦にしたように短く口笛を吹いた。

「言うねー、お父様。いい機会だからバトルロイヤルいってみる?」

「待ってろよ、アキラァ。勝者になってすぐに再婚してやるからなぁ」

「下衆が…………」

「受けて立ってやろうじゃねぇか。覚悟しろよクソガキども」

 青筋立てて睨み合う四人の血縁者。もうどうにでもしてくれとアキラが内心でキレちゃったのも無理は無い。誰が勝ったところで、アキラの心は決まっている。勝敗直後の疲労時を狙ってぶっ飛ばし、全員正座で二時間説教。それでも気がすまなかったら離婚して実家に戻ってやる!
 腹を決めたアキラを他所に、ついに戦いの幕は切って落とされた。リンが凄まじいまでの敏捷さで源泉の懐に飛び込むが、発砲に進路変更を余儀なくされる。それを合図にリンに向かってシキが刀を振り下ろし、ケイスケがペンチを源泉に投げつける。四者入り乱れての混戦だったが、最も自分が戦力において劣ると判断したケイスケが、突然何かを畳に向かって投げつけた。

「うわっ!?」

 突如視界を奪ったもうもうたる煙。一寸先も見えずにアキラは硬直した。

「な、何だ!?」

「はははっ、気をつけろよ源泉、これは小麦粉だ!」

「小麦粉? 何考えてんだよ莫迦ケイスケ!」

「姑息なまねを…………」

 誰かが咳き込む音、畳を踏む音はしても、お互いの姿さえ見えない。

「ふんっ、何とでも言え。けどなぁ、この中で発砲なんかしたら、粉塵爆発を引き起こしてアキラもろとも吹っ飛ぶぜ!」

 ゲラゲラと笑ったケイスケの声にその場にいた全員が息を呑む。武力が無くとも知力でカバーと言ったところか。こうなると引火の危険性のある銃も、火花を散らす結果を引き出しかねない刃物も使用不可能だ。残るは肉弾戦のみか。

「くそっ、こうなったら仕方がねぇ!」

 源泉の声とともに、誰かを殴りつける鈍い音。

「源泉!?」

 アキラは手探りで白い煙幕の中を進んだが、何かに躓いて畳の上に転がった。頭上では誰かが呻く声や肌に拳がめり込む音。何が起きているのかわからないが、何が起きているのか手に取るようにわかる。一体何がどうしてこんな莫迦なことになったのか。アキラはあまりの怒りに身体が震えるのがわかった。
 莫迦な源泉、莫迦なケイスケ、莫迦なシキ、莫迦なリン。そして何より自分の莫迦さ加減に嫌気がさして、ついにアキラは大声で叫んでいた。

「こんな家、出てってやる!」






 どれくらい経ったのだろうか。すでに叫び声も戦う音も、何も聞こえなくなっていた。
 アキラは畳の上に後ろ手を付いたまま、薄れゆく白煙の中にただ一人佇んでいる人影を呆然と見上げていた。もうもうと立ち込めている煙はすでにかなり薄くなっている。目に入った煙のせいで涙が浮かび、アキラはしきりに目を擦った。

「…………源泉?」

 涙にぼやける人影は微動だにしない。

「ケイスケ…………?」

 しかしやはり人影は肯定も否定もせず、ただじっと立っている。アキラは続けてシキの名前もリンの名前も呼んだが、やはり人影はアキラを見下ろすばかりで返答をしなかった。
 まさか誰かが立ったまま気絶でもしているのだろうか。小さく咳き込みながらアキラが疑問に思い始めたころ、ようやく煙がほとんど晴れた。アキラの前に立っているのは背の高い男。無造作に伸ばされた髪、白い肌、そして青い目。    ナノだった。

「ナ、ナノ…………?」

 思いがけない相手にアキラは思わず声を上げる。何故ここにナノがいるのだろうか。どうしてナノだけが立っているのだろうか。
 混乱に立ち上がることも出来ずにいるアキラに、どこか遠いところを見つめるような空虚な目をナノが向けた。

「…………アキラ」

 異国の言葉を紡ぐような声音に、一瞬アキラは自分の名が呼ばれたことに気付かなかった。何しろナノが彼の名を呼んだのは初めてのことである。言葉と言うより音楽的なその声にアキラは頬に血が上がるのを感じた。
 煙幕の中に佇むナノは左手を差し伸べる。おいで、とでも言うようなその仕草。何故か反抗心を抱くことも無く、アキラは魅せられたようにナノの手を取っていた。
 ナノの手は大きく冷たく、意外なほど滑らかだった。彼はアキラの手を引いて茶の間を出た。足元に誰かが倒れていたが、アキラは気に止めなかった。もう何がどうなってもいい気分だった。いっそこのままナノに連れられて、どこか遠いところへ行ってしまうのもいいかもしれない。あの無益な戦いの勝者がアキラを手に入れられるなら、それがナノであって何が悪いだろう。ナノが勝ち、アキラは彼についていく。ただそれだけのこと。
 熱に浮かされたようにアキラはただナノの後姿だけを見つめていた。緩やかにウェーブした金に近い茶色の髪。ナノはアキラの手を引いてどこかへ向かって歩き、ついに振り返った。そしてその場所は    台所だった。

「…………え?」

 面食らって立ち止まったアキラに、ナノは白い指で流しの上の調理台を指差す。台の上には狐色のコロッケが。揚げたてなのかジュウジュウという微かな音が聞こえている。ナノの好物で唯一の料理のレパートリー。
 アキラは呆然とナノを見つめて言った。

「…………腹、減ったのか?」

 ナノはただこくんと頷いた。





〔おわり〕







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