その果物は愛情の味がした






 雪深く人家のまばらなその土地の夕暮れはとても早い。夏ならばまだまだずっと明るい時間だというのに、この日などはすでに空は群青色に染まっている。今は丁度夕餉の時間らしく、数少ない家々の煙突からは、緩やかに煙が立ち昇っていた。
 その中にまだ漸く準備に取り掛かったばかりの家があった。居間では最早細いとうより薄いといってもいいほど痩身の男が本を読んでいる。リーマスだ。本来ならばもう夕食の時間なのだが、今日は泊まりに来ている友人が作ってくれることになっているのだ。
 まだかな、と約束よりずっと遅れてきて先ほどやっと準備に取り掛かった友人をリーマスは振り返る。正面のキッチンではシリウスが普段どおり何かぶつぶつ文句を言いながら鍋を磨いていた。あれではまだまだ時間がかかりそうだ。ご飯を作ってくれるのは嬉しいが、あまり待たされるのは精神衛生上良くはない。どうやらここ一ヶ月ばかり使っていなかった鍋が錆びてしまっていたらしいが、そもそも約束に一時間以上遅れてきたのがいけないのだ。故にシリウスはリーマスの不機嫌にいつもの悪態はつけなくて、鍋に向かって文句を垂れているらしい。全く、莫迦莫迦しい限りだ。
 それでふとリーマスはこの日に限ってある疑問を抱いてしまった。
 彼は読み止しの本をテーブルの上に置くと、難しい顔で洗ったばかりの鍋を確かめているシリウスを見る。どうして自分はこんなやつが好きなのだろうか。口は悪いし行動は荒っぽいし、何かと煩いし。もっとましな相手は他に幾らでもいたような気がするのだが。
 リーマスは自分の考えに憮然としてソファで脚を組んだ。背凭れに寄りかかって対面式キッチンのシリウスを睨むように見つめる。今度は野菜を洗い始めたようだ。やれやれ、やっと調理にとりかかったか。まぁ、少なくともシリウスは料理は上手いのでその辺は凄く役立っていると思う。学生の頃は食事などほとんど学校側が用意していたので、それについて知ったのは卒業後のことだ。いや、昔から料理が好きだとは言っていたような気がする。イギリス人には珍しい、食べることにも作ることにも熱心なやつなのである。そしてリーマスは逆に食べることにも作ることにも熱心ではない人間だった。
 人間の食生活は子供の頃の体験によってかなりの部分が左右される。親が嫌いな物は不味いと思い込むので嫌いになるし、食卓にあまり出されない物はやはり好きになることは少ない。家族そろって食事をするなどのことが少ないと、『食事=楽しいこと』という図式が無いので、食事そのものに関する興味が薄れてしまう。リーマスなどはその典型例であろう。
 リーマスは極端にスキンシップの薄い子供だった。もし人狼などに噛まれたりしなければそんなことはなかっただろうが、仮定の話をしても意味は無い。とにかく人狼に対する風当たりは凄まじく、幸い子供のリーマスはむしろ同情と憐れみの視線をよく向けられた。けれどそれが敵意と同じほどに彼や家族を蝕み、リーマスの一家はほとんど隠れるようにして暮らしていたのだ。親戚づきあいも無いし、両親は息子の病気に疲弊してしまった。あの頃からしてどこか普通の家族とは言い難かった。これではスキンシップも何もあったものではない。
 それでもいつかは誰かを好きになるのだろうと小さい頃のリーマスは考えていた。ましてやホグワーツに入学を許されたのだから尚更だ。周りには沢山の同年代の少年少女がいる。初めはかなり戸惑ったが、慣れれば楽しい学校生活だ。初めの頃はわからないことや気をつけることが多く、また病気の所為で余裕が無く、自分を守るので精一杯だったから、それはもっとずっと先のことだろうと思っていた。
 ところが何の因果か好きになった相手は女の子ですら無く、どういうわけが好意を自覚したのは出会ってから何年も後のこと。やっぱりあれなのかな、とリーマスは何かを煮込み始めたシリウスを目で追って考える。漸く精神的に余裕の出てきた、思春期真っ盛りの頃にあんなことになったからだろうか。
 満たされなかった愛情や感情を意識的に閉じ込めて幼年期を過ごしてきたリーマスとは違い、名家の跡取りで注がれた愛情にも自信があるだろうシリウスは、ある意味理想的な存在である。羨んだことなど無いと言ったら嘘になるその相手に、直接肌を重ねることの心地良さを教えられたからだろうか。
 確かにあのときからリーマスの中でシリウスは少し特別な人間になった。誰だって初めての相手には特別な感情を抱くだろう。もともとシリウスはジェームズやピーターと同じく、特別に大事な友人だった。他の二人と同じだったのだ……と思う。
 彼らは強くて勇敢で、ただ優しいだけの人間ではなかった。転んだからといって簡単に手を差し伸べてはくれないし、失敗したからといってやり直しを手伝ってはくれない。けれども必要ならばいつでも手を貸してくれるし、立ち止まって待っていてくれる。依存と同義の優しさは無く、決して寄りかからせてはくれないところが好きだった。最高の友人たちだし、生涯の親友だと思っていた。だがそれはやはり友情としての愛情だった。それが今ではこれだ、とリーマスは面白くも無さそうに何かを洗い始めたシリウスを見る。するとそのとき丁度顔を上げたシリウスと目が合った。彼はむっとしたように、

「おい、何だよさっきから」

 どうやらリーマスの剣呑な視線には気付いていたらしい。シリウスは怒ったように持参した赤い縁取りの白いエプロンを着けた腰に手を当てる。水の流れる音を耳にしながらリーマスは呟くように、

「……あのとき押し倒されなかったら、ぼくは君を好きにはならなかったのかな?」

 それは問いかけやましてや嫌がらせなどではなく、単なる自己疑問の音声化であった。だが言われた方は意味がわからない。シリウスはひょいと片眉を上げ、何を言ってるんだこいつは、というような表情をした。それを器用だなと思っているリーマスに、

「……ったく、仕方ねーな」

 何を勘違いしたのかシリウスは再び下を向いて流しから何かを取り出した。彼はそれを小さな器に盛ると、首を傾げるリーマスの方にやって来る。何かと見ていれば、テーブルに出されたそれはいちごだった。夕食が遅くて嫌味を言っているのだと思われたのだろうか。

「ヘタは自分で取れよ」

 それだけを言い残してシリウスはキッチンに戻る。残った分のいちごを別の器に取り分けると、冷蔵室に入れてゆく。デザートのつもりだったのだろうか。
 シリウスの勘違いではあるがせっかくだから美味しくいただくことにしよう。リーマスは考え事をやめていちごに手を伸ばす。事実空腹ではあるし、腹が減っているときに考え事をしても、暗いことばかり思い浮かんでよろしくない。水滴をつけて輝く果物の前に、つまらない考えなど立ち向かえる筈が無いのだ。
 リーマスはついつい嬉しそうにいちごを頬張る。ああ、糖分が身体に染み渡る。どうせあんなことは幾ら考えても答えが出るわけではないだろう。ならばいつかシリウスを苛める材料として取っておくことにしようか。
 すっかりいちごを食べ終えて機嫌を回復したリーマスは、器を持って対面式のキッチンに向かう。シリウスは忙しく包丁を動かす手を止めてそれを受け取った。

「なぁ、どうしていちごなんかあったんだ?」

 リーマスの素朴な疑問に器に入っていたヘタを捨てながらシリウスは、

「さっき買い物ついでにシャンパン買ったんだよ」

 そう言って足元の紙袋から高そうな梱包の箱を取り出す。スパークリングワインなどではなく、正真正銘のシャンパンだ、と飲んだくれの料理人はニヤっと笑う。料理と同様酒にもあまり興味の無いリーマスだが、いちごはデザートではなくシャンパンに添えるために買ったらしいことは判った。今のうちに洗っておいて、後で楽をしようと思っているのだろう。シャンパンは冷やさなくていいのかと問うと、飲む一時間くらい前から氷水につけるんだと嬉しそうに言った。どうやら真夜中の小休止に飲むつもりらしい。ならばいちごはおやつ代わりか。

「あ? だってお前、シャンパンだけじゃ嫌だろう?」

 さっぱり辛口の白のシャンパンだけでは、リーマスは嫌がるだろうと踏んでの買い物だ。ひょっとしたら遅刻のご機嫌取りもあったのかもしれないが、一応気を使ってくれたらしい。それが微笑ましくてリーマスは久々にちょっと笑った。空腹がやや満たされた所為で気分が大らかになっていたのもあるだろう。それを見て何故か眉を顰めたシリウスがちょっと、と指で顔を寄越すよう合図する。

「え、何?」

 ファンデーションでも崩れていたのだろうか。だがもちろんそんなわけはなく、呼ばれるままにとてとてと近づいたら、隙有りとばかりにキスをされた。一瞬何が起こったのかわからないリーマスが瞬いていると、何事も無かったようにシリウスは食事の用意に戻る。

「あとちょっとだから、待ってろよ」

 言われなくても待っているが、毒気をすっかり抜かれてしまったリーマスは頭を掻きつつソファへと戻った。あれはあれで行動のつかめない男だとリーマスは思う。でも悪い気はしない。まぁ、この際もう何でもいいか、と若者らしくない結論に達しつつ、リーマスは読み止しの本を手に取った。
 どうやら遅まきながら、最後の一軒にも暖かな夕食の時間が来たようだ。






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