シャンパングラスに沈む現実と理想
夕暮れ時の空は寂しげな赤から凍えるような青へと変化していった。この日は今年一番の寒さで、けれど幸い好天に恵まれたため、気温の割に夕暮れになっても人通りは多かった。もちろんダイアゴン横丁も例外ではなく、外食をしにきた家族連れや買い物客でにぎわっていた。
その中をのんきに歩く長身の男が一人。右手には買い物袋を抱え、悠々と人込みを掻き分けて歩いている。シリウスである。
彼は何件かの店の前で立ち止まっては暫し思案する様子を見せ、場合によってはドアに手をかけた。現在シリウスは夕食の食材を調達中なのである。いや、それどころか明日の朝食分も含めての買い物なので、結構な量になってしまった。
最近覚えたばかりの凝った料理を作ってやろうと思いさえしなければこんな大荷物にはならなかったのだが、もう買ってしまったのだから仕方ない。あいつの家にまともな食糧があるとは思えないからな、とシリウスは一人憮然としてしまった。
あいつ、とは言わずもがなのリーマス・J・ルーピン氏である。幾ら病気があるからといってそれにしても痩せぎすっちゅーか、痩せすぎっちゅーか、とにかくシリウスをハラハラさせてくれる肋骨っぷりの男である。あんまり痩せすぎると男でも女でも骨が出っ張って触りごこちが良くないとシリウスは思うのだが、そんなことを言ったところで鼻で笑われるのが関の山だ。だからシリウスは食べ物にはあまり興味の無いらしいリーマスの体質改善を狙って、時折食事を作りに行ってやるのが最近の恒例行事だった。幸いリーマスは出された物ならば食べないことはない。出されないとほとんど食べず、今日は板チョコしか食べてないとか言い出す恐ろしい人物だ。雪山で遭難したわけでもないくせに、何でチョコばっか食ってるんだと叱ってみても聞く耳を持たない。放っておいたらシリウスの分までチョコを用意しそうなので、やはり自分で作るしかないのだ。ああ、何であんな奴を好きになってしまったのだらうか。
そもそもシリウスに女の好みは無かった。強いて言うなら、髪の長い子がいい。そして結婚するなら料理の得意な女の子だと小さい頃から決めていた。そんで二人して夕食を作ったりするのが夢だった。ところがどうだろう、現実には今現在の恋人は料理が得意どころか出来れば手を出さないで欲しいし、好き嫌いが激しすぎて苛々する。いや、それどころか女ですらないのだからとんでもない話だ。よく実際に好きになる相手は理想とはかけ離れているというが、それにしても酷すぎやしないだろうか。
「……何か段々憂鬱になってきた」
思わず口に出して呟いてから、シリウスは盛大に溜息をついた。よそう、こんなことを考えていたからって、知能指数が増えるわけでも、空から金が降ってるわけでも、エロマンガ島へペアご招待券が当たるわけでもないのだから。
シリウスは軽く頭を振って気分を変えると、再び歩き出した。
「えーっと、買い忘れは無いよな……?」
どこかの主婦みたいな言い草だが、本人は至って真面目である。空いている左手で今日買い揃えた物を指折り数えてみる。ビールくらいはあったはずだから、これでもう充分だろう。見れば空もすっかり暗くなってしまっている。いかん、これは遅刻だ。
慌ててコートの内ポケットから懐中時計を出してみると、約束の時間はとっくに過ぎてしまっていた。ああ、全てはこの混雑の所為だ!
シリウスはあわてて引き返そうと歩き始める。どこか煙突飛行所を見つけなければ。しかし人間急いでいるときに限って何か発見をしてしまうもので、この日シリウスもうっかり目の端に酒屋を発見してしまったのだ。
基本的に言ってシリウスは酒好きである。それはブラック家代々の気質だと彼は言い張るが、リーマスは単なる飲んだくれだと言って聞いてくれない。秋に生牡蠣にウィスキーをかけて食い、リーマスにかなり白い目で見られた記憶も新しい。でも本当にそういう食べ方はあるので、後になって懸命にそのことの書いてある本を見せてどうにか納得させた。そしてこの日シリウスは、いつもは素通りしている酒屋にふらふらと入り込んでしまったのだった。
……シリウスが酒屋から出てきたとき、彼の荷物は一つ増えていた。新たな紙袋には高そうな梱包の酒が一本入っている。モスグリーンに金の箔で年の刻まれたそれは、『ドン・ぺリニョン』。それも一般向けのリーズナブルなやつではない。だが坊ちゃん育ちでたまたま財布に金の入っていたシリウス・ブラック氏は、恋人に怒られることなどドーヴァー海峡の遥か彼方に置き忘れ、うっかりというよりちゃっかり購入してしまったのである。
今にも箱に頬擦りしたいのを堪えて、シリウスは再び歩き出す。いかんいかん、それではただの変態だし、そもそも時間がどんどん過ぎてしまっているのだ、いい加減本気で急がなくては。しかしそうなってくると段々足取りは重くなる。無駄な買い物をして遅刻したと知れたら、何をされるか判らない。思わず恐ろしい想像をしてシリウスは身震いしてしまった。な、何かご機嫌取りにお土産でも買っていくべきだろうか。
ふと辺りを見回したシリウスの目に、果物屋が飛び込んできた。そうだ、パン屋はもう閉まる時間だし、ケーキよりは果物の方が自分も嬉しい。よってシリウスの足は再び違う方向に向けて歩き出してしまったのだった。
ルーピン宅に着いたとき、案の定痩せすぎの恋人は恨めしげな目でシリウスを睨みつけてきた。遅刻したことより、腹が減って苛立っているようだ。普段ならとっくに何か食べている時間なのに、と文句を垂れる。どうせ碌なもんじゃないくせに、とは遅刻した手前言うわけにいかない。
「わかった、悪かったよ。すぐ作るからちょっと待ってろ」
ふんふんと鼻を利かせて買い物袋を覗き込もうとするリーマスを追い払い、シリウスはキッチンに入る。持参したエプロンをつけ、すぐに道具を取り出し始めた。一方追い払われたリーマスは早くね、と刺のある言葉を残して居間に向かった。全く、どうしてこんなやつを好きになったんだか。
シリウスは鍋を取り出して蓋を取る。覗いて見れば素敵な錆び加減。やってられるかこんちきしょー。
仕方なく杖を取り出して一振りし、たわしが勝手に鍋を洗ってくれている間に自分はサラダ用の食材を洗い始める。ああもう、遅れたのは俺が悪いが、鍋くらいきちんと保管しておけよ、といらないことまで考えて、シリウスは一人でぶつくさ文句を垂れた。何もかもリーマスなんぞを好きになったのが間違いだったのだ。
しかし、考えてみれば何でだろうか。4年生くらいまでは手の掛かる友人くらいにしか思っていなかったのに。何か結構わがままだし、怒らせると何するかわかんねーし。女とは違った意味で非常に扱いにくい。きっとリーマスのことだから、これからシリウスが浮気をしたとしても、
『へぇ、そう』
と言って済ますに違いない。けれどその後、距離を置くようになるのだろう。よそよそしく、けれどとても自然に。そうしたらきっとリーマスにはもう寒いと言ってベッドに入り込む相手などいなくなるだろう。腹が減ったと文句を言える相手などいないだろう。ならそんなことはしない。扱いづらいということは退屈もしないということだろうし。……恐い目には遇うかも知れないが。
むっつり考え込んでいたシリウスは洗い終えた野菜をまな板の上に乗せ、代わりに鍋を流しに置く。水で軽くすすいでから復元の呪文を唱えると、何とか元に戻ったようだ。それに新しく水を汲んで火に掛ける。沸騰するまでの間についでにさっき買ったいちごも洗ってしまおうか。それにしても何かさっきから視線が突き刺さるのは気の所為だろうか。
少し上目遣いに居間の方を見ると、仏頂面のリーマスがこちらを見つめていた。ううう、何か恐ろしいぞ。慌ててシリウスは視線を手元に移し、目を逸らす。虚ろな目で見つめられるのがこんなに恐いとは思わなかった。食べ物の恨みは恐ろしい。だがまぁ、それなりに食欲があって食べ物に執着しているということなのだからいいことなのだろう。だがやはり無言でいるのに堪えられなくて再び顔を上げると、丁度リーマスと目が合った。
「おい、何だよさっきから」
怒った振りをして声をかけたら、リーマスはやっぱり虚ろな目をしたまま、
「……あのとき押し倒されなかったら、ぼくは君を好きにはならなかったのかな?」
などとほざきやがった。え〜え、どうせ酔っ払って押し倒した莫迦ですよ俺は、と思わずシリウスは心の中で逆切れしてみたり。そんなに腹が減ったなら、いつもどおりチョコでも飴でもホットケーキでも食ってればよかったのに。
それでもどんなに心で思っていても遅刻したのは自分なので文句を垂れるわけにもいかない。仕方なくいちごを与えてみたら、簡単に機嫌を直した。『果物でご機嫌取りをしよう大作戦』見事に成功である。子供みたいな奴だなとシリウスは自分のことは棚に上げて可笑しくなった。そのうちご機嫌とまではいかなくともフレンドリーくらいにまではなってくれたリーマスは、器を持ってキッチンへやって来た。何でいちごなんか買ったのかと訊かれて正直に答えるわけにもいかず、先ほど買ったシャンパンを見せる。酒には興味の無いリーマスはさしたる感慨も無さそうだったが、後で飲もうと言うと意味を悟ったのか仕方ないな、とこの日初めての笑顔を見せた。意外にも怒られなかったのでシリウスはちょっと嬉しくなり、リーマスにキスをした。それからまぁ、所詮現実なんてこんなもんだと料理を再開したのだった。
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