■□■ 真夜中の訪問者 □■□
夜の静寂を乱さぬよう、山本はそっと引き戸を開けて玄関へと滑り込んだ。築年数はかなりになるが、一向に滑りの悪くならない表戸に心の中で感謝しつつ、山本は足音を殺して家へと上がる。テレビドラマの忍者のように、大げさな動作でそっと床を踏みしめ、風呂場へ向かう。脱衣所に置いてある洗濯機に靴下とハンドタオル、リュックの中の仕事着を放り込み、冷たい水で手足を洗って再び廊下へと戻った。来たときと同じように大げさな仕草で足音を殺しながら、そっと自室のへと向かった。
細心の注意を払って開いた襖の向こうでは、夜の帳が八畳の部屋を包み込んでいた。そこは山本の私室であり寝室であり、つまりは同居人である雲雀の部屋でもある。暗闇に慣れた目を凝らさずとも、畳の上に敷かれた一組の布団が見て取れた。
これまたそっと部屋に入ると、後ろ手に襖を閉めて山本は布団へと這うように近付いた。鼻の下まで布団に隠れた雲雀が、切れ長の目を閉じて眠っているのが見える。だが何しろ『葉が落ちる音でも目が覚める』とのたまう雲雀であるから、とっくの昔に目覚めているのかもしれない。
音を立てないようにリュックサックを下ろし、山本は布団の枕元に胡坐をかいて座った。時期によっては午前様も珍しくない板前という職業柄、遅く帰るのは今日が初めではもちろんなかった。そういうときは先に寝ててくれな、と山本が言うまでもなく、自由気ままな雲雀はさっさと寝てしまうのがいつものことだった。それどころか、一体何の職業をしているのだか未ださっぱりわからない雲雀は、明け方に戻ってくることも少なくなかった。そんなときは冷たい布団に入るのが嫌なのか、山本の寝床へ潜り込むのが常だった。そして場合によっては、狭いのか山本を蹴り出すこともしばしばで、けれどそんな雲雀を山本は憎さあまって可愛さ百倍に思う重症っぷりであった。
いたいけとはいいがたい雲雀の寝顔を見下ろしていた山本は、あることに気付いて身を乗り出した。よく見てみればこの布団、山本のものではないか。同居を決めた際に購入した雲雀の真新しい布団とは厚味がまるで違うからすぐわかる。しかし隣にもう一組布団が敷いてあるわけではない。ならば雲雀は、わざわざ山本の布団を選んで潜り込んだのだろう。
そう思うと尚更愛しくて、山本は一人で相好を崩した。大の男が一人で照れている姿はかなり異様であるが、幸いにも観客はいない。山本はでれでれしたまま音も無く立ち上がると、リュックを壁際の定位置に置き、箪笥の上の戸棚から何かを取り出した。
雲雀の枕元に戻ると、山本は手にしていたものを畳の上に乗せ、よっと小さな掛け声とともに上に着ていたパーカーを脱ぎ捨てた。中に着ていたTシャツも脱ぐと、現れたのは無駄のない強靭な肉体だ。若い牡鹿を思わせる躍動的な筋肉と、それを支える機能的な骨格。性別に関係なく多くの人間が見惚れるであろう裸体を晒し、山本は畳の上に膝をついた。
上掛けの端を捲り、山本は布団の中に潜り込んだ。いつも雲雀がそうするように。
雲雀の体温で温もっていた布団は、心地よく山本を迎え入れた。眼下には正体無く眠る雲雀がいる。胸の上に右手を乗せて、無防備に身体を晒すのは、覆いかぶさってきた相手が山本だと知っているからか。それが彼の無条件の信頼の証のようで、山本は益々相好を崩した。もしかしたら、敵意の無い相手だと知っているから、単に無視しているだけかもしれない。
比較にもならない格下だからかもな、と自嘲しつつも、微笑が零れるのを止められず、山本は雲雀の身体を抱き寄せた。やわらかににおい立つ首筋に顔を埋め、くちびるだけでただいま、と呟く。雲雀は微動だにしない。
眠り続ける雲雀の様子に苦笑を零し、山本は彼の膝に手をかけてそっと脚を開かせた。寝巻き代わりの黒い着物が衣擦れの密やかな音をたてる。無防備に開かれた脚のあいだに身体を滑り込ませ、山本は細長い脚を掌で撫で上げた。布団にくるまってどのくらいなのか、高い温度に馴染んだ肌が、掌に吸い付くようだ。
引き締まって美味しそうな脚を辿り、付け根に至った指先に下着の感触は無かった。風呂上りのまま面倒くさくなって布団にもぐりこんだのか、それとも山本のいない寂しさを埋めようと、一人自分を慰めたのか。恋人の匂いに欲情しながら、自慰に耽る雲雀の姿は容易に想像できたが、その一方でそんな面倒なことをするくらいならば、そのうち帰ってくる山本を襲えばいいような気もする。おそらく面倒くさくて風呂上りのまま寝てしまったというのが真実だろう。山本は自分の想像力の逞しさに苦笑し、そのくせできれば自分の不在を寂しく思ってくれていればいいなと都合よく願った。
硬く堅固な長い脚を広げさせ、その一方で着物の合わせをくつろげると、夜目にも眩しい白い肌に山本はそっとくちづけを落とした。呼吸の度に薄く上下する胸。脈動を伝える首筋。肩口には一昨日つけたばかりのキスマークが残り、小さな痣となっている。
かぶりつきたい情動を抑え、山本はうやうやしいくちづけを落とすに留めた。雲雀の眠りを妨げるのは本意ではない。その肌のにおいをかぐだけで、山本の欲情は嫌がおうにも高まる。何も雲雀に反応を強要することはない。
小さな深呼吸で欲求を押さえ込んだ山本は、布団を開きすぎないように苦心して手を伸ばし、枕もとの小さなボトルを取った。先ほど戸棚から取り出したものだ。無理な体勢で零さぬように掌に落としたのはローションだ。それが体温に馴染むのを待って、できるだけ驚かせないように雲雀の最奥に手を忍ばせる。濡れた指先が蕾に到達すると、死んだように大人しかった雲雀の身体がふるりと震えた。そのまま指先を潜り込ませると、むずがるように眉がひそめられた。
「……ごめんな、起こして」
反応を待たず、抱き寄せた耳元にとっておきの優しい声で囁きかける。雲雀は薄く目を開き、常に無い緩慢な仕草で山本を見た。
「すぐ、済ませるから。寝てていいぞ」
言葉と共に咥え込ませた指を増やすと、雲雀の身体がひくんと震えた。しかし嫌がる素振りは見せず、長く息を吐いて目を閉じてしまう。求められるままに腕に抱かれた姿が愛しく、山本は夢中で雲雀にくちづけを送った。
夢とうつつを行きかう身体が他人の体温に馴染むのは早く、山本は短時間で充分に慣らすことができた秘所から、ゆっくりと指を引きぬいた。
ん、と鼻にかかった甘い声を上げた雲雀は、だが薄い瞼を上げようとはしない。官能よりも夢の快楽が彼を捕らえて離さないようだ。普段と違って奔放でも淫らでもない彼の反応に、山本は楽しげに微笑を刻んだ。声を上げて笑いたいところをぐっと抑え、手早くスキンを装着する。普段は雲雀が嬉嬉として着けてくれるので、思えば自分でするのは久々かもしれない。ましてや暗く手元の確認もできない状態で、もたつくなというのは中々難しい話だ。
まどろみの中にある雲雀がいよいよ眠りの底に落ちる前に、山本はどうにか彼の中に潜り込んだ。挿入の瞬間、少しだけ息をつめた雲雀は、瞼を開いて蕩けた視線を山本に向けた。薄く開いたくちびるが、音も無く山本の名を呼ぶ。
「ん? 辛かったか?」
ごめんな、でも止めらんねーんだわ、と困ったように微笑む独特の表情を向けると、意外にも雲雀の腕が山本の背中に回された。指先まで温もった雲雀の手は、汗ばむ山本の背中を抱き寄せる。子供を抱くような仕草で胸を合わせた雲雀は、満足のいったような吐息を一つ零して、再び目を閉じてしまった。いつになく優しい仕草は、山本の疲れを癒すようで、彼もまた雲雀を優しく、けれど力強く抱き寄せた。
暗闇の中、動物のように交合し、約束どおり手早くことを済ませた山本は、荒い息が眠りを妨げぬよう、顔を背けて雲雀を抱き締めた。無意識と意識の狭間にある雲雀は、性欲の充足を今は求めていないだろう。身体は反応し始めているものの、彼の意識は眠りのほうに傾いている。本当は雲雀にも求めてほしいのだけれど、わがままを言って困らせるものではない。
呼吸を整えると山本は、雲雀の眠りを阻害せぬよう細心の注意を払いながら、彼の身体の中から抜け出ていった。引きずり出される肉の感触に、雲雀のくちびるがわななくように震える。いつかと同じように寄せられた眉根が、欲情の火照りの沈みかけた男の目には毒だ。
いつまでもその表情を見ていたいのを堪え、山本は雲雀の肩口に顔を埋める。
「悪ぃ、オレ、やっぱアンタのことすげー好き……」
肌に染み入らせるように囁かれた押し殺した声に、雲雀が言葉を返すことはなかった。
ただ慈悲深い手が伸びて、山本の髪を慰撫するように幾度も梳いた。
山本にはそれだけで充分だった。
〔おわり〕
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