Blindekuh spielen







 それはあまりにも不思議な光景だった。漸く訪れた春の日差しの中、広大な屋敷の庭を、少年が手を引かれて歩いている。抜けるような白い肌、艶やかな黒髪。ほっそりと華奢な手は、彼の祖父と思われる老人によって引かれている。空を仰ぐように見上げた貌の、眸の色はわからなかった。それは少年が、緋色のベルベットの目隠しをしているから。





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 エーリッヒが見上げた古い造りの門は、相手を威圧するような大きさで聳え立っていた。鉄製の壮麗な門は、見る者に温かみをまるで感じさせない。インターフォンで取次ぎを頼んで既に数分が過ぎているが、門が開く気配は無かった。
 それもそのはずであった。漸く現れた家人は、何と車に乗ってやってきたのだ。この門が敷地の入り口に過ぎないことは承知していたが、よもやそこまでとは思いもよらなかったエーリッヒは、暫し呆然とこちらへ向かってくる車を見つめていた。
 映画ぐらいでしか見たことが無いような高級車に乗せられて、エーリッヒはつい自分が興奮していることを恥じた。何しろ車道楽な彼であるから、思わずシートを撫でてみたり運転席の足元を覗き込んでしまいそうになったりする自分を押さえるのは至難の業であった。しかしここで不興を買いでもしたら、せっかくの好条件の仕事が全てふいになってしまう。ここはじっと我慢である。
 せめてこれから彼がすることになるであろう仕事について何か予備知識を得ようと運転手らしき男に声をかけたが、

「…………今に判る」

 そうぽつりと答えたのみで、もう何も応じてはくれなかった。
 仕方なくエーリッヒは短いドライブの間車窓に視線を向けていたのだが、そのとき庭に妙なものが見えた。それは少年で、遠目なのではっきりとはわからないが、どうも目隠しをしているらしい。一体何をしているのかと首を傾げていたら、目的の屋敷に辿り着いたのだった。





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 通された応接間で、エーリッヒは以前面接のときに会ったこの屋敷の執事と向かい合っていた。職業病か表情の欠落した老人は、しかしエーリッヒよりもよほど姿勢がいい。彼はきびきびとした口調でエーリッヒに仕事の内容を説明した。

「貴方にはこの家に住み込みで、ある男性の面倒を見てもらいます。彼の年齢は19歳。鬱の傾向があり、実年齢よりはずっと幼く見えます。知能指数は非常に高いですが、学習障害があり、気管支の機能が常人より弱いです。また発育不全があるため、一ヶ月に一度は必ずデポテストステロンの投薬をすること」

 詳しいことはここに、と執事は何冊かのファイを寄越した。エーリッヒはそれを受け取って軽く流し読みをする。彼は医者であり、今年29になる。以前は大学病院に勤めており、非常に評判も良く期待もされていたが、昨年より実家の困窮が酷くなり、やむなく破格の給料を約束してくれたこの家にやってきたのだ。
誰かの足音でエーリッヒは顔を上げた。続き間になっている居間から、小柄ながらも堂々とした風格のある老人がやって来るところだった。見ると執事は立ち上がって礼をしている。どうやらあの老人がこのシューマッハ家の当主であるらしい。エーリッヒも慌てて立ち上がり、老人がやってくるのを待った。
 老人は今まで執事の掛けていた椅子に腰を下ろすと、深みのあるバリトンでエーリッヒにも座るよう促した。もうすでに70を越えているはずだが、なんと力強い目をした老人だろう。『シューマッハの吸血鬼』と呼ばれた老人を前に、エーリッヒは背筋を正す。彼の一声でヨーロッパの経済が動くとまで言われた男である。現在は現役を引退し、この屋敷で孫と暮らしているが、実質的なシューマッハ家の総帥であり、未だその影響力は衰えを見せていないのだ。
 シューマッハ老は射抜くような視線でエーリッヒを見つめる。自分が品定めされていることにエーリッヒは居住まいを正し、言葉を待った。

「…………君は非常に信用の置ける人間だと、ミュラー氏からうかがっている」

 ミュラー氏というのはエーリッヒがかつて勤めていた大学病院の理事の一人で、彼がこの仕事を推薦してくれたのだ。

「ミュラーはわたしの同窓でもある。勿論信頼しているが、この仕事は何よりも口が堅い人間でなければ任せることは出来ない。その点で、君は自信を持って秘密を厳守することを誓えるか?」

 老人の視線はどんな嘘をも見抜くだろうとエーリッヒは思わず唾を飲んだ。しかし誠実な人柄の彼は力強く、

「もちろんです」

 シューマッハ老はじっとエーリッヒの蒼い目を見つめた後、

「よろしい。では、付いて来なさい」

 そう言って老人らしかぬ機敏な動作で立ち上がった。





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 エーリッヒが案内されたのは、同じ敷地内にある離れだった。しかし同じ敷地内とは言っても、母屋からは少し離れた場所にある。こちらも見事な建物だったが、エーリッヒの目には酷く厳重な造りに見えた。ここにあの車窓から見た子供がいるのだとしたら、少し警戒が厳しすぎやしないか。しかしだからこそ秘密厳守なのであり、その分給金もいいのだ。妙な詮索はすまい。しかしその決意もすぐに吹き飛んでしまった。高級だが窓すらない部屋で、エーリッヒが彼の患者である人物と初めて出合ったとき、少年は縄で縛られていたのだ。

「……………………」

 あまりのことに口がきけないエーリッヒに、シューマッハ老はこともなげに話し掛ける。

「あれが君が世話をするシュミットだ」

 わたしの孫だ、と老人は言う。それからベッドの脇に寝転がっている少年に向かってエーリッヒを紹介する。するとシュミットと呼ばれた少年は寝返りを打ってこちらを向いた。しかしやはり少年の目は目隠しで覆われており、その視線を辿ることは出来なかった。

「な、何でこんなことを……!」

 子供の権利がどうの、そもそも人権がなんのと言いかけるエーリッヒを、老人は煩げに手で制する。

「先ほど庭で散歩をさせていたのだが、車の音に興奮して暴れたので、こうしている。拘束衣では駄目だ。何故か脱いでしまう。だが縄だと……」

 老人が顎で示したように、シュミットは大人しく縛られたまま絨毯の上に転がっていた。彼はあの遊びが気に入ってるのだ、と老人は苦々しげに言う。もしもっと酷く暴れるなら、犬のように首輪でベッドに繋ぐのだそうだ。それでも駄目ならば、麻酔薬であるエチルエーテルを嗅がせると言う。
 シュミットは19歳ということだが、エーリッヒが見た限りせいぜい14,5歳にしか見えなかった。了解を得てもっと近くで見ても、咽喉仏すら満足に確認できない。発育不全にしても重度な方だろう。先の思いやられる気分で立ち上がったエーリッヒを、再びシューマッハ老が促した。





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 離れの居間でメイドがコーヒーを差し出すのを待って、老人は人払いを命じた。これからが本題ということだろう。老人はコーヒーには手も付けずに口を開いた。

「……さぞや驚いたことと思うが、契約するとなればあれはほんの序の口だ。それでも約束が守れるならば、これにサインをしてもらいたい」

 老人はテーブルの端に乗っていた契約書を差し出す。本格的なものだ。条項の数は多かったが、どんな条件でもエーリッヒは飲むつもりだった。

「……よろしい、では重要なことをお話しよう」

 そう言ってシューマッハ老はソファに背中を預けて指を組んだ。

「……シュミットには幾つか問題がある。病気のことも勿論だが、それ以上に精神的なことだ」

 13年前の事件のことを知っているか、と老人は尋ねた。しかしもともとこの地方の人間ではないエーリッヒは正直に知らないと答えた。それに老人は頷き、少し遠い眸をした。

「まだシュミットが6つのときだ。あれの両親が死んだ」

 しかしそれは事故などではなかった。

「……シューマッハ家には幾つか忌まわしい噂がある。シューマッハの女は吸血鬼だとか、稀に生まれる男は悪魔だとか。そんなものは現代科学の前では単なる妬みやそねみからできた誹謗中傷でしかない。だが、事実シューマッハ家の女は精神を病む傾向が強い」

 しかも加虐的な方向に走りやすく、大きな事件を何度も起こしたらしい。だがそれも『吸血鬼』などと人々が噂する所為で、もともと女系家族のシューマッハ家に婿の貰い手が無く、血族結婚を繰り返した所為だと思われる。それに『悪魔』呼ばわりされる男子も、実際にはほとんどが天才であったらしい。しかし遺伝的にシューマッハ家に生まれる男には無精子症が多く、結婚しても子孫を残すことはほとんど無かった。

「わたしは庶民の出だが、妻を貰ってシューマッハ家の人間になった。あの頃でもまだ上流階級ではシューマッハの女を嫁に貰うような輩はいなかったのでな」

 野心のあった老人はつまらない噂より権力と財産を選んだ。実際には妻は人並み以上に美しく、聡明な女性だったのだそうだ。そしてシューマッハ氏は妻への中傷の矛先を逸らせるため、自らを『吸血鬼』呼ばわりさせることにしたのだそうだ。

「……あれは自分が精神を病むのではといつも恐れておった」

 しかし娘が生まれても孫が生まれても、妻に変調の兆しは無かった。ところが、初孫が6歳のとき、事件は起こった。

「避暑のために娘夫婦は孫を連れてこちらに来ていた。そしてある日突然、娘が狂った」

 狂った、とあまりにも淡々と話す老人の口調に、むしろエーリッヒは寒気を覚えた。まさか、と嫌な予感がするが、それは的中しそうだった。

「……娘は夫を刺し殺し、息子も殺そうとした。だが古い猟銃は暴発して、シュミットは生き残り、娘は死んだ」

 実の母に銃口を向けられたシュミットは、それ以来人を見るのを恐れるようになったのだそうだ。

「だから、目隠しを……?」

 腑に落ちないものを感じながらエーリッヒは問う。彼は精神分野は得意ではないが、もう少しやり方があるのではないか。そもそも、対人恐怖症が目隠しで緩和されるとも思えない。

「君は何か勘違いをしているのだと思うが、シュミットは人が恐いわけではない。人を見るのが駄目なのだ。それに、あまり強い光も駄目だ」

 だからああして定期的な庭の散歩以外は、離れに閉じ込めておくのだそうだ。

「とにかく、シュミットはあれ以来心に酷い傷を負い、通常の生活を送れなくなってしまった。わたしの妻も自分の腹から出た娘がああいった最期を遂げた所為で結局精神を病み、最期は自殺した」

 しかしその事件のことは強盗殺人としてシューマッハ氏が処理させたらしい。警察もマスコミも、彼の言いなりなのである。
 シューマッハ老は気の毒そうなエーリッヒを見つめている。その眸に感情を読み取ることは出来ない。

「……シュミットに対しての注意事項は3つ。外へ出さない、投薬を忘れない、そして絶対に目隠しを取らない」

 良いか、と老人は問う。しかしエーリッヒは戸惑って、

「ですが、彼の目は正常に働いているのですよね? 常時目隠しをしていては、本当に視覚に障害が出る危険性もあります」

「それならば大丈夫だ。あの子の部屋には監視カメラがついていて、24時間監視している。対人の可能性のあるときだけ目隠しをさせているから、普段一人でいるときは普通どおり生活している」

 24時間監視、と聞いてエーリッヒは眉を顰める。プライバシーの尊重などは念頭に無いのだろうか。
 それを悟ったのか老人は、

「あの子は以前に何度も発作的な自殺をしたことがある。そのための監視だ。……それに、あれは見られることが嫌ではないらしいしな」

 老人はそう言って忌々しそうな表情を見せた。それが何故かをエーリッヒが問う前に、

「それからもう一つ。シュミットの言うことを一々真に受けるな。子供の戯言に耳を貸すことは無い」

 確かに先ほどのあの様子では、まともな思考の持ち主とは思えない。エーリッヒは戸惑いながらもシューマッハ老に頷いてみせた。

「とにかく、あの子の異常な部分は追々わかってくるだろう。そのとき動転したりしないように構えておいて欲しい」

 必要としているのはビジネスライクで取引のできる医者だ。完全に信頼が置けるようなら、後々もあの子を任せたいと思う、と老人は言う。

「シューマッハ家はあの子で絶える。そしてわたしは確実にシュミットより先に死ぬ。そのときにあの子を任せられる相手が必要なのだ」

 ……つまり、場合によっては全ての遺産を相続したシュミットの後見人になってもらうこともあるかもしれない、とシューマッハ氏は仄めかしているのだ。それがわからないエーリッヒではなく、彼は、

「…………もちろん、お任せください」


 こうして、契約は成立したのだった。










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