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事態が誰かの思い描いたとおりに進み始めたのは、短い夏の終わりだった。突然シュミットがもう見知らぬ相手に抱かれるのは嫌だと言い始めたのだ。それを聞いたシューマッハ老は、暫しの沈黙の末、エーリッヒの意見を求めた。
「……彼はこの数ヶ月で目覚しい精神的成長を遂げています。残念ながらわたしは精神分野は専門ではないのですが、彼の言動が変化していることは誰の目にも確かです」
よって、シュミットの意見を聞き入れるべきではないか、と提案するエーリッヒに老人は厳しい目を向ける。そこへ丁度エーリッヒの助手でもある看護士がやってきて、シューマッハ老に何事か囁いた。老人はふむ、と呟いて尖り気味の顎を撫でながら何事か思案していた。
「……仮にシュミットの言う通りやめたとして、そのかわりはどうするのだ? 言っておくが、あれの自虐的欲求を満たさないと、代わりに加虐的欲求が爆発することになる。その事態は避けたい」
以前に何度かやはりシュミットの性的欲求を満たすのをやめたことがあるのだそうだ。するとシュミットは逆に攻撃的な性格になり、普段以上の問題を起こしたのだ。情緒の不安定さが爆発した結果かもしれない。そうなると程度の差こそあれ怪我人が出ることになる。その事態は避けたいとシューマッハ老は言う。
そのことを知らされていなかったエーリッヒは憮然として腕を組んだ。やはりこの人は何かを隠している。多分この他にも沢山。そんなことを考えているエーリッヒを他所に、老人は不快そうに口を開いた。
「……実は、シュミットがある提案をしているそうだ。見知らぬ男の代わりに、君に相手をしてもらいたいとな」
シューマッハ氏は挑むような視線をエーリッヒに向ける。初め老人の言葉の意味を理解しかねたエーリッヒは、何度も瞬きを繰り返した末、思わず椅子を蹴って立ち上がった。
「な、何ですって!?」
しかし老人の言葉は本当だった。自室のベッドで枕を抱き締めて小さくなっているシュミットは、確かに監視カメラに向かってエーリッヒを要求したのだ。
エーリッヒは今度こそ本当に頭を抱えた。シューマッハ老に促されてシュミットの部屋へ赴き、ベッドで丸くなっていたシュミットに声を掛ける。
「エーリッヒ!」
彼はぱっと飛び起きるとエーリッヒに抱きついた。その背を撫でてやりながら、エーリッヒは冷ややかな視線を送るシューマッハ老を見る。明らかに言い逃れをさせてもらえる雰囲気ではない。仕方なくシュミットを引き剥がし、
「……シュミット、ちょっといいかい? きみは私を選んだそうだけど、そういうわけにはいかないんだよ」
しかしシュミットの返答は単純明快な『嫌だ』、というものだった。困り果てたエーリッヒは縋り寄るシュミットを抱き締めてやりながら、
「嫌だって言われても、私はきみの主治医としてここにいるのであって、えーと、そういったことのために雇われているんじゃないんだ」
しどろもどろなエーリッヒの言葉も、シュミットには届かない。彼はとうとう泣き出しながらエーリッヒに自分が嫌いなのかと喚きだした。そんなことを訊かれても困るエーリッヒは勿論好きだよ、と火に油を注ぐような返答をしてしまう。
「エーリッヒがいい! エーリッヒとならする! エーリッヒじゃなきゃ絶対嫌だ!」
最終的にはシュミットはそれ以外のことを言わなくなり、困り果てるエーリッヒにただしっかりと抱きついていた。こうなってはもうエーリッヒがそれを承諾するしかないだろう。相手が対等な立場の健常者ならば突っぱねることもできるが、何しろシュミットは死亡に繋がりかねない自傷癖のある少年だ。ここで断ったら、最悪の事態を招くだろう。
エーリッヒは泣きじゃくるシュミットの背を擦りながら逡巡する。ここはやはりシュミットの要求通りにしてやるしかないのだろうか。幸いシュミットはあまり顕著な男性化をまだきたしていない。それにエーリッヒはシュミットが可愛くてならない。抱こうと思ってできないことはないだろう。
振り返るとシューマッハ老は蔑むような目でこちらを見ていた。決断の遅さは評価を下げるだけだろう。エーリッヒは尚もシュミットの背を擦りながら、冷たい目をした老人に頷いて見せた。
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その結果、エーリッヒの心の天秤は完全にシュミットの方に傾いてしまった。こうなってはもう天秤としての役目など果たせはしない。一度抱いてしまったシュミットは限りなく愛しく、手放すことなどできそうに無かった。
エーリッヒは隣で枕に顔を埋めるシュミットを見る。相変わらず目隠しをしているので妙な感じだが、本来ならば零れるような紫青の大きな眸があるはずだ。その彼の頭を撫でてやると、シュミットはくすぐったそうに忍び笑いを漏らした。
「……エーリ」
小さく囁いてからシュミットは腕を伸ばす。その手を取って抱き締めてやると、シュミットは嬉しそうに頬を寄せた。仔猫みたいだな、とエーリッヒは思わず微笑を浮かべた。
先ほどエーリッヒは要求を飲む代わりにその時間だけ監視をやめて欲しいと訴えたが、シューマッハ老は音声かモニターのどちらかだけしか切ることは出来ないと言った。何しろシュミットの部屋は外部から電子ロックを解くしか出入りの方法が無い。もちろん非常事態の場合は勝手にロックが外れることになっているが、それ以外では監視無くしてこの部屋に出入りすることは不可能なのだ。それで仕方なくエーリッヒは苦悩の末、映像を切ることを選んだ。
そしてかなり緊張するエーリッヒにシューマッハ老が与えた指示はたったの二つ。
『目隠しを取らず、殺しさえしなければ何をしてもいい』
何をしてもいいと言われても、一般常識の許す範囲外のことをエーリッヒはするつもりは無い。そもそもしたいとは思わない。しかしこれまでのシュミットの様子を見てきた限り、それで満足してもらえるかが不安だ。しかし懸念したような問題は無く、シュミットは今満足そうにエーリッヒの腕の中に収まっている。これで目隠しと監視カメラさえなければ言うことは無いのだが。そう思わずため息をつくエーリッヒを、不安そうな様子でシュミットは見上げていた。
「……エーリ、嫌だった?」
「え?」
「良くなかった?」
シュミットは少し悲しそうな様子でエーリッヒを腕の中から見上げている。目隠しの所為でその視線はエーリッヒの顔の僅かに横の当たりを見つめているようだ。
「い、いやそんなことはないよ」
エーリッヒは慌ててシュミットを抱く腕に力を込める。そんなことは無いどころか、今まで付き合ってきたどの女よりも良かった。実際整った顔立ちで均整の取れた長身のエーリッヒは、学生時代から女に不自由したことは無かった。根が真面目で誠実なため、遊び人などには到底なれなかったが、それでも経験は少ないほうではない。にもかかわらず、多分もうエーリッヒはこの少年を手放せはしない。全くもって困ったものだ。
しかしシュミットは納得したようには見えなかった。エーリッヒの背中に腕を回し、胸に顔を埋める。悲しんでいるような、不機嫌なような様子だ。
「……だって、エーリッヒちっとも喜んでくれないんだもん」
そんなことを頬を膨らませて言われたら、どうすればいいのかわからなくなってしまう、とエーリッヒは苦笑しながら考える。こんなに可愛らしく拗ねられて、抱き締めたくならない男などいはしないだろう。その考え通りにエーリッヒが抱き締めてやると、シュミットはやはり不機嫌な声で穏やかならぬことを口走ったのだった。
「……お父さまは、ああすれば男の人はみんな喜んでくれるって言ってたのに」
その言葉を理解し終えたとき、エーリッヒは自分の血の気が引く音を確かに聞いたのだった。
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ノックもせずに突然開かれた扉に、シューマッハ老は手にしていた書類から冷厳な目を上げた。そこには鬼気迫る表情の、しかしどこか蒼白な若い医師と、微妙に眉根を寄せた老齢の執事が立っていた。執事は多分肩で息をしている若い医師を止めようとして失敗したのだろう。手を上げて退室を促すと、執事は深々とお辞儀をして隣の部屋にさがった。
シューマッハ老は自分の机の前にある椅子に座るようエーリッヒを促す。普段の彼ならばこんな風にシューマッハの仕事を邪魔するようなことなどしないだろう。見れば服装もろくに整えられておらず、いつもより開いた襟元には色濃く情事の跡がうかがえる。慌てて撫で付けたのか髪も乱れ、せっかく白衣を着ていても、清潔感はほとんど感じられなかった。
老人は机の上で指を組み、エーリッヒを見つめた。姿勢のいい長身を前に傾けたエーリッヒは、シューマッハに対して心なしか敵意にも似た感情を向けているようだ。この書斎でこんな客と向き合った経験などシューマッハ老にも皆無であった。ましてや自分の半分の年齢にも達していない若造が、気圧されるどころか挑むようにこちらを注視している。これは実に面白い。しかし老人はそんなことはおくびにも出さず、エーリッヒを促した。
「……貴方はシュミットが父親に性的虐待を受けていたことをご存知だったのですね」
それは質問でも確認でもなく断定であったが、シューマッハ老は動じない。相手の神経を逆なでするような冷静さで、
「それが?」
「それがですって!?」
エーリッヒは彼らしくも無く怒りに駆られて立ち上がり、机を掌で叩きつける。
「幼児期の性的虐待は精神に計り知れないほどの傷を生む。シュミットのあの多重人格めいた行動も、学習障害や情緒不安定も明らかにそれが原因でしょう!?」
それどころか、場合によっては発育不全だってそこに起因するかもしれない。しかしエーリッヒの怒りは老人によって一笑に付されてしまった。
「そんなことはわかっている。問題は、だからといってそれをやめても、シュミットの行動が改まらないことだ」
それどころか、以前にも言ったように事態は悪化するだけだ、と。
「しかし方法は他にもあったはずだ! 専門のカウンセラーだっているのだし、あんな風に離れに彼を閉じ込めているだけでは、何の解決にもならない」
しかしたかが一介の医師に吸血鬼とまで呼ばわしめた老獪なシューマッハをやり込めることなど出来はしなかった。老人は若い医師の自尊心を充分に傷つけるような笑い方をすると、立ち上がるでもなく、
「君に言われるまでも無い。今までに何十人もの専門家に引き合わせたが、全く用をなさなかった。それどころか、あれは男を誘惑する。本人に悪気が無いだけに、あれは魔性の眷属だ」
第一、発育不全は遺伝的なものでこの件とは何の関係も無い、と老人は言い切った。もちろんそれで納得のいくエーリッヒではない。更に詰め寄るようにして、
「しかし彼に心的外傷があることは明らかだ!」
シュミットほどの知能指数があれば尚更その傷の深さは窺い知れない。それなのに老人はエーリッヒを鼻でせせら笑う。
「今はやりのP.T.S.Dか。だがそれが関係あるとしたら、父親との性行為に関してあれはなんの感慨も持っておらん。むしろその所為で母親が狂気に走ったことのほうがよほど重大なようだ」
老人は再びエーリッヒを座るよう目線で促す。未だ険しい顔をしていたがエーリッヒも大人しく腰を下ろした。薄々わかってはいたが、自分のような若造が、この老人に勝てるわけが無いのだ。それが口惜しくて、エーリッヒは奥歯を噛み締めた。
「いいか、シュミットは自分の衝動を堪えることを一切しない。それどころか、面白がって欲望の赴くままに行動する。あの子には善悪の見境が無い。しかしその所為で母親が凶行に及んだことは理解しているし、そのことについて何か考えもあるらしい。だからあれは女を受け付けない。両親の死に顔を思い出して、直に人と対面することも出来なくなった。しかしその反面、欲望を押さえたりはしないし、若い男と見れば誰にでも媚を売る。あれは自分がどういった印象を相手に与えるか、全部熟知しているのだ」
老人は今ここにいない孫を軽蔑したように吐き捨てるが、エーリッヒはこんな祖父をそれでも慕っているシュミットが憐れでならない。専門ではないが、医師としてシューマッハ老の言っていることは彼の思い込みに過ぎないと断言できる。いくらエーリッヒがシュミットを愛しく思っているからといって、そんなことを見逃すほど自分は愚かではない。間違っているのはシューマッハ老の方だ。しかしエーリッヒはそれをもう口にすることはしなかった。この老人には何を言ってももう無駄だろう。ならばせめてシュミットの側で彼を守ってやらねばならない。それには表面的にだけでもこの老人に仕えねばならないのだ。
エーリッヒがそんなことを考えているとは思いもよらず、老人は憐れむような目つきで若い医師を見た。
「あれと恋愛ごっこをするのはかまわんが、ほどほどにしておいてもらうか。深入りされても、ろくなことにならん」
それだけ言うと老人は、ほとんど面倒くさそうにエーリッヒに退室を促したのだった。
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それからというもの、エーリッヒは今まで以上にシュミットを甘やかすようになった。以前に決めたように月の写真集を買ってやり、本の間にこっそり自分の写真を入れてシュミットにあげたりもした。本当はシュミットの身近にいる人間の、人物像が特定できるようなものは与えてはならないと言われていたのだが、最早エーリッヒはシューマッハ老の言うことを本気で聞く気など無かった。それにシュミットは大喜びし、数日後あるものをエーリッヒにくれた。
それは一枚の絵だった。どこか海辺の見晴らしのいい高台の上に立った別荘らしき建物。モノクロの絵だったが、それだけにシュミットの腕前が素晴らしいことがよけいによくわかった。そしてその建物のベランダに、エーリッヒが描かれていたのだ。
思わず口許をほころばせてエーリッヒは幼い恋人の頭をクシャクシャと撫でてやった。もちろんシュミットがエーリッヒの顔を知っていることは秘密であるから、口に出して喜ぶわけにいかない。何しろ人権を無視した監視カメラが24時間シュミットを見張っているのだ。できることならこんなところ連れ出して、自由にしてやりたいとエーリッヒは思う。けれどそれは無理な相談で、あの老人がそんなことを許してくれるわけは無いのだ。だからそのかわりとしてはささやかだが、エーリッヒは絵のことを散々誉めてやった。
「ここはどこかな?」
ソファに並んで腰を下ろしながらエーリッヒは甘えて寄りかかってくるシュミットを抱き寄せる。彼はにこにこと嬉しそうに、
「ずっと昔に連れてってもらった別荘。裏が崖みたくなってて、凄く景色がいいんだ」
長い石段を下るとそこはプライベートビーチになっていて、小さい頃水遊びをしたらしい。その他にも近所には牧場があり、シュミットは乗馬をするのが楽しみだったと言う。
「お祖父さまがね、教えてくれたんだ。ジャンプもできるんだよ」
シュミットは興奮した様子で足をばたつかせる。その頃はまだ一人ではポニーにしか乗せてもらえなかったが、今ならもう普通の馬に乗れるだろう。しかし彼が外に出ることはできないのだ。そして何より、シュミットのたった一人の肉親は、彼を愛してはいない。それでもシュミットは楽しそうに話し続ける。
「お祖父さまに大きい馬に乗りたいって言ったら、前に乗せてくれたの。手綱も握らせてくれたんだ」
そのときのことを思い出したのか嬉しそうなシュミットの肩にエーリッヒは優しく手を置く。
「……きみは、お祖父さまが好き?」
その問いにシュミットは躊躇うことなく、
「うん、大好き」
頷きつつ元気に答えた。それでエーリッヒは彼の前で祖父の悪口は口にするまいと心に決めたのだった。
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