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 冬の空は高く、最早ツバメも去ったある日のこと、エーリッヒはシュミットを伴って庭の散歩に出てきていた。もうすでにこの屋敷にも慣れて久しく、エーリッヒはシュミットの手を引いて茂みの側にあるベンチに腰を下ろす。今はベルレーヌに凝っているらしいシュミットは、この日もエーリッヒに本を読むことをせがんだ。
 シュミットはエーリッヒと手を繋ぎ、恋人の肩に寄りかかる。以前は週に二回だけだった散歩も、エーリッヒが祖父に掛け合って日に一度にしてくれた。刑務所だって運動と日光浴の時間はもっと取っているというのがその言い分だった。
 詩が一段落つくと、シュミットはエーリッヒの肩をつついて耳を貸すよう促した。少年は暫くの間何事かを囁き、監視の目を盗んでエーリッヒのコートのポケットに手紙を忍び込ませる。それを合図に二人は軽く笑い合い、手を取って立ち上がった。





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 犯罪には美しい月夜が良く似合う。エーリッヒは暫くの間眺めていた腕時計から顔を上げ、口に当てていた簡易酸素ボンベを取り外した。計算通り、最早エチルエーテルは室内から取り除かれている。
 エーリッヒは暗い廊下を出来るだけ足音を立てないように走る。一度助手の看護士の部屋に立ち寄ったが、彼はエアコンによって建物に充満していたエチルエーテルの所為で、死んだように眠っていた。その麻酔薬も再会されたエアコンの所為でとうに部屋の中からは消えている。それを確かめるとエーリッヒは階上に向かった。
 モニター室の中では男が一人、机に突っ伏して眠りこけていた。今やモニターの画面には何も映し出されてはおらず、窓の無い室内は真っ暗だ。エーリッヒは男の脇をすり抜け、壁に掛かっていた懐中電灯を取ると、シュミットの部屋に向かった。
 ここでも予定通り、シュミットの部屋の電子ロックは解除されていた。驚くべきことに、それらはすべてシュミットがやったことなのだ。エーリッヒには良くわからないが、パソコンを使って何かをしたらしい。判りやすく説明してくれたことは、インターネットを使って警備をしている会社のマザーコンピューターにハックし、この屋敷の部分を気付かれないように切り取るのだとか。そうすると屋敷中の警備を統括しているメインコンピューターはシュミットが操れるようになり、また電気系統も意のままになるらしい。コンピューターについてはかなり詳しいエーリッヒにもできないようなことを、シュミットは簡単にやってのけたのだ。彼はその幼い外見や行動に反して、やはり素晴らしい頭脳の持ち主であるらしい。

「……シュミット?」

 暗い部屋の中、エーリッヒはベッドに駆け寄って手を伸ばす。懐中電灯をサイドボードに置き、シュミットの肩に手を掛けて身体を抱き起こすと、鼻の下に気付け薬をあてがう。

「…………ん……」

 ピクッと身体を震わせ、シュミットはエーリッヒに凭れかかった。

「……エーリ? 成功した?」

「大丈夫、皆眠ってる。さ、起きられるかい?」

 差し伸べられた手に縋ってシュミットは身体を起こし、ベッドから降りる。監視の目があるため、怪しまれないよう彼も麻酔薬で眠っていたのだ。
 入り口から差し込む月光に初めて照らされた眸は、夜空にも負けない美しい紫青だった。思わず抱き締めようとするエーリッヒに、シュミットは身を任せる。まだ足元がふらついているのか、疲労したように額に手をやった。

「エーリ、ぼくまだふらふらする。先に母屋に行ってて……」

 でも、と言いかけるエーリッヒにシュミットは大丈夫と笑いかける。いざとなったらエーテルの残りもあるし、目隠しさえなければ機敏に動けるから、と。その初めて見る微笑は大人びていて、エーリッヒは不安ながらも頷くしかなかった。
 離れを出ると、エーリッヒは半月に影を縫い取られながら、当面の衣服や薬などの詰まった旅行用鞄を持ってガレージに向かった。以前エーリッヒ用にとキーを渡されていたBMWの後部座席に鞄を押し込み、庭の中ほどまで走らせる。それを一旦停車させるとキーをつけたままエーリッヒは車を降りて母屋の玄関に向かった。
 母屋も離れ同様静まり返っていた。警備の人間もセキュリティーシステムの発達した今、わざわざ屋敷の外に立ったりはしない。昼間のうちに仕掛けておいたエーテルの所為で、全員がぐっすりと眠っている。この時間ならば火の心配も無い。段々大胆になってきたエーリッヒが足音も高く階段を上っている途中、シュミットがこちらに駆けて来る姿が窓から見えた。
 エーリッヒが向かったのは老人の書斎だった。そこにある金庫から、ある程度のまとまった金額の現金をいただく予定だ。本来ならば良心的で誠実なエーリッヒには、思いつきもしない行動だ。しかしシュミットをこの屋敷やあの老人から自由にしてやるには最早この方法しかない。それが散々思いつめたエーリッヒの最期の手段だった。
 だがこの方法は一般的に言って誘拐に当たる。未成年の略取でないことだけが幸いだが、殺人と同程度の犯罪には変わりない。それでもエーリッヒは可愛いシュミットのために、犯罪者になることも甘受することに決めたのだ。今更それに窃盗が加わったとて、大した違いはあるまい。この一年ほどの給料はほとんど実家に送金した。それで困窮もどうにかなるだろう。後のことは両親で解決して欲しい。
 エーリッヒは樫材でできた頑丈そうな扉の前に立つ。緊張のあまり震える腕をどうにか制御して、ノブをそっと掴んだ。
 カチッと音を立てて扉は滑らかに内側へ開いた。やはり鍵は掛かっていない。エーリッヒは音も無く室内へ滑り込む。いつも老人が使用していた窓辺の机を迂回し、天井まである書架の前に立つ。懐中電灯で暗い足元を照らすと、壁際に鈍色の金庫を発見した。それはエーリッヒの膝ほどもある横長の金庫で、彼は絨毯の上に膝をついた。金庫破りなど初めての経験だが、ここまできたらやるしかない。開け方はシュミットが教えてくれた。エーリッヒは懐中電灯を脇に挟むと、つまみを回し始めた。
 金庫はあっけないほど簡単に開いた。掌まで汗をかいていたエーリッヒは思わず脱力してため息をつく。あともう一息。シュミットはまだ来ないが、どうしたのだろうか。
 用意してきたリュックを開き、金庫を開ける。中にはきちんと整頓された有価証券らしきの書類と、エーリッヒが見たことも無いほどの大金。眩暈がするほどのその札束を掴み、エーリッヒは慌ててリュックに詰め込んでいく。宝石らしき箱もあったが、貴金属は足がつきやすいと昔何かの推理小説で読んだ。これほどの大金を簡単な金庫に保管しておくなんて、この程度の金額などシューマッハ家には微々たるものなのだろう。何となく莫迦莫迦しくなってエーリッヒは眉を顰めた。
 紙幣を仕舞い終えてエーリッヒが立ち上がったとき、廊下の方から小さな悲鳴が聞こえてきた。思わず飛び上がるほど驚いたエーリッヒは、慌てて机の影に身を隠す。まさか、誰かが起きてきたのか? 
 海鳴りに似た自分の心臓の音に邪魔されながら必至で耳を澄ますエーリッヒ。微かに聞こえてくる話し声は、思ったより近いらしい。その声にはっとしてエーリッヒは立ち上がった。あの声はシュミットに違いない。ここへ来る途中、薬の効きが弱かった誰かに見咎められたのだ。
 エーリッヒは急いで書斎を抜け、廊下に飛び出した。左右を見回すと。左の方から声が漏れてくる。そちらがシューマッハ老の寝室だと気付いて、エーリッヒは慌ててシュミットのもとへ向かった。
 老人の寝室では二人のシューマッハが対峙していた。老いて尚威厳を保ち、現在も総帥の地位にある老人と、若く美しく、本来ならば総帥の座を受け継ぐべき少年と。しかし二人の間に漂う空気は重く帯電しているかのようだった。老人は壁に手をついて身体を支えながら、それでも少年に銃を向けている。少年は扉の前に立ち尽くしながら、感情の読み取れない眸を真っ直ぐ祖父に向けていた。エーリッヒはそれを見て取ると急いで二人の間に割って入った。

「シューマッハさん、お願いですからその銃を下げてください!」

 エーリッヒは毅然とした声で老人に話し掛けた。月明かりしかないとはいえ、老人の意識が朦朧としていることぐらいはわかる。ベッドの脇の小窓が開いている。多分その所為で薬の効き目が弱かったのだ。
 しかし老人は憎悪に満ちた目で二人を、いや、むしろシュミットを見つめた。

「……やはり貴様か。こんなことなら、情けなどかけてやるのではなかった」

 それがシュミットの死を意味していることは明らかだ。いくら何でも遺伝や恐ろしい幼児体験で精神に支障をきたしてしまった孫に掛ける言葉ではない。シュミットは萎縮してかエーリッヒの後ろに隠れ、背負ったリュックにしがみ付いた。

「……シュミットは悪くありません。お願いです、私たちを行かせてください」

 あくまで下手に出るエーリッヒだったが、老人は血走らせた目を漸く若い医師に向け、

「黙れ若造! 貴様は自分が一体何をしているのかわかっているのか!?」

 老人は銃を持った手を真っ直ぐエーリッヒに向ける。リボルバーはシューマッハ老の護身用の銃なのだろう。最もまずい相手が起きてしまったものだと内心エーリッヒは舌打ちを禁じえなかった。

「やはりお前は悪魔だった。今からでも遅くない、お前の母親がしたように、このわたしが地獄へ送り帰してやる!」

「ま、待ってくださいシューマッハさん!」

 しかしエーリッヒの制止などまるで耳に届いた様子は無く、老人は二人に向かって銃を突き出し、ついにその引き金を引き絞った。





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 激しい爆発音がして、エーリッヒは背後のシュミットを庇って床に倒れこんだ。耳の奥で風の唸る音がしている。しかしそれ以上何も起こる気配は無く、エーリッヒは恐る恐る顔を上げた。
 部屋の中には火薬の匂いが充満していた。しかし見上げた場所に老人の姿は無く、少し後方の床の上に転がった足が見えた。

「シューマッハさん!?」

 エーリッヒは慌てて飛び起き、身体を丸めて呻く老人に駆け寄った。
 老人は自分の右腕を抱えて床に倒れこんでいた。見ると右手の指の数が足りない。銃が暴発したのだ。幸い出血はさほどではない。

「……良かった、命に別状は無い」

 胸を撫で下ろし、つい癖で治療に掛かろうとするエーリッヒの肩をシュミットが叩く。震える声で命に関わり無いのなら、もう行こう、と。しかしとエーリッヒも言いかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。そうだ、今の彼らは犯罪者なのだ。ひょっとしたら今の銃声で誰かが起きてこないとも限らない。
 エーリッヒは最低限の止血だけすると気絶した老人を床に寝かせたまま、リュックを持って立ち上がった。

「行こう」

 そう促すとシュミットは気丈にも頷いたが、一旦後ろを振り返り、

「バイバイ、お祖父さま……」

 感情を押し殺した声でそう呟いたシュミットの表情は、前を行くエーリッヒには窺い知ることはできなかった。





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 二人はそのまま庭に止めてあった車に飛び乗ると、シューマッハ邸を後にした。半月以上前から計画していただけあって、シューマッハ老が起きていたこと以外は全て予定通りだ。後は出来るだけ早くここから逃げ出すだけである。幸い当面の生活場所も確保できていた。それは以前シュミットがエーリッヒにくれた絵のモチーフとなっていた、あの海辺の別荘だ。
 その別荘はシューマッハ家が所持する数ある別荘の中で、とうの昔に売り払われたはずの物だった。しかし実際には、その家はシュミットの所有物なのである。どういうことかというと、以前に売りに出されたとき、偽名を使ったシュミットがやはりネットで代理人を募集し、買い取らせたのだそうだ。その資金がどこから出ていたのかというと、シューマッハ家の財産からだと言う。世界中の銀行にある預金から金が動くたびに、利子の中から少しずつ削り取っていったのだそうだ。シューマッハ老がそれに気付かなかったのは、大いなる誤算であったろう。もちろん、シュミットが巧妙であったせいもある。シュミットはそれを遊びでやっていたのだと言うから、エーリッヒは余計に驚いた。
 そして思い出の別荘が売り払われると知り、シュミットは慌ててそれを別人名義で買い取ったのだ。確かにシュミットはシューマッハ家の男子の遺伝子を受け継いでいる。天才の系譜なのだろう。
 現在その金はスイス銀行に預けてあるそうだ。しかし二人がいなくなったとすればもちろんシュミットの部屋のパソコンなども調べられ、一応情報は消去してあっても、暫くは手をつけないほうが懸命だろう。そのため現金が必要だったのだ。
 エーリッヒは夜の道路を出来るだけ早く駆け抜けようとハンドルを握る。隣では緊張が解けた所為かシュミットがうたた寝を始めた。上手くいけば昼には別荘に着けるだろう。それからのことは、一眠りしてから決めることにしよう。そう思いながら、エーリッヒは隣で眠るシュミットにミラー越しに微笑みかけたのだった。










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