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普段から人の少ないシューマッハ邸にこれほどの人間が出入りしたのは、初めてのことかもしれない。いや、ひょっとしたら昔この屋敷の主の娘が婚約パーティーを開いたときの方が多かったかもしれない。とにかくそれほどの人数が広大な屋敷のあちこちに散らばり、また多くの人間が運び出されていった。
運び出されていった人間のほとんどが最早口をきくことは無いだろう。生き残った人間の何人がまともに生活できるようになるだろうか。額の後退した中年の刑事は、見たことも無いような惨状に憤って室内にひかれた白線に目を落としていた。
昨晩、この屋敷の中で何か恐ろしいことが起こった。薬物による中毒で、母屋と離れにいた人間の80%が死亡するという大惨事だ。しかもセキュリティーシステムは完全に停止しており、発見が遅れた所為で出た死人の数も少なくない。
捜査の結果毒物はエアコンによって邸内に満たされ、住人たちを害したことが判明した。しかも不自然なことに散布は二回によって行われ、一度目は麻酔薬であるエチルエタノールが散布されていたことが判明した。二度目の散布は薬品を調合して作られた毒物で、それが何であるかの報告は現在まだ上がっていない。またこの屋敷にいたと思われる人間二人と車が一台行方不明になっており、強盗と誘拐の線が浮かび上がってきている。また車のナンバーが付け替えられているらしいことと、邸内の金庫が無傷で開けられていることから、計画的な犯行と推察される。しかしそれにしては妙な点が多い。何故犯人は邸内の人間を殺す必要があったのか。エアコンに細工できるほどの時間があり、セキュリティを切ることが出来るならば、わざわざ二度も薬物を散布する必要は無い。第一金庫は母屋にあるのに、離れの住人を誘拐、殺害する意味がわからない。誘拐だけならばこの家の主を連れ去った方が効果的だろう。それに消えた二人はこの屋敷の主の孫と、その主治医だ。ということは、持病だか障害だかのある孫息子が死んでは意味が無いために、主治医も一緒に連れ去ったのか。だが消えた車も主治医専用のものであるらしいので、彼が犯人とも考えられる。やはり金庫の暗証番号を知る少年を人質に逃亡したと考えるのが妥当なのだろうが、とするとまた一つおかしい点が出てきてしまうのだ。
この事件で唯一毒物を摂取せずにすんだ被害者であるシューマッハ老人は、腕を怪我していた。犯人と対峙したのだろうときに使用した拳銃が暴発し、右手に重傷を負ったのだ。しかし彼は傷の手当てをされている。ジェノサイドを平気で行うような犯人がわざわざ止血をするだろうか。その後老人は再度の薬物散布を恐れ、バルコニーに這い出た。おかげで死亡せずに済んだのである。
刑事は部下に指示を出すと唯一口のきくことのできる生存者に会うために、病院へと向かったのだった。
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病院が苦手なのは、職業の所為だけではないと刑事は自覚していた。しかしだからといって事態が改善するわけではない。むっつりと眉間に皺を寄せたまま刑事はリノリウムの廊下を進んだ。
特別棟7階のVIP用の個室の前には、制服に身を包んだ警官が立っていた。彼は敬礼一つで刑事を通し、ご丁寧にも扉を閉める。患者に配慮してか、弱く絞った明かりの中、刑事は病院には不釣合いな弾力のある絨毯を進んだ。
刑事にとってその老人は雲の上の存在だった。いや、伝説の人物といってもやぶさかではない。指先一つでヨーロッパの経済界を動かし、彼の機嫌の良し悪しで政治家の首が飛ぶ。世界中で起こる紛争の3割に荷担しており、アンダーグランドにおいて華人たちとも手を組んだと噂される。しかしその老人は今や半身をわずかに起こしたベッドの上で、身体中に何本ものチューブを繋げてこちらを見つめている。だがその眼光には憎悪にも似た光が灯り、刑事を釘付けにした。
老人は目線でベッド脇の椅子を示し、刑事は無言のまま腰を下ろした。
「……シューマッハさん。昨夜のことで幾つかお訊きしたいことがあるのですが」
雰囲気にのまれまいと刑事はできるだけ険しい表情を作って話し始める。老人は点滴のためしわがれた左腕の内側を晒して刑事の話に聞き入っていた。
「………………と言うわけで、行方がわからないのはお孫さんのシュミットくんと、彼の主治医のエーリッヒ・クレーメンス・ルーデンドルフ氏でよろしいですね?」
刑事は持参した資料ファイルを捲りながら老人に問い掛ける。シュミット・ファンデルハウゼン・フォン・シューマッハは19歳ということだが、写真で見る限りせいぜい14,5歳にしか見えない。恐ろしく美しい顔立ちの、天使のような少年だ。方や誘拐犯との疑念のある青年医師は、精悍で穏やかそうな容貌をしていた。
「現在警察はこの医師が少年を誘拐したという見解を強めております」
だが実のところ彼には写真の青年がこの凄惨な事件の犯人とはとても思えない。しかし外見で人を判断してはいけないのだ。
「お孫さんは持病があるらしいですが、離れにあったと思われる薬剤が一部紛失しています。長期に渡って彼を拘束するために、犯人が持ち去ったものと考えられます」
わざわざ薬剤も持ち去るのならば、やはり少年よりこの老人の方がよほど誘拐には適しているだろう。シューマッハ家においてより重要な人物は、この老人なのだから。しかしいったいどうして、とつい自分の考えに没頭しかける刑事に、老人は厳かに言い放った。
「……違う」
主語が不明確な言葉に思わず、は? と間抜けな反応を返してしまう。すると老人は力強い眼光をこちらに向け、
「違う、あれは女だ」
「え、ですが……」
それが自分の孫のことを指しているのだと刑事が悟るのに数瞬の間が空いた。だが慌てて資料を見直しても、写真の人物も幼いが明らかに男である。もしや事件のショックで混乱しているのだろうか。
しかし老人は何か言いかける間も哀れみを向ける時間も与えず、無事な方の左手でベッドの柵を叩きつけた。
「違う! シュミットは男ではない。外見的には男であっても、染色体レベルでは女なんだ!」
それは正確な情報ではなかったが、刑事を困惑させるのには充分だった。確かにシュミットの病歴には彼には理解不能な文字の羅列が並んでいる。その中にデポテストステロンの投与とあった。確かテストステロンは、男性ホルモンの一種だったような気がする。しかし染色体レベルで性別が違ったとしても、見かけが男であるならば少年を探す上では何の問題も無い。しかしシューマッハ老は苦々しげに拳を握り締める。
「……あれは、シューマッハ家の呪われた血筋を全て背負っておる。シューマッハの女の残虐性、男の自虐性と天才的な頭脳。そして生まれついてのサイコパス」
早くしないと人が死ぬ、と老人は呟く。だが部外者である刑事には何のことなのかわからない。かろうじてサイコパスという善悪の区別の無い恐るべき人格のことだけは理解できたが。
老人は憎しみに満ちた目で刑事を見つめる。彼は奥歯を噛み締めるように、
「いいか、外見に騙されるな。あれは悪魔だ。わずか5つか6つで実父を誘惑し、母親を狂気に駆り立てた」
そのどころか母までも死に追いやった。13年前の事件で母親の命を奪った銃は、シュミットが細工したものだ。
「……では、今回のことも?」
老人の銃が暴発したのも家人の毒殺も、医師ではなくこの天使のような少年がやったというのか。にわかには信じがたいが、老人は重々しく頷いた。
「あれは生き物の死に例えようも無い快楽を感じるらしい。今までにも何人もが犠牲になっている」
シュミットは視覚的に捕らえた人間を次々と犠牲にしたと老人は言う。それはTVスターなどではなく、ごく身近にいて人物像が特定できた相手だ。だから老人は孫息子に常に目隠しを強要していた。見ることさえなければ、彼は普通に人間と接することが出来る。またある程度の性的欲求さえ満たしてやれば、凶行に及ばないことがわかった。しかしそれはもう戒めにはならない。あの愚かな医師は自らの死刑執行書にサインした。シュミットは躊躇うことなく彼を殺すだろう。そして確実に……。
「わたしも殺されるだろう……」
老人は憎悪の篭った眸で絹の上掛けの一点を見つめる。かつて老人は孫息子を大層可愛がっていた。年の割に幼い外見だが、その知能指数は常人のはるか上を行く。祖父母に良く懐いており、両親ともに仲が良く、完璧なまでに幸せな家庭を築いていた。それがたった一日で崩壊し、憐れと思っていた少年は悪魔の本性を曝け出した。あまりにも無邪気に生き物の命を奪うシュミットは、老人を恐れさせた。あの子は生まれてくるべきではなかった。それは自分がシューマッハ家を継いだからだろうか。分不相応な夢を求めた罰なのだろうか。
寒気を感じるほどの沈黙に刑事は眉間に皺を寄せた。老人の言葉が本当ならば、一人の殺人鬼が野に放たれたことになる。しかも話を聞いた限りでは、6歳の頃からすでに数人を殺害しているらしい。今までそれが発覚しなかったのも、シューマッハ家の威光というやつか。とんでもないことをしてくれたものだ。
ではいかにしてその少年を捕らえるか、と思案し始めた刑事に、老人は殺せ、と呟いた。
「……生かしておく必要は無い。殺せ。シューマッハ家は今後シュミットに対する一切の擁護を放棄する」
だから見つけ次第殺せ、と。それは最早孫に対する祖父の言葉ではなく、全ヨーロッパの経済界を統括するシューマッハの吸血鬼の言葉だった。その圧倒的なまでの威圧感に呑のまれ、刑事は無言で頷いたのだった。
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淡い光が差し込む寝室で、二人は抱き合っていた。フローリングの上に直接置かれたマットレスには衣服を脱いだ二人の姿がある。レースのカーテン越しに波の音と月の光が室内に入り込み、二人の肌を蒼く染めた。
「……んっ…………」
エーリッヒはまだかまって欲しそうなシュミットにキスをして、伸び始めた銀髪を掻きあげる。甘えたがりの恋人は不服そうに腕をエーリッヒの首に絡めるが、だめだよと苦笑しつつ呟いて身体を起こした。
「……シュミット、散歩行かないか?」
今日は月が明るいから、とエーリッヒは微笑む。もうすでに時計は深夜を回っているが、この明るさなら浜辺のある崖の方まで行っても大丈夫だろう。ここは私有地なのでいつ海に入っても誰に咎められることも無い。それでも細心の注意を払わねばならず、昼間の海水浴は避けていた。シュミットはしきりに馬に乗りたいとねだったが、流石に許可は出来なかった。
二人は衣服を整えるとベランダから外に出る。見上げた月は綺麗な円形で、シュミットは目を細めて空を見上げた。
波の音は優しく二人を包む。きっと母親の胎内にいたときに聞いていた音とよく似ているのだろう。波の音は人を安堵させる。エーリッヒは足元の小石を蹴るのに夢中なシュミットを追い越して、崖の縁に添って歩いた。あと100メートルほどで浜への階段だ。
振り返るとシュミットは小石に執着して仔犬のようにコロコロとそこいらを駆け回っている。その彼においでおいでをして、エーリッヒは静かな海を見下ろした。水平線のすぐ近くに、空の月が映って輝いている。銀の光は目を射ることは無く、銀砂を撒いたようだ。
「シュミットほら、満月が映ってるよ」
エーリッヒは振り返って無邪気な恋人を呼び寄せる。海のほうを指差すと、シュミットは零れるような美しい紫青の眸を細めてこちらにやってきた。彼は崖の縁が恐いのかエーリッヒの後ろから海を見下ろす。
「大丈夫だよ、こっちおいで……」
苦笑したエーリッヒは振り返って手を伸ばした。シュミットも微笑んで腕を上げる。そして……。
「え……?」
軽い衝撃に、エーリッヒはよろけてたたらを踏んだ。しかし背後に地面は無く、身体が急激に傾く。落下までのほんの一瞬、エーリッヒの視線は幼い恋人を捕らえた。シュミットは口端を吊り上げ、魅惑的な声で呟く。
「バイバイ、エーリッヒ……」
今までエーリッヒが見たことも無いような妖艶な微笑を浮かべた少年の眸には、人間にはありえるはずの無い黄金の光彩が煌いていた。
〔了〕
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