■□■ 水音の世界 □■□






 空気にも水の臭いが混じる夏の日、照りつける太陽の下、山本は喜色満面でとあるアパートを訪れた。
 早歩き、というよりむしろほとんど走ってやってきたのは、昨年の秋の日に初めて雲雀に美味しくいただかれてしまったアパートだ。コンシェルジュ付きの白亜の豪邸。一般庶民には夢のまた夢であるそのアパートを、雲雀はまだ解約していない。どうやら他にいくつもある住居はそっくりそのまま、本人と息子だけが山本の家にやってきたようだ。
 いつでも同居を解消できるようにするため、ではもちろんない。単に解約が面倒であったためか、あるいは雲雀の今をもって謎な職業のためであるようだ。どのみち、山本にとっては照れくさいながらも思い出の場所であるし、二人でデートするに最適な場所という認識である。
 広くて綺麗で密室で、トイレもキッチンもシャワーもベッドもある、なんつって、と一人で照れる山本はかなり気持ち悪いが、関西在住でないために突っ込みを入れてくれる通行人はいなかった。ともかく山本はとうに顔馴染みとなったコンシェルジュに挨拶し、スキップ一歩手前の足取りでエレベーターに乗り込んだ。






 久々に訪れたアパートは、暗く静まり返っていた。まだまだ午前中の時間であるが、全てのカーテンが閉じられているのだ。
 寒いほどクーラーの効いた部屋は、暑い中を急いでやってきた山本を無表情で受け入れた。一瞥したところ雲雀の姿はない。ここ二週間ばかり『仕事』で家を空けていた雲雀から連絡が入ったのは一昨日のこと。ようやく『日本』に戻れるので、ここで落ち合おうというものだった。
 そっか、海外にいたのか、と能天気な山本は気にも留めず、雲雀がリクエストしてきた冷麦の乾麺を携えてアパートを訪れたのである。
 足音を殺してキッチンに向かい、山本はリュックの中の冷麦セットを取り出した。乾麺はキッチンに、めんつゆと長ネギは冷蔵庫に。
 ついでにわさびもしまい終えた山本は、これまた足音を殺して寝室に向かった。
 いつからクーラーが効いているのか、キンキンに冷えたドアノブをそっと回し、寝室を覗く。闇に強い山本の目には、ベッドに横になった人影がはっきりと見えた。思ったとおり、雲雀はまだ夢の中であるらしい。
 二週間ぶりに見る恋人の寝姿ににんまり笑顔を浮かべ、それでも山本はそっと扉を閉めた。雲雀は睡眠を邪魔されることを好まない。部屋中のカーテンが閉じてあるところを見ると、昨夜か、あるいは今日の未明に戻ってきたばかりなのだろう。急いで帰ってきてくれたんだな、と思うと自然と相好が崩れた。
 お得意の忍び足で寝室を離れた山本は、軋むわけもない大理石廊下をそっとバスルームへと向かった。ちょうどいいので、先にシャワーを浴びてしまおうと考えたのだ。何しろ喜びのあまり、高湿度の日本の夏の空気の中をほぼ走ってやってきたので、すっかり汗をかいてしまった。雲雀は山本のにおいが嫌いではないと言ってくれるけれど、やはり久々似合うのだからきれいにしておきたいと思うのが人情ではないか。
 これまた音もなくバスルームへ滑り込むと、きっぷよく衣服を脱ぎ去った山本はシャワーブースへと向かった。透明なガラスで仕切られたシャワーブースは、日本では珍しい仕様だろう。隣には壁に沿うかたちで作りつけられたバスタブがある。洋式のこのバスルームだけが雲雀のお気に召さないことを山本は知っている。
 せめて擦りガラスにすればいいのに、といつも思う透明なガラスドアを閉じ、シャワーのコックを捻った。温めのお湯を頭から被り、短く整えてある髪をかき回す。ときおり犬猫のように頭を左右にブルブルと振っては、水滴を撒き散らした。
 冷麦は雲雀が起きてからにするとして、それまでどうしていようか。とりあえず夕食は家に帰って皆で、と決まっている。暑さ、と言うより湿度に辟易しているらしい恭弥の様子を考慮して、今日はラタトゥィユを作ってある。そうそう、帰りには駅前のパン屋に寄ってフランスパンを買うのを忘れてはいけない……。
 ほとんど鼻歌交じりに今夜の予定を反芻する山本の耳に、ドアを開閉する物音が響いた。上体を捻って振り返れば、バスルームの入口に雲雀が立っていた。まだ少し眠そうな、いつもより幼い表情で。

「お先に借りてるぜ」

 立って歩く雲雀を久々に見た喜びに満面の笑顔で山本は声をかけた。しかしシャワーの音がうるさいのか、ガラスで仕切られているからか、雲雀には聞こえていないようだ。否、どちらかと言えば聞いていないのだろう。雲雀は真に自由な男だから。
 発言を無視されてむしろ喜ぶという末期症状の山本は、にこにこ笑ったまま雲雀を見つめていた。洗顔にやってきたのか、ひょっとしたら山本の顔を見に来てくれたのか。
 シャワーを浴びたまま笑顔の山本の前で、雲雀は緩慢な動作で帯を解き始めた。おや、と内心で期待を膨らませる山本の目に、優美な手が帯を床に落とすのが映った。
 聞こえるはずも無いはらり、という着物が肌蹴る音が聞こえたように思う。拘束を解かれた着物が崩れて前が開く。凝視する山本の目の前で、雲雀は着物を肩からすべり落とした。
 露わにされた象牙色の肌に、思わず山本は唾を飲んだ。いつだって山本を魅了する雲雀の裸体。天才の名をほしいままにする彫刻家が魂を削って作り上げたような造形美。同じ人間とは思えない。
 見惚れる山本の目の前で、雲雀はガラスドアに手をかける。わずかに蒸気が空気の流れとなって流出し、侵入者の胸に当たって消えた。雲を歩くような、それでいて迷いの無い歩調で雲雀がシャワーブースへと入ってきた。
 最早眠気のもやの薄れた漆黒の目で、雲雀は山本を見た。命じるように腕を伸ばし、山本の首を抱く。
 濡れてしまう、と何故か当たり前のことを危惧した山本は、シャワーから雲雀を庇うようにその熱い身体を抱きとめた。








〔終〕





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