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『霧の都』の異名に恥じず。ロンドンは朝から濃い霧が立ち込めていた。冬の寒さもあって、心なしか街を行く人々の姿も少ないようである。
濃霧を掻き分けるように馬車は街路を進んでいった。ブラック家の紋章が入った馬車が向かったのは、歴史と伝統ある寺院である。その墓所には古くから栄華を誇った数多の貴族たちが永劫の眠りを貪っている。
寒々しい墓所の入り口でシリウスとリーマスは馬車を降りた。行き先はシリウスが知っている。先に立ったシリウスのあとに、神妙な面持ちのリーマスが続いた。二人は今朝から一度も口をきいていない。正確にはシリウスは何度か話しかけたのだが、リーマスは青ざめた顔のまま頷く以外の反応を見せなくなっていた。
目的の霊廟は墓地の小高い場所にあった。数百年にわたる名家の一族が眠る霊廟は、霧の中でひときわ威厳を放っていた。
荘厳な彫刻の施された霊廟の前に立つと、シリウスは並んで立っていたリーマスに花束を差し出した。今朝ほど自宅の植物園でシリウス自ら摘み取った冬ばらである。
蒼白な表情のリーマスは、胸に花束を押し付けられるまでシリウスがいることすら失念していたようである。
リーマスは黙って花束を受け取ると、そっと霊廟の扉の前に置いた。その霊廟に眠るのは、リーマスの大切な『あの人』だ。葬列に加わることも許されなかった愛する人に、数年の歳月を経て、ようやく会うことが叶ったのである。
長い長い黙祷のあとにシリウスが目を開けると、リーマスはじっと霊廟を見つめて微動だにしなかった。強く思うところがあるのだろう。シリウスはリーマスの思いを邪魔せぬようそっとその場を離れ、足を外に向けた。
リーマスと伯爵のあいだに何があったのか、それはシリウスには知りようもない。ただ、十年という月日は彼らに死よりも深い絆を与えたのだろう。誰も入り込むことのできない、強く優しい絆。それがシリウスにはいささかならず羨ましかった。
広大な墓地をゆっくりと一周して戻って来ても、リーマスはまだ霊廟の前に立ち尽くしていた。やや俯いて、遠目にもそれとわかるほど強く握り締めた両の拳が、シリウスの目には痛々しく映った。
シリウスはリーマスに声をかけようとはせず、再び足を外に向けた。今、リーマスは死者との対話の中にいる。それが後悔にせよ悲嘆にせよ、生者が割って入るわけにはいかない。
シリウスがどこへ行くでもなくブラブラと墓地を歩いていると、寺院からやってきた墓守に呼び止められた。随分と長いこと戻らぬ二人に牧師が心配し、様子を見てくるよう使わされたらしい。まだ一人墓地内にいることを告げると、シリウスは大人しくお茶に誘われた。できるだけリーマスをそっとしておいてやりたかったからだ。
冬の日は短く、夕暮れが迫るといつしか霧は雨に変わった。耳を打つ水の音にシリウスはお茶の席を立った。気のよい牧師に今日の来訪を霊廟の持ち主には話さないでくれるよう硬く口止めし、ささやかとは言いがたい額の寄付をすると、雨の中を墓地へと引き返していった。
霊廟の前ではリーマスがまるで時間が止まっていたかのように、別れたときの姿のまま立ち尽くしていた。辺りが暗くなっていることにも雨が降っていることにも気がついていないらしい。彼の沈黙を破ることは気が引けたが、このままでは身体が参ってしまう。それを『あの人』が望むわけもない。
そう自分に言い聞かせると、シリウスは驚かせないようそっとリーマスの腕を取った。
俯いていたリーマスは夢から覚めたように振り返ったが、心配そうに表情を窺うシリウスに声をかけようとはしなかった。
墓地を訪れて以来、リーマスとの溝は浅くなった、とシリウスは感じるようになった。見え透いたご機嫌取りをして、とかえって機嫌をそこねても仕方ないと覚悟を決めていただけに、彼はホッと胸を撫で下ろした。リーマスは他人の好意を素直に受け取るタイプであるらしい。
後日シリウスが改めて謝罪すると、
「もういいよ」
とリーマスは受け入れてくれた。自分にも咎があったことを認め、シリウスを許した。お互いの非を許しあい、おかげで二人の仲はどうにか決裂せずに済んだのである。
それからのシリウスとリーマスの仲はかろうじて『友人』と呼べるものであった。身体の関係は途絶え、一緒に散歩をしたりカードをしたりする仲に戻った。リーマスは相変わらず屋敷の外には出たがらず、シリウスに何かを要求することも無かった。
穏やかな日々は長く続いたが、シリウスにとっては複雑な月日だった。彼は今でもリーマスのことが好きだったし、できれば彼にも自分を好きになってほしいと思っている。だが、気持ちを押し付けて同じ過ちは繰り返したくなかったし、何よりリーマスに嫌われるのはご免だ。
嫌われるくらいならば、何事も無い友人の関係の方がまだましだろう。
それでもふとした瞬間、シリウスはリーマスに愛しさを感じたし、欲情も覚えた。ただ傍にいるだけというのが辛く思えることもあった。
結局リーマスの心を占めているのは『あの人』なのだ。自分でも友人でもなく、もう二度と会えない故に思いが募るばかりの『あの人』。友人はリーマスが伯爵を『神格化している』と言ったが、なるほどそれもあながち間違いではなかったようだ。
思い出は必ず美化されてゆく。ましてやそこに後悔や慙愧の念があれば尚更だ。リーマスの中で伯爵は神にも等しい存在に昇華されていることだろう。思い出という芳しい鋼鉄の花園に他人の入り込む余地は無い。伯爵が亡くなった今となっては、思い出を覆す方法は無く、美化はどこまでも進み続ける。となれば醜い現実に属するシリウスなど、永久に太刀打ちできはしない。
それでもシリウスは何とかリーマスを現実につなぎとめ、そばに自分がいることを印象付けようと試みた。リーマスを喜ばせることはできないものかと模索し、よき友人であろうと努めた。思い合うことが叶わないならばせめてと願ってのことだが、それは覚悟した以上の苦痛をシリウスにもたらした。
友人が感じた無力感を自らも体感したシリウスは、同じように疲弊してゆく自分をどうすることもできなかった。リーマスは伯爵以外にもう二度と心を許さないのではないかという疑念が、いつしか確信に変わっていた。自分はリーマスを変えることはできない。絶望に似た諦めがシリウスを落胆させ、事あるごとに苦しめた。
リーマスはシリウスを必要としていない。彼が求めるのは『あの人』だけ。ならばいっそ、離れていたほうがいいのではないか。
日に日に悩みを深くするシリウスの元に、彼の背中を押すかのように一つのニュースが届けられたのは、再び巡ってきた春のことだった。
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